▽驟雨の秘め事

本格的な夏を前にして、パルスの王都は天上の神から恵みを賜った。雨である。
侵略の折に破壊された用水路が復旧したと言っても渇水期に降る雨はやはり有難いもので、曇り空を見上げる市民の表情はどこか明るい。
「この時期の雨は有難いですなあ」
「ええ、本当に。植物達もきっと喜んでいるでしょう」
見張りの兵と会話を交わす名前の腕には何冊かの書物が抱えられている。
雨で中庭での作業が出来なくなったところを、書庫の整理の手伝いに駆り出されたのだ。
「中まで御持ちしますよ」と親切に声を掛けてくれた兵の申し出を丁重に断り、名前は書庫の中へと入った。
書物の劣化を防ぐために高い位置に窓があるためか、昼間でも日没後のように薄暗いそこはひんやりとしている。
室内の多くは片付けられていたが、完全にとは言えず、所々侵略の爪痕が残っていた。
エクバターナが陥落した際には王立図書館に収められていた書物が尽く焼き尽くされたという。ルシタニアの侵略がパルスにもたらしたのは人的被害だけではなかったのだ。
「芸術というものは破壊から創造が生まれることもある。そうして途方もない時間をかけて伝承されていく、それがたまたま我らが生きている間に起こっただけのことだ」、これは名前の伯父であり宮廷画家である男性の言葉である。
パルスが戦火から生き残った人々の手で再建されているように、文化もまた途方もない時間をかけて再建されていくことを信じ、名前は丁寧に書物を棚に収めていく。

指示されたのは書物を指定の場所に収めていくだけの単純作業だったが、やっていく内に名前はだんだん面白くなってきてしまった。元々凝り性の気があるので、その内書物を収めるだけでは飽き足らず、布を持ってきて棚の掃除まで始める始末である。
そうして始まった書庫の整理は、予定していた時間を大幅に超えてしまった。
そのことを名前に思い出させたのは、聞こえてきた早い足音と、薄暗い視界の隅で光った金色の鋭い瞳だった。
声を上げる暇もなくぐいと腕を掴まれ、身体を反転させられたかと思うと、顔の横に両腕が突き立つ。逞しい筋肉を伝った雫がぽたりと床に落ちた。名前は自分を腕と棚の間に閉じ込めている人物を見上げた。
「ダリューン様」
そんなに大声を上げたつもりはないのに、名前が発した声は石造りの室内によく響いた。
声に戸惑いが含まれているのは、名前を見つめるダリューンの顔がどこか不機嫌だからであろう。
「……俺より書物の方が大事か?」
永遠にも等しい時間を見つめ合った末に、ダリューンが拗ねたように呟いた。
名前は一瞬言葉の意味を図り損ねて瞼を瞬かせたが、やがて「あ……」と小さく声を上げてダリューンから視線を逸らした。
今日は数日間王都の外へ巡察に出ていたダリューンが王宮に帰還する日だったのだ。
事前に期日は知らされていたのに、名前は書庫の整理に夢中になってしまいすっかり忘れていたのである。驟雨の中帰還したのに妻は出迎えることもなく書庫の整理に夢中だったなど、夫であるダリューンが不機嫌になるのも無理はないというものだろう。ダリューンの口から溜め息が漏れた。
「も、申し訳ございません……!!」
しゅんと項垂れて名前は謝ったが、ダリューンから返事はない。余程怒っているのかと恐る恐る顔を上げたと同時にダリューンの顔が近付き、唇が重なった。
「んっ……」
貪るような口付けに名前は驚き、ダリューンの湿ったマントを掴んだ。ダリューンの片手が服越しに背筋をなぞっていく。そのぞくぞくとした感覚から逃れるように身を捩った拍子に書物が落ちて音を立てた。
「大きな音を出すと気付かれるぞ」
唇が触れ合う距離でダリューンが呟いたことで名前は頬を限界まで赤く染めた。
忘れかけていたが、ここは王宮の中で、誰に見られるか分からない状況なのだ。
名前は涙の膜を張った瞳で「止めて」と訴えたが、ダリューンはその反応にむしろ楽しそうに目を細め、再び名前の唇を貪った。背筋をなぞっていた手はいつの間にか尻を撫で上げている。呼吸も胸の鼓動も上昇していき、身体はさらなる快楽を欲するように熱くなっていた。
そうして遂に膝の力が抜けて崩れ落ちそうになった名前を、ダリューンが片腕で抱き留める。
「ダリューン……っ」
濡れた唇を親指で拭ったダリューンが「この続きは夜だ」と不敵に笑って囁いた。
それに対して顔を思いきり逸らしてみせるのが今名前に出来る精一杯の抵抗だった。もっとも、喉の奥で低く笑ったダリューンがそうして晒け出された首筋に唇を寄せたことで、すぐにダリューンの方へ向き直らざるをえなかったのだが。
「からかわないでっ」
「分かった分かった、文句なら寝台の中で聞くから今は静かにしていてくれ」
「ま、全く分かってない……!!」
驟雨は未だに止むことがなく地を潤し、雫が落ちる音で2人のやり取りをかき消していた。

150815
Thanks:亡霊

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