△特等席の話

苦心して育てた花が蕾をつけ、見事に開花した。その瞬間の喜びは、何度味わっても新鮮さが色褪せない。
「ほう、これは見事に咲かせたものだ。実に美しいな。きっと陛下もお喜びになられるだろう」
忙しい合間を縫って中庭を訪れたナルサスが嬉しそうに言った。
「俺としても実に鼻が高いというものだ。このように優秀な姪がいるのだから」
「ありがとうございます」
「だがひとつだけ不満を挙げるとすれば、お前の伴侶の男が芸術というものを理解する心を持っておらぬ点だな」
言わずもがなダリューンのことである。ナルサスとダリューンは親友同士であり仲が良いが、ナルサスの言う芸術が絡む時だけは意見が一致しないのだ。それはナルサスを伯父に持つ名前も十分理解していた。だが彼女もまた、ナルサスの芸術を評する時はどうしても伯父譲りの毒舌が出てしまうのだ。
「お言葉ですが伯父様、私はそれをむしろ良い点だと思っておりますわ」
「ぐっ……名前おぬし、感性があやつに似てきたのではないか……昔は俺の描く絵を凄い凄いと褒めていたというのに」
「昔は昔、今の私はダリューン様と夫婦でございます。共に過ごしていれば似てくるところもございましょう」
「おのれダリューンめ……」
数少ない味方をまんまと掠め取られたナルサスは恨めしそうに親友の名を呟いた。ちなみに名前がナルサスの絵を褒めていたのは彼女がまだ幼い頃の話である。「凄い」とは、何にでも精通している多才な伯父の手から生まれる絵が想像を絶するものであったからこそ出た言葉であり、自分とナルサスの間で認識の違いがあることに名前は数年前から気付いていたが、今更訂正する気も起きなかった。
「それに例え私が味方でなくなったとしても、伯父様にはアルフリードという頼もしい味方がいらっしゃるではありませんか」
「あ、ああ……それは、そうかもしれんが……」
名前は褒めるつもりで言ったのだが、ナルサスはそうは受け取らなかったようである。何故そう受け取らなかったのか、それはナルサス本人が一番よく分かっているというものであろう。

大きな糸杉の木の枝は、男性の庭師の手によって綺麗に剪定されいる。枝の先についた瑞々しい色の葉は、熱気を含んだ風にさわさわと揺れた。
木陰に座り、名前は紙に向かってペンを動かしていた。せっかくなので咲いた花を写生しているのだ。
時間も忘れてしばらく集中していたが、不意に視界に陰が射したことに気付いた名前は顔を上げた。その瞳に夜の闇のような黒色が映る。
「ここに居たのか」
「ダリューン様」
傍に立っていたのは夫であるダリューンだった。自分を探していたのかと立ち上がりかけた名前を片手で制し、「隣に座ってもいいだろうか」と問う。断る理由がない名前は「勿論ですわ」と頷いた。胡座をかいて座ったダリューンを隣に迎え、名前は夫の顔を見上げた。
「お疲れのようで」
「そう見えるか?」
「心配症ですから。今度差し入れを持って行きますわ」
「いつもすまないな」
「いいえ」
申し訳なさそうに眉根を下げたダリューンに、名前は首を横に振った。
「お忙しいのにいつもこうして会いに来て下さるのですもの。報いたいではありませんか」
ダリューンが結婚前と変わらずわざわざ中庭まで足を運び、名前に会いに来ているのには、愛する妻の顔を見て英気を養うという意味の他にも、人妻となっても名前が兵達の間でなおも衰えぬ人気を誇っていることを密かに危惧しての意味もあった。
要は隙あらば王宮の美しい庭師を口説き落とさんと躍起になっている男共を一人でも多く挫けさせたいのだ。無論、名前は水面下でそんな攻防戦が行われていることなどつゆ知らず、日々を草花と共にのんびりと過ごしているのだが。
「ところで熱心に何か書いていたが、何を書いていたんだ?」
「育てていた花が咲きましたので、絵に残しておこうと思いましたの」
名前が少し恥ずかしそうに紙を見せると、ダリューンが「これは……」と目を丸くさせて絵に見入った。
「とても上手だ、ナルサスの姪とは思えん……」
真剣な表情で褒めるダリューンに、名前は頬を染めて「あ、ありがとうございます……」と礼を述べ、ダリューンの次の言葉を待った。
「貴女さえよければ続きを描いているところを隣で見ていたいのだが……構わないだろうか」
まるで捨てられた子犬のような目で頼まれ、無下に断ることなど名前には出来るはずもなかった。「その目はずるい」と言いたいのを堪えて、名前は頷く。
そうして木洩れ日の中、名前は無心でペンを動かしていたが、ふとあることに気が付いて隣を見た。それまで優しい眼差しで紙と自分を見ていたダリューンが、いつの間にかうつらうつらと舟を漕いでいたのだ。頭が頼りなさげに上下に揺れている。
名前はペンを置いて、ダリューンの顔を覗き込んだ。眉間には皺が寄っていた、やはり疲れているのだろう。どうしたものかと少し考えた後、名前はダリューンの身体に手を伸ばした。

今日も今日とて始まったエラムとアルフリードの口喧嘩から逃れたナルサスは、廊下で偶然ダリューンを探しているという兵士に出会った。行き先も告げず、執務室から忽然と姿を消した親友が向かう場所など2つに1つである。「自分が今から行く場所にダリューンもいるだろうから伝えておこう」と貧乏くじを引いた兵士に告げ、ナルサスは中庭へ向かって歩を進めた。
「……おいおい」
そしてそこで見た光景に思わず溜め息を吐き出したのだった。
「お静かに、伯父様」
近付いてきたナルサスに気が付いた名前が唇の前に人差し指を立てる。
「お疲れのようでしたので」
名前の膝の上ではダリューンがいわゆる膝枕の体勢で寝息を立てていた。熟睡しているらしく、名前が彼の身体を動かしても起きなかったのだ。
「全く、この幸せ者め……」
そう毒づいてナルサスは熟睡している親友の顔を見た。ナルサスは知らなかったが、ダリューンの眉間の皺は今やすっかり姿を消していた。
「ギーヴやクバード卿が知ればたいそうからかわれるであろうな」
名前を姪でありながら実の妹のように可愛がっていたナルサスとしては、彼女の夫が自分の親友であることに誇りと安心感を抱いていたが、同時にやはり少し面白くないとも思うのである。呑気に良い思いをしている親友を困らせてやろうかと、ナルサスの瞳が意地悪そうに輝いた。
そして彼の予感は的中した。
王都の外へ出掛けていたギーヴとクバードが連れ添って名前に会うべく中庭を訪れ、この光景を目撃してしまったのである。やれ「ずるい」「代われ」だなどと騒ぎ立てたせいで目を覚ましたダリューンが状況に気付き、顔を真っ赤にして彼らに食ってかかったことは、言うまでもない。
「よく眠れましたか?」
放っておけばいつまでもからかい続けそうだった彼らを何とか追い払ったダリューンに、名前が笑いをこらえながらそう問えば、未だに赤が引かない顔のままダリューンが「ああ……」と頷いた。
「とても良い夢を見ていた気がする」

150728
Thanks:亡霊

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