△策士は誰?

「名前殿!」
中庭の花をダリューンの執務室へ持って行くべく王宮の廊下を歩いていた名前は、背後からの声に足を止めて振り返った。
「キシュワード様」
名前を呼び止めたのは立派な顎鬚を蓄えたかつての万騎長の1人であるキシュワードだ。
ルシタニアの侵略から王都を取り戻し、アルスラーンによる新体制が敷かれた現在では、大将軍という名誉ある役職に就いている。夫であるダリューンの上官にあたる彼に名前は跪いて頭を垂れようとしたが、「いや、そのままで構わん」と制止されてしまう。
「ちょうどよいところに」
「キシュワード様、私に何か御用でしょうか?」
「うむ、実は名前殿にしか出来ぬことを頼みたいのだ」
いやに真剣な表情のキシュワードに、名前もよほど重要なことなのだろうと身構えた。そうして聞かされた内容は確かに名前にしか出来ないことである一方、名前を呆れさせることでもあった。
「かしこまりました、それでは夕刻までには必ず」
「よろしく頼む」
一礼し、去っていく名前の背中を見ながらキシュワードが「……これで少しは改善されると良いのだが」と呟いた。

空は快晴、夏の暑さを和らげるように時折風も吹いている。こんな絶好の練兵日和に、大人しく執務室に篭っていられるはずがないと早々に判断したダリューンは手早く出掛ける準備を整え始めた。アルスラーンらとの朝議を終え、執務室に入ってからまだ数刻も経っていない。
城外に出る前に中庭に寄って妻の顔を見ていこうと思いながらダリューンがマントを羽織った時、「失礼致します」という女性の声が扉の外から聞こえてきた。
「名前」
「ああ、間に合ったようで何よりですわ」
扉を開けた先に立っていた妻、名前がダリューンを見上げて言った。
「シャブラングの脚は早いですから」
「どうした、急用か?」
「ええ」
頷いて、名前は身体を横にずらした。後ろにはダリューンの部下の兵士が控えており、紙の山を抱えている。
「大将軍キシュワード様より、こちらの書類を御預かりしてまいりましたの」
「な……」
ダリューンは言葉を失って名前を見た。兵士が抱えている紙の山はダリューンがキシュワードに体よく押し付けたものだった。まさかこのような形で返ってくるとは想像もしていなかった。
何とか言い逃れようとしていたダリューンに名前が不自然な程にこにこと微笑みながらさらに追い討ちをかける。
「ちなみに期限は本日の夕刻までにとのことですわ。まさか、きちんと処理して下さるのでしょう?」
「……し、しかし俺にはこの後予定が」
「練兵ならばキシュワード様が代わりになさるとのことですので、御安心を」
「名前」
「きちんと処理して下さるのでしょう?」
名前の笑顔の威圧に、不穏な気配を感じ取ったらしい兵士が縋るような視線をダリューンに向けた。そんな顔をしたいのはこちらの方だ、と思いつつダリューンは大人しく兵士から紙の山を受け取ったのだった。

「御仕事に口を挟むつもりはありませんでしたが、今回ばかりは口を挟むことを御許しください。城外に出てばかりでなく、机上の事務も少しは御自分でなさいませ」
「す、すまん……」
晴れ晴れとした表情の兵士を下がらせた執務室で、ダリューンは名前から説教を受けていた。
これまでそれとなくキシュワードに机上の事務を押し付け、自分は頻繁に城外へ出ていたことが遂に妻の耳にも入ったようだった。
一連の行動の裏には「妻もほとんど帰らない自宅と官衙とを往復するだけの日々が性に合わないから」というダリューンなりの理由があるのだが、それを今言うことは火に油に注ぐようなものだろう。
「とにかく、今日は処理が終わるまでここで見張らせていただきます」
「……どうしてもか?」
「キシュワード様の御命令ですので」
揺ぎのない視線で着席を促され、完全敗北を悟ったダリューンはマントを脱いで座り、ペンを取る。名前は机の前に置かれている来客用の長椅子に座り、提げていた籠の中から裁縫道具を取り出した。窓から射し込む陽の光に照らされている大量の書類の山を見た後、ダリューンは名前に慈悲を願う視線を送ってみたのだが、既に名前の関心は手元の縫い物に向けられている。そうして無言の願いは無言の内に退けられ、ダリューンの長く孤独な戦いが始まった。

「そういえば、先程すれ違った兵が名前様を褒めていらっしゃいましたよ」
ダリューンが名前の監視の下書類と戦っている頃、ナルサスの執務室に書類を届けていたエラムの言葉を聞いて、部屋の主は呆れたように「どうせまた何かお転婆でもしたのだろう?」と言った。
「結婚したのだから少しは大人しくしていてくれるとこちらの心配も減るのだがなあ」
「御言葉ですが、名前様がああなられたのには私達にも責任があると思います」
「……それで、兵は何と言って名前を褒めていたんだ?」
名前に護身術や馬術を教え、お転婆ぶりに拍車をかけた張本人である宮廷画家が強引に話題を変える。今度はエラムが呆れる番だった。
「御安心を。兵が褒めていたのは名前様の勇ましさではなく、常日頃書類の処理から逃げ回っていたダリューン様に見事処理を約束させたその手腕ですので」
「何と!それは素晴らしいな!大陸公路最強の男もやはり妻には頭が上がらぬか」
「そのようで」
「面白い、俺もこれからはダリューンに厄介事を頼む時はまず名前に相談してからにするとしよう」
「ナルサス様……」
意地の悪い笑みを浮かべた師匠の姿にエラムは大きな溜息を吐いた。

大きなくしゃみをして、ダリューンはペンを置いた。山を築いていた書類には全て目が通され、捺印もされている。窓の外の日はまだ高い位置にある。ダリューンは期限までに処理を全て終わらせることに成功したのだ。
「名前、終わったぞ」
今にも歓喜の涙を流しそうな兵に書類を託し、振り返ったが長椅子に座っている妻からは何の反応もなかった。代わりに聞こえてくるのは小さな寝息だった。よく見れば、縫い物の手は途中で止まったきり全く動いていない。
ダリューンは座ったまま眠っている名前を起こさぬように近付き、縫い物を卓の上に移してから仮眠用に置いてあった毛布を掛けた。
隣に腰掛け、巡察についての書類を眺める。本当は書類の処理が終わり次第すぐに練兵に行こうと思っていたのだが、熟睡していて無防備極まりない妻を1人残して行けるはずもなかった。
「これは大将軍殿に感謝せねばなるまいな」
呟いてダリューンは小さく笑った。自分が名前に強くでられないことを知って、彼女をけしかけてきたキシュワードに初めこそ「卑怯な」と抱いていた怒りは今や影も形もない。
誰にも邪魔されることなく妻と過ごせるつかの間の時を満喫しているダリューンの横顔は、とても穏やかなものだった。
「──ん……」
やがて名前が身じろぎし、ゆっくりと頭を上げた。
「起きたか?」
寝惚けているのかぼんやりしている妻に笑いを堪えながら問い掛ければ、一瞬の間を空けて名前が驚いた様子でダリューンを凝視した。
「えっ!?私、もしかして眠っていました……!?」
「ああ、ぐっすりとな」
「そんな……ごめんなさい、貴方が御仕事している傍で……」
「いや、もう終わったから大丈夫だ」
言いながらダリューンは名前の長い絹糸のような髪を指で梳く。名前はといえば、一度窓の外に視線を向けた後夫に視線を戻し、「それは良かったわ」と安堵した様子で言った。
「さぼっていた私が言えたことでもないけれど」
「あれぐらい可愛いものだろう」
「でも今度はきちんと起こして下さると助かるわ」
見上げた名前にダリューンは片眉を上げて答える。
「悪いが約束は出来んな」
「どうして?」
意地の悪い笑みを浮かべてダリューンは名前の額に唇を落とす。
「たまにはじっくり寝顔を見たいからな」

150815
Thanks:亡霊

- ナノ -