△朝について

寝台の前にある窓枠に、花瓶に挿してある花が美しい色の花弁を散らしていた。それを片付けようとした名前の身体を後ろから抱き締めれば、「どうしたの」という声が密やかな笑い声と共にダリューンの鼓膜を擽った。
「すぐに片付けますから、いい子で少し待っていて下さいな」
幼子に言い聞かせるような言い方に、ダリューンは「ああ」と口では返事したものの、次の瞬間名前を抱いたまま背中から寝台に寝転がっていた。
「もう、ダリューン!」
ダリューンの腕の中で身体の向きを変えて、彼と向き合う形になった名前が頬を膨らませてダリューンを叱る。彼女の額に唇を落としながら、ダリューンは不敵な笑みを浮かべて答えた。
「生憎、俺はいい子ではないのでな」
「言葉通りとらないでったら」
「すまない、だが貴女を前にするとどうにも我慢が出来ないのだ。このような男に嫁いでしまったと諦めてくれ」
「私が貴方の妻になることで諦めることや後悔することがあるようにお思いですか」
名前の白い手がダリューンの頬に触れる。
同じように不敵な笑みをもって返された言葉の勇ましさに、ダリューンは「全く、貴女には敵わないな」と苦笑し、この舌戦に終止符を打つべく名前の柔らかな唇に自身の唇を重ねた。次第に深くなっていく口付けに、行き場を求めた名前の手がダリューンの後頭部へと至り、きっちり纏められた黒髪を乱していく。ダリューンは名前のこの癖が好きだ。自分が既にそうであるように、彼女もまた、どうしようもなく貪欲に目の前の相手を欲しているのだと感じられるからだった。
「名前」
吐息混じりに愛しい妻の名を囁けば、蕩けた視線と共に「ダリューン……」という悩ましげな声がさらに情欲を煽っていくのだから、罪深い。

王宮の門外にたまわった邸宅に戻ったダリューンの朝は早い。夜明けと共に目を覚ましたダリューンは、隣でぐっすりと眠っている名前の顔を見て小さく微笑んだ。
王宮内で当直を行っている時はもう少し寝ていても許されるのだが、いついかなる時も同じ時間に唯一無二の主君であるアルスラーンに朝の挨拶をするという日課のためには致し方ないことだった。
かつて新婚の頃、名前を残して邸宅から戻った足で朝の挨拶に現れたダリューンに、たいそう驚いたアルスラーンが「名前と同じ時間に王宮に参上しても良いのだぞ」と提案したことがあったが、ダリューンはそれを丁重に辞退した。結婚したからといって、自分に課した決まり事を破ってよいということにはならない。それは名前も同意の上だった。
白い敷布の上に、名前の柔らかい陽の色のような髪が散らばっている。首から下、服で隠れる場所にはいくつもの赤い花が咲いていた。名前の長い髪のひと房を掬いあげ、毛先に唇を寄せてダリューンは考える。
名前はまだまだ未熟な自分には勿体無いほど立派な女性だ。自立しているし、武人の妻という立場を恐らく武人である自分以上に理解している。だからこそダリューンは安心して結婚した今でも以前と変わらず戦場の最前線に立っていられるのだが、果たしてそれで本当に彼女の大いなる愛に報いていると言えるのだろうか。使命とはいえ、いつも主君と国のことばかりを考え、寂しい思いをさせているのではないか。もっと何か、彼女にしてやれることは。
考え込んだダリューンの視界の隅で、花瓶の花が再び花弁を落とした。それに気付いたダリューンは手早く身なりを整えるなり急いで寝室を後にしたのだった。

伸ばした指先に欲しい温もりがないことに、悲しいかな慣れてしまった名前は、その日も1人で目を覚ました。まるで一夜の夢とも言わんばかりに、愛しい夫の姿は温もりと共に消えている。覚悟の上、致し方ないことだと分かっていてもたまに去来する寂しさに、名前は内心手を焼いていた。武人の妻になるということは夫を立て、出陣した夫に代わり家を守らねばならぬということ。主君のため、国のために日々働いている夫に「寂しい」などと我が儘を言って困らせるなど以ての外なのだ。何より夫であるダリューンは忙しい合間を縫っては既に身に余る程の愛を捧げてくれている。これ以上望むのは傲慢というものだ、と名前は考えている。自分の存在がダリューンの重荷になることだけは何が何でも避けねばならない。
寝惚け眼のまま動かした指先に、敷布ではない何かが触れた。触れたそれは名前が身体を起こしたと同時にはらはらと髪の上から落ちていく。
その正体は昨夜名前が片付けようとしていた花弁たちだった。広がった髪を彩るように花弁が散らされ、さらに枕元には名前が好きだと公言している花が1輪置かれている。邸宅の庭から採ってきたのだろう、朝露の雫が朝日に光っている。白い敷布を鮮やかに彩る花々の美しさと、これを考え実行した人物の思いに胸を打たれた名前は裸のまましばらく寝台をじっと見つめていたが、花の下にある紙に気付くとそれを開いた。

名前が王宮に参上した時、夫であるダリューンは入れ違いで王都付近まで来ていた隊商の護衛任務に赴いたらしい。王宮の中庭で1日の大半を過ごす名前と異なり、大将軍格であるダリューンの職務は多岐に渡るのだ。
「いやはや、ダリューン卿も罪なことをする」
そう言ったのは、名前にダリューンの行方を告げたクバードだった。「ギーヴ卿は美女好き、クバード卿は女好き」と有名な2人の色事師の内の1人は、名前が結婚してもなお隙あらば口説き落とさんとしている。
「名前殿のように美しい女性をかように放っておくとは。気丈な名前殿とて寂しかろうに」
「お気遣い恐れ入ります、クバード様」
名前は花に水を遣る手を止めて振り返った。
「寂しくないと言えば嘘になります。ですが私は武人の妻。耐えることも仕事でございます。それに寂しさを上回る愛情をダリューン様から頂いております故、こうして待つことも楽しみの1つというものですわ」
例えばどんな顔をして自分の前に帰って来るかと考えながら、という続きの言葉を名前はそっと胸の内にしまう。クバードが豪快に笑った。
「そうであったか。それはそれは俺としたことが野暮なことを言ったようだ。だが話を聞いておると名前殿はもう少し我が儘を言っても許されるように思うぞ。ダリューン卿も、妻の我が儘を聞き入れぬ程器量の狭い男ではないだろうからな」
「我が儘……ですか」
名前はクバードの言葉を反芻して黙り込んだ。本当に我が儘を言って許されるのだろうか、幻滅されないだろうか。今はまだ、勇気より不安の方が勝っていた。

真っ赤な夕日を背に、隊商と共に無事に帰還したダリューンの横を、名前は歩いている。
「御無事で何よりですわ」
「ああ……」
兜を小脇に抱えたダリューンの横顔はどこか罰が悪そうだ。理由を察した名前が「今朝のことですけれど」と切り出せば、「あれは、だな……」と彼にしては珍しく歯切れの悪い返事が返ってきた。
「あのように素敵な詩を頂いたのは初めてですから、肌身離さず持つことに致しました」
「なっ、何故そうなる!?」
大陸公路最強と名高い男があからさまに動揺している。彼を動揺させているのが絶対的な権力を持つ者でも、彼より強い男でもなく、ただの庭師の女性であると言われて信じる者がどれほどいるだろうか。
ダリューンの様子にくすくすと笑い声をもらし、名前は「愛する夫から頂いた物ですもの、いつでも持っていたいではありませんか」と答えた。ダリューンは片手で口元を覆っている。耳まで赤いのは、夕日のせいではないだろう。
ダリューンが名前に花と共に贈ったのは、彼女の美しさを讃える四行詩だった。この手のことはギーヴの得意分野であるが、ダリューンにとってはそうではなかったようだ。
ひとしきり彼の反応を楽しんだ後、名前は改めてダリューンを見上げて口を開いた。
「私はいつも考えているのです。騎士として、主君と国のために戦う貴方の重荷になっていないかと」
「そのようなことは決してない……!!貴女がいるからこそ、俺は思う存分戦えるというもの。俺の方こそ、貴女の愛に自分がきちんと報いているか……不安で仕方が無い」
「杞憂ですわ、貴方からはいつも有り余る程の愛を頂いておりますもの。今朝のことだって、本当に嬉しかった」
「名前……」
「でも」
立ち止まって名前は背伸びし、ダリューンの耳に囁いた。勇気を出すなら今だった。
「たまには一緒に朝日を拝ませて下さいな」
恥ずかしそうにはにかんだ名前の顔が赤いのも、夕日のせいではないだろう。
名前の我が儘にダリューンがどう答えたのか、それは2人だけが知る。
寄り添って歩く2人を、王都に沈む夕日が照らしていた。

150728
Thanks:亡霊

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