明かりを落とした寝室に、2つの荒い呼吸が響く。
遠征から帰還したダリューンはアルスラーンに帰参の挨拶をしたその足で妻である名前を邸宅に連れて帰り、寝台に押し倒した。
文句は後々聞くとして、一刻も早く妻の温もりに触れたかったのだ。
欲に忠実な己を叱咤しながらも、妻の身体を貪る手は止められなかった。
「ダリューン……っ」
果てる直前に妻の唇が己の名前を紡いだ。
ああ、この声を聞きたかったのだ。

人の動く気配がして、ダリューンはゆっくりと目を開けた。いつの間にか眠ってしまっていたらしい。視線の隅に明け方の空の色が見え、差し込む陽の光に照らされて寝台に腰掛ける名前の姿に気付く。
羽織っている薄い肩に不釣り合いな大きな黒い上衣は、昨晩ダリューンが脱ぎ捨てた服だろう。
髪も乱れたままで、紅玉のような瞳を瞼の下から半分程覗かせて微睡んでいる無防備な姿に、どうしようもない愛おしさがこみ上げてきて、ダリューンは名前の腕を引いて寝台に倒した。ひらりと上衣の袖が舞った。
昨夜散々唇を寄せた首筋に素知らぬ顔で再び唇を寄せようとしたが、上衣の前を閉じた名前がぷいと横を向いてしまい、それは叶わなかった。
「名前」
「そのてにはのりません」
涸れている声に、昨晩無茶をさせすぎてしまったことが思い出された。
「わたしはあなたのつまです。だからこういうこともいやではありません。でも、つまのやくめはそれだけではありませんわ」
伸ばされた名前の手が頬を滑り、ダリューンの鼻を摘んだ。
「貴方が好きなのは私の身体だけ?」
そうして寂しそうに眉尻を下げて紡がれた言葉にはっとしたダリューンは、昨日の自分の行いを猛烈に恥じた。会話もそこそこに性急に事に及んだのだから、そう思われても仕方が無い。
名前は1人、無事の帰還を祈って待っていていてくれたというのに。
ダリューンは名前の上から退いて姿勢を正すと「すまなかった」と頭を下げた。
「貴女の気持ちも考えず、事に及んでしまった。
だが誓って俺は貴女の身体だけを愛しているわけではない……!!」
起き上がった名前はダリューンの謝罪の言葉を黙って聞いていたが、やがて「いつも言ってくれる言葉を言ってくれたら、許します」と口元を緩めた。
名前の宣言にきょとんとしたダリューンは昨晩からのやり取りを思い返し、その言葉を伝えることすら忘れていたことに気付く。
「大いに恥ずべきことだな、それ程までに余裕を失っていたとは……」
「そうよ、珍しく瞳がとてもぎらぎらしていたもの」
「本当にすまなかった……ただいま、名前」
「おかえりなさい、ダリューン」
妻の言葉を聞いて、ようやく帰ってきたという実感を得た気がした。それを噛み締めていると、ダリューンの名を呼んだ名前がダリューンに抱き着いてくる。
返事をする間もない突然のことに驚いて、ダリューンは抱き着いてきた名前ごと仰向けに倒れてしまう。
くすくすと笑っている名前に破顔したダリューンも笑い声を上げる。体勢を変えてダリューンが名前を上から抱き締める形になれば、下から「重いわ」と笑い声が聞こえてきた。
身体は離したが、その際に合った視線は外されることなく、見つめ合った後に名前がそっと目を閉じた。
それを合図にダリューンは名前の唇に己の唇を重ねる。何度か軽い口付けを繰り返し、名残惜しむように唇を離す。
「……やはり貴女とは離れがたい」
遠征の度に抱く思いを思わず口にすれば、名前も目を細めて「そうね、私も寂しいわ」とダリューンの手に触れる。
「でもこうして無事に帰って来て下さったのだもの、今日からまた一緒に過ごせるから嬉しいわ」
「そうだな……俺も同じ気持ちだ」
名前の手を握り返し、ダリューンは頷いた。
「今日はゆっくりするか?それとも出掛けるか?」
「うーん……ゆっくりしたいわ。貴方は?」
「俺もゆっくりしたいな」
「決まりね」
笑った名前が欠伸をして、横になったダリューンの胸に擦り寄った。
「眠いのか?」
「まだ寝足りないみたい。もう一眠りしても良い?」
「もちろん」
「ありがとう」
お礼を言って瞼を閉じた妻につられて、ダリューンも瞼を閉じる。胸の中の温もりが心地好かった。

□■□■□

次に2人が目を覚ましたのは、太陽がほぼ真上に来る頃だった。
「お互い寝坊だな」
「そうね、休日の特権だわ」
笑い合って起き上がり、軽く湯浴みをして朝食兼昼食を食べる。ごくごく普通の日常の慣習も、共にする者とひとたび離れてみると何十年も前のことのような、酷く懐かしいことであるようにダリューンには思えた。
隣で食べ終わった皿を洗っている名前の細い腰を抱き寄せて、悪戯に額に唇を落とせば、「くすぐったいわ」と密やかな笑い声が耳に優しく落ちる。
「甘えん坊さんですこと」
「貴女にだけだ」
ダリューンの言葉に「もう、お上手なんだから」とはにかんだ名前が背伸びをして頬に唇を落とした。
「洗い終わったらお見せしたいものがあるのよ」
悪戯っ子のように言った名前に、ダリューンは目を瞬かせる。
そうして自分より小さく白い手に手を引かれ、やってきたのは邸宅の中庭だった。
陽光に照らされた中庭を見て、ダリューンは目を見張る。隣では名前が微笑んでいる。
「綺麗に咲いたでしょう?」
「これは……」
結婚するまで雑草の手入れしかされず長らく殺風景だった中庭は春の訪れを迎えた今、ラーレやスミレ、シャクヤクといった花々で美しく彩られていた。
植物に詳しくないダリューンはこの邸宅を賜って以来、中庭や庭に加えて手を入れることも、留守を預かる老夫婦に指示を出すこともせずにいたのだが、名前と結婚してからは彼女に管理を一任していたのだ。
妻の努力と苦労が実を結び、作り出された自然美に、感嘆の溜め息を吐いたダリューンは「本当に美しく、素晴らしい中庭だ」と名前に言葉をかけ、蝶が舞う中庭をしばらくじっと見つめていた。
隣に立っていた名前が一度家の中へ戻り、再びダリューンの隣に並んだ時には盆に2人分の盃と焼き菓子を乗せていた。
遠征に行く前に彼女に頼まれて作った長椅子に腰掛け、茶を飲みながら庭を眺める。
名前が長椅子を望んだのはこのためだったのだろうと、ダリューンは穏やかな表情で同じように庭を眺めている名前の手に手を重ねた。
手が握り返され、指が絡む。
「貴方に1番にお見せしたかったのよ。王宮の中庭は陛下が1番だったから。夏にはアジサイがゼラニウムが咲いて、秋にはコスモスやランタナ、冬にはサザンカやヴィオラが咲くの」
「今のこの風景とはまた違ったものを何度も貴女と一緒に見られるのか、それは楽しみだ。しかも景色も貴女も俺が独り占め出来るとは」
「もう、さっきから一体どこでそんな口説き文句を覚えてくるの?」
恥ずかしそうに頬を染めて笑った名前にダリューンもつられて破顔した。
春の穏やかな陽射しの下に、一組の夫婦の笑い声が響いていた。

惜しまれつつも陽が沈み、夜色の空に星々が散りばめられ輝きを放っている。
入浴を済ませたダリューンが寝室の戸を開けると、名前が窓の外の空を眺めていた。
ダリューンに気付くと帳を降ろし、明かりを小さくした。
2人で寝台に横になると、名前が身体をすり寄せてくる。柔らかい髪がくすぐったい。
「どうした?」
「本当に帰って来て下さったのだと思って。独り寝は寂しかったから……」
「俺もそうだった」
愛しい妻の身体を抱き締め、額に唇を落とす。
遠征の間、求めてやまなかった温もりだった。
唇は下へと降りていき、名前の瞼が閉じられたのを合図にふっくらとした唇へと重なった。
慈しむように、愛しさを込めて軽い口付けを繰り返す。
「ん……だりゅ、ん」
吐息混じりに名前を呼ばれ、応える代わりに抱き締める力を強めた。今すぐ彼女の寝間着を剥ぎ取って、本能の求めるがままに身体を貪りたいという衝動に駆られたが、今朝のやり取りを思い出し自制する。昨夜は加減をせずに抱いてしまったのでこれ以上の無理を強いるわけにはいかなかった。
ダリューンが唇を離すと、止めないでとでも言うように名前が自ら唇を重ねてくる。
「ダリューン」
「名前」
唇が触れ合う距離で名前が再び名前を呼ぶ。
「ダリューン」
「ここに。貴女の隣に」
とびきりの愛おしさを込めた何度目かの口付けは、忠誠を誓う証のようだった。
抱き合って眠り、そしてまた朝を迎える。
すうすうと寝息を立てて眠る妻を起こさぬように起き上がったダリューンは敷布に散らばる柔らかい陽の光のような色の髪に唇を寄せた。
「ん……」
不意に名前の唇が動き、身体が身じろぐ。
「だりゅーん……」
寝言で名前を呼ばれ、思わずどきりと心臓が音を立てた。夢でも見ているのだろうか、幸せそうな顔で眠り続ける妻の頭を撫でて、ダリューンは寝台から降りた。
目を覚まして、王宮で会ったらどんな夢を見たのか聞いてみるか、と思いながら。
帳の間から射し込む陽光が、愛しい人が傍にいる新たな1日の始まりを告げていた。

160703
Thanks:へそ

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