王としては「質素すぎる」生活を好むアルスラーンの唯一の贅沢といえば、熟れた果物をお腹いっぱい食べること、というのは王宮に務める者であれば誰もが知っている事実だろう。
王といえば、美女を侍らせ美酒美食を好きなだけ貪るというのが常例であるが、大国パルスの若い国王はそれを是としないのだ。それは彼が幼少期の一時を豪奢な王宮ではなく、城下の一角で質素に暮らした経験を持ち、その時の思い出をかけがえのない物として今でも大切に抱いているからかもしれない。
さて、いくら王が質素好きと言えど、臣下までもが彼の温情に甘えてばかりでは民に示しがつかない。アルスラーンがいつでも好きな時に果物をお腹いっぱい食べられるように、王宮には国内各地から季節を問わず果物が大量に届けられていた。
その中からさらに形が良く、美味そうであるものが選ばれ、王の前に献上されるのだ。
無論、遠くから運ばれてくるものもあるので、届けられた果物全てが献上されるわけではない。味には問題がないが、形が悪いものや傷がついているものは必ず出てくるのだ。
「まあ、こんなに沢山……頂いてしまってよろしいのですか?」
「ええ。私達で食べるには多すぎますから」
差し出された籠の中には、皮に傷がついている林檎や実の大きさが不揃いな葡萄がぎっしりと詰められていた。
いつもは女官たちがこっそり食べて処分しているらしいが、偶然女官に出会った名前も今回、その恩恵に預かる機会を得たのだ。
「どうかエラム様と女官長にはご内密に」
「分かりましたわ。ありがとうございます」
悪戯っぽく笑った女官に微笑み返し、名前は布が掛けられた籠を受け取った。
歩きながら、この果物をどう食べようか考える。葡萄は洗ってそのまま食べて、林檎は切って食べるのも良いし、煮詰めてメイザートにするのもいいかもしれない。結婚の際に貰った砂糖がまだ邸宅に残っているはずだ。こんなに沢山あるのだから、夫であるダリューンと食べてもすぐには無くならないだろう。
2人で果物を摘みながらのんびりと過ごす時間を想像して、名前の顔は自然と綻んでいた。
「……あ」
紅玉のような瞳が、向かい側から歩いている人物を見つけて、きらりと輝く。

愛する妻が庭師として1日の大半を過ごす中庭を訪れることはダリューンの中で日課となっているが、残念ながらすれ違ってしまうことも少なくない。
中庭はいつ来ても完璧に整えられ、美しさを維持しているが、どことなく彩りに欠けるのは、麗しい主が不在だからだろう。
今日は机上の事務も少なく暇なので、ダリューンは身体を動かすことも兼ねて、妻の姿を探して王宮内を歩いていた。
広い回廊の横には草木が生い茂っている。そこに咲いている花に目を留め、名前から教えて貰った花の名前を思い出していたダリューンの視界の隅で、見慣れた白い腰紐がひらりと揺らめいた。
誘われるように回廊を進んで角に差し掛かると、向こう側から細い腕が伸びてきて、ダリューンの手を掴んで引っ張る。白く、指先が少し荒れている小さな手を、ダリューンはよく知っていた。
引っ張りこまれたのは、予備の松明や武器が保管されている小部屋の前だった。決して広くはなく、人目につかない場所にダリューンを引っ張り込んだ女性……名前は、にこにこと嬉しそうな笑みを浮かべている。
「何か嬉しいことでもあったのか?」
つられてダリューンも名前に微笑みかけた。
「ね、目を瞑ってくださいな」
ダリューンの言葉に笑みを深くした名前が、言うなり自分の身体を寄せて顔を近付けてきたので、ダリューンは彼にしては珍しく慌てて言われた通りに目を瞑った。
誰が見ているか分からない王宮内で、名前の方から「そういうこと」をしてきたことに驚いてもいた。
ふに、と唇に当たった物の違和感に目を瞑ったまま口を開けたダリューンは、舌の上に乗った酸味を持つものを咀嚼してから目を開く。
「これは……葡萄か?」
「正解よ。美味しいでしょう?」
名前を見れば、たわわに実った葡萄の房から実を1つ取って口の中に入れて「ん、美味しい」と幸せそうに笑っていた。口付けを期待したのだが、してやられたらしい。
そのことが顔に出ていたのか、葡萄の実を飲み込んだ名前がにんまりと笑って「驚いた?」と尋ねてきたので、「ああ、驚いた」とダリューンは名前の細い腰を抱き寄せた。
そのまま唇が触れる距離まで顔を近付け、固まった名前の耳に「俺はてっきりこういうことをしてくれるのかと思ったぞ」と囁いた。
柔らかな陽の色の前髪の下にある額に唇を寄せてから表情を伺えば、名前は赤く染まった頬を膨らませていた。
「貴方はいつもそうやって意地悪ばっかり」
「俺もやられっぱなしは性に合わぬのでな」
一方で真実であり、一方で建前の言葉だった。
可愛らしい仕草や表情で男達を無意識の内に魅了している妻の気を引きたくて、もっと色々な表情が見たくて、ダリューンは名前を頻繁にからかってはその度に叱られているのだ。
拗ねた表情に愛らしさを感じて、目を細めて名前の頬を指で撫でれば、腕の中で名前がくすぐったそうに身を捩った。
「……そういえば、その葡萄はどうしたんだ」
「形が悪いけれど食べられるからと女官の方から頂いたのよ、女官長やエラムには秘密でね」
「ほう、秘密か」
「そう、秘密よ」
梳いていた髪が、触れていた温もりが魔術のようにするりと手の中から消えていく。
回廊から差し込む陽光を背に、名前が人差し指を唇に当てて妖艶に微笑んだ。
「でも貴方も食べたから私と同罪よ、いけない人」

やわらかな瞠目

----------------------
「花咲く」様に提出。
素敵な企画をありがとうございました!

151007
Thanks:リラン

- ナノ -