ギランはオクサス河の河口に位置する巨大な港町である。南側に無限の大海を有しているので諸外国の貿易と漁業で生計を立てている者が多い異国情緒溢れる街だ。
この地には数年前、当時王太子だった現王アルスラーンが訪れ、繋がりを作ったことで前王アンドラゴラス三世の御世より王都との関係を密にしていた。
陸路だけでなく海路も積極的に利用することによって、ルシタニアに蹂躙された国土のいち早い復興と商業の発展に一役買っているのである。
夏の日差しに瑞々しい色の葉が光る。
「さあ、奥様はどうぞこちらへ」
「──わあ……!!」
白い壁と樹木に囲まれた庭に案内された名前は、紅玉のような瞳を輝かせ感嘆の声を上げた。
人魚を象った噴水や蔦と蔓を絡めた東屋、蓮の葉を浮かべた池がある庭は、南方の植物で鮮やかに彩られていたのである。咲き誇る花々や生い茂る樹木はいずれも王都では手に入りづらい、あるいは気候の問題で育てることが難しいものばかりだった。
「美しい女性をお待たせしてしまうのは心苦しいが、庭師を呼んであるのでお待ちいただく間退屈することはないでしょう」
今回、夫であるダリューンだけでなく妻の自分も招いてくれたのは、かつてアルスラーン一行がこの地を訪れた際彼らに命を救われたことがある海上商人のグラーゼである。
「御心遣い感謝いたしますわ!」と名前は喜びの声を上げ、隣に立っているダリューンを見上げた。ダリューンが名前の様子に苦笑し、「あまり庭師を困らせないようにな」と言った。礼を言って一礼するや否や、庭に向かって駆けて行った名前に、グラーゼが笑い声を上げる。
「元気な奥様ですな」
「ああ、お転婆なところはあるが、自慢の妻だ」
心底嬉しそうな表情で庭を見て回っている名前を目を細めて見つめるダリューンの眼差しは優しく、愛おしさに満ちていた。
王都奪還に向けてギランに滞在していた頃見かけた花々や庭の美しさを思い出し、ぜひ妻にも見せてやりたいとギランへの巡察に連れて来た甲斐があったというものだ。
名前とは今日初めて会ったばかりのグラーゼが、面白そうな表情で呟いた。
「成程、かの有名な黒衣の騎士が一輪の花に恋をしたという噂は真実であったようだ」
「おいおい、ギランではそんな噂が流れているのか」
名前からグラーゼに向き直ったダリューンが再び苦笑する。
「間違ってはおらぬが、俺が結婚したのは人間の女性だぞ」
「では花の精の生まれ変わりの美女と結婚したと訂正しておくとしよう」
「確かに妻は美しいが……」
「ご不満か?では絶世の美女と?」
「いや、ごくありふれた女性ということにしておいてくれ。こちらでも美女という噂が広まって、悪い虫が寄って来るのは面倒だからな」
顎に手を当てた真剣な表情でそう言ってのけたダリューンに、グラーゼは胸の辺りを押さえて「ではそのようにしておこう」と愛想笑いを浮かべた。
黒衣の騎士と恐れられるこの男は結婚しても数年前と変わらぬようでいて、その実妻となった女性に心底夢中らしい。少なくとも真顔で惚気られるぐらいには、というのがグラーゼが今日得た教訓だった。

名前のどんな質問にも笑顔で答えてくれた庭師は現在、植物の種を取りに行って席を外していた。名前もただダリューンの巡察に付いてきただけではなく、王宮の中庭に植える植物の種や苗、撒く肥料等を買い付けるつもりでギランの地を訪れているのだ。
茂みに咲いている花に指で触れる。5枚の花弁を持つその花は女性達に人気の花らしく、邸宅に来るまですれ違った女性達が髪に挿していたことが記憶に新しい。ラーレのように赤い花弁が、雲ひとつない青空の色と相まって鮮やかに映えている。
そこへ黒と紫色の羽を持った蝶が飛んで来て、名前の指へとまった。色々な花に触れていたので、花粉や蜜が付いているのかもしれない。指を動かさずじっとしていると、やがて蝶は二三度羽を震わせると指から離れて何処かへと飛んで行く。
蝶の行方を目で追った先に、ダリューンが立っていた。いつ来たのだろうか。
「まあ、いつからいらしていたの?」
「驚かせてすまない、熱心に見ていたようなので邪魔をするのは悪いと思ってな」
「私の方こそごめんなさい、すっかり夢中になってしまって……お待たせしてしまった?」
「いや、この後予定はないから問題無い」
隣に並んだダリューンの手が伸びてきて、名前の髪に触れる。
「貴女もこの後何もなければ、街を見て回らないか?」
髪に絡んでいたらしい葉を丁寧に取ってくれたダリューンに微笑みながら、名前は「素敵ね、ぜひ連れて行って」と答えた。
「ギランには一度来たことがあったのだけれど、その時はゆっくり見て回れなかったから」
「絹の国から帰ってきた時か」
「そうよ。だからとても楽しみ」
「俺も貴女と過ごせることが楽しみだ」
そうして笑い合った2人が並んで花を愛でている頃、回廊には庭師と偶然その場を通りかかったグラーゼの姿があった。
「ダリューン卿は奥様に悪い虫が寄り付くことを心配していたが……あの雰囲気に割って入っていく度胸のある男なんざ、大陸公路中を探してもいないだろうよ」
出ていく機会を完全に逃して立ち尽す庭師の肩を慰めるように叩いて、グラーゼが1人ごちた。

□■□■□

愛しい人と待ち合わせをするというのは、こんなにも待ち遠しく、楽しみなものなのだなと思いながらダリューンは賓客用の屋敷の門前に立っている。
思えば結婚する前から頻繁に王宮で顔を合わせていたので、こうして名前と待ち合わせをする機会には恵まれなかったのだ。
手に持っている赤い花は、通りを横切った花売りから買ったものだ。先程旧王太子府の庭で名前が熱心に見つめていた花である。王都では見かけない鮮やかな赤色のその花は、妻の美しさに新たな輝きをもたらしてくれるだろう。
花を挿した名前の姿を思い浮かべながら花を弄んでいたダリューンの耳に、ぱたぱたと軽快な足音が飛び込んでくる。
「ごめんなさい、お待たせしてしまって……!!」
「いや、気にしないでくれ」
走って来たらしく、膝に手を付いて息を乱している名前の背中をダリューンは優しく摩る。
やがて息を整えた名前が顔を上げ、「改めて、お待たせしました」とはにかんだ。
柔らかな陽の色の髪は高い位置で結い上げられ、細い身体を夏らしい薄手の紗で出来た服が包んでいる。飾り帯の色は瞳より薄い赤色だった。化粧もしているのか、唇に塗られた紅が目を引く。
「綺麗だな」
心の中で呟いたつもりが、口に出ていたらしく、一瞬ぽかんとした名前が「ありがとうございます」と恥ずかしそうに微笑んだ。赤い瞳が、ダリューンが持っている花を捉える。
「そのお花、とても綺麗ね」
「ん?ああ、忘れるところだった」
少し屈んで、ダリューンは名前の髪に花をそっと挿した。
「……本当に他の男には見せたくないな」
妻の頬を撫でて苦笑すれば、「もしかして、口説いていますか?」と名前が悪戯っぽく笑って手を重ねた。
「そうだと言ったら?」
「あと一押しね」
名前がひらりと身を翻してダリューンの手を両手で握る。
「手を繋いでくれなきゃ不合格!」
名前が浮かべた笑顔は、ギランの太陽の光にも負けない眩しさを持っていた。

□■□■□

ギランは円型の湾に沿うように貿易港と漁港の2つの港が作られている。港の近くには当然町もあり、晴れ渡った夏空の下で賑わいを見せている。
王都エクバターナよりも多く異国語が飛び交っているのは、人口60万人の内三分の一が異国人だからであろう。
商人町の大通りでは市が軒を連ね、野菜や果物から珊瑚や真珠の装飾品までが様々な言語で売買されていた。
料理屋で魚介料理を存分に味わったダリューンと名前は現在、ゆったりとした足取りで大通りを歩いている。ダリューンと手を繋ぎ、興味深そうに辺りを見回していた名前の視線がある露店の前で止まった。それに気付いたダリューンは笑んで手を引いた。
「見ていくか」
「いいの?」
「遠慮などしなくていいのだぞ」
驚くほどの行動力と頑固さを見せる妻が時折覗かせるこうした控えめな一面がダリューンにはいじらしく、愛おしく思えるのだった。
日除けのために鮮やかな色合いの布が張られた露店には、珊瑚細工や貝細工の小物や食器、真珠の装飾品などが所狭しと並べられていた。
青い硝子が宝石のようにはめ込まれている二組揃いの杯や、揃いの意匠の真珠の耳飾りと首飾りが収められている箱を眺めていると、名前が貝で出来た小物入れを見て「素敵」と呟いた。
人の良さそうな店主に値段を尋ね、「買ってもいい?」とダリューンを見上げ、財布を取り出そうとした名前を制し、ダリューンは「そっちの真珠の装飾品とそこの杯も一緒に売ってくれ。幾らだ?」と自分の財布を取り出して言った。名前が「ダリューン!?」と驚いた声を上げて腕に縋る。
「普段あまり一緒にいてやれないのだから、これぐらいはさせてくれ」
半ば強引に押し切る形で買い物を済ませたダリューンに店主が釣銭を渡しながら「お熱いね」と笑った。
「ああ、自慢の妻だ」と微笑みながら返せば、隣の名前の顔が赤く染まったのが横目にも分かって、ダリューンは破顔した。

先程まで澄み渡っていた空は今やどんよりとした雲に覆われ、地面を雨粒がしとどに濡らしていた。雷鳴轟く驟雨は、ギランの夏の名物らしい。
突如降ってきた大粒の雨に動じることもなく、「すぐに止むよ」と言ってのけた店主が指差した大きな軒先の下で雨宿りをしながら、ダリューンはちらりと妻の顔を盗み見た。
顔は平然としているが、雷鳴が轟き、稲光が空に走る度に、ダリューンの服を握る指が小刻みに揺れている。普段は雷が鳴っても平気な様子なのに、どうしたというのだろう。
「名前」
「な、なんですか?」
「もしかして、雷が怖いのか?」
ダリューンが尋ねたと同時に轟音が響いた。
「ひゃっ!?」と悲鳴を上げた名前に、ダリューンは答えを聞くまでもなかったかと名前の手を握った。気遣われたことに気付いたらしい名前がきっと顔を上げる。
「こっ、怖くなんかありませんわ!」
「何でそこで嘘をつくんだ……」
裏返った声に小刻みに揺れる手でそう言われても説得力などあるはずもない。心配させまいとしているのか、それともここで負けず嫌いな一面が出たのだろうか。
「これだけ激しいのだから、怖くて当然だと思うがな」
「……普段は本当に平気なのよ……でもこれだけ激しいのは、船で絹の国からパルスに戻る時に激しい嵐に遭ったことを思い出すから……」
握った手に力が込められたことに気が付いて、ダリューンは指を絡めてしっかりと繋ぎ直す。
1歩分距離を詰めた名前の頭がダリューンの肩に触れる。
「1人だったら、きっと怯えていたわ。でも今は、貴方が隣にいてくれるから怖くないの。これは本当よ」
「名前……」
そうして気丈に笑った愛しい妻を今すぐ抱き締められないことがダリューンには歯痒く感じられてやまない。
「ダリューン」
名前が背伸びをしてダリューンの耳元に顔を近付けて囁いた。
「ありがとう。貴方は私の自慢の旦那様よ」
嬉しそうに微笑んだ名前の横顔を陽光が照らした。驟雨はいつの間にか止み、灰色の雲の下から青空が見えている。
「──見て」
名前が空の一角を指差した。海の青色を映したかのような空に、七色の光が半円形に伸びている。
「綺麗」
「ああ、綺麗だな」
軒先から出て眩しそうに虹を見つめる2人の後ろで、赤い花の上に乗っていた雫がきらりと輝いた。

150925
Thanks:亡霊

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