すれ違った何人もの兵士が書類の山を抱えて慌ただしく駆けて行くのを見ながら、名前はしばらく同じ時間を過ごしていない夫のことを考えていた。一般の兵士ですら慌ただしく駆け回っているのだから、彼らを統率し、指示を出す役回りの夫は数倍忙しいのだろうと。
それでも合間を縫って、少しの時間でも自分がいる中庭に会いに来てくれることに喜びと感謝の念を抱いている。しかし、与えられることだけに満足していられる程控えめな性分でもないので、今日はこうして差し入れと着替えを持って夫の執務室に向かっている最中なのだった。
「来てくれたのか……わざわざすまない」
夫、ダリューンは精悍な顔立ちに微笑を湛えて名前を出迎えた。だが名前はダリューンの表情の裏に隠された疲労を感じ取り、眉を下げて労るように顔に手を伸ばした。
「随分お疲れのようで」
「いや、まだこれぐらいは」
「私の前でぐらい隠さなくても良いのに」
「……俺とて、好きな人の前ではいつだって格好良くいたいのだ」
拗ねたように呟かれた本音に思わず胸がきゅんと音を立てる。
「貴方はいつも格好良いですよ」
日に焼けた肌を撫でる指先が、目の下にうっすらと出来た隈に触れる。あまりよく眠れていないのか、十分な睡眠時間を確保出来ていないのかもしれない。
「お仕事は、あとどれぐらい残っていらっしゃるの?」
「今日中に片付く仕事が終われば、多少はゆっくり出来るぞ」
「そうですか……」
顎に手を当てて少し考えた後、名前が「それなら今夜はここではなく、私の部屋でお休みになって」と言えば、ダリューンが目を丸くした後やけに真剣な表情で「それは誘っているということで良いのか?」と尋ねた。
「ち、違いますわ!」
「違うのか」
「さらに疲れさせてしまうでしょう!」
ダリューンの「逆に元気が出るがなあ……」という呟きは聞かなかったことにして、名前は「とにかく、今夜お待ちしていますから」と足早にその場を後にしようとする。
「待ってくれ、名前」
ダリューンに名を呼ばれ、振り返ったと同時に腕が引かれて背中からふわりと抱き締められた。
「ありがとう、必ず遅くならない内に行く」
「ええ」
耳に落ちてくる優しい声に頷きながら、名前は腹の上にある大きな手に自分の手を重ねた。

露台から見上げる星は美しく輝き、夜空を彩っている。入浴を終えて寝る準備を整えた名前が夜空を眺めていると、扉が叩かれる音がした。
駆け寄って扉を開けると、僅かに息を切らしているダリューンが立っていた。
「すまない、遅くなった……!!」
「気にしないで、来てくれて嬉しいわ」
自分より大きな身体を抱き締めると、石鹸の香りが鼻腔を擽る。扉が閉まったと同時に額にダリューンの唇が触れた。唇が額から瞼、鼻の頭と降りていき、やがて名前の唇に辿り着くと壊れ物を扱うようにそっと重なる。そうして何度か口付けを交わした後にダリューンが「これ以上は止められなくなりそうだな」と笑って唇を離した。「そうね」と名前も笑い、最後にダリューンの鼻の頭に唇を落とすと身を翻し、彼を椅子へと誘った。
卓の上に置かれていた壺の中身を杯に注いで手渡す。杯からは温かな湯気が立ちのぼっている。
「これは牛乳か?」
「ええ、温めた牛乳に蜂蜜を加えたのよ。寝る前に飲むとよく眠れると聞いたから」
「成程な、確かによく眠れそうだ。有り難く頂こう」
名前も自分の杯に注いだ牛乳を飲み干した。内側から身体が温まり、横になりたい欲求が強くなった。明かりを消して、名前とダリューンはどちらからともなく寝台に寝転がる。
「最近あまりよく眠れなかったの?」
「ん……まあ、寝付きが悪かったな」
「そう……」
ダリューンの目の下の隈に触れながら名前が元気づけるように胸を張って言った。
「でも今日は私が添い寝してさしあげますから、ゆっくりお休みになってね」
「子守唄を歌ってはくれないのか?」
「こっ……わざと言っているでしょう……!!」
名前は頬をひきつらせてダリューンを睨んだ。自分が歌が苦手であると知っていながら歌うことを提案してきた意地の悪い夫は、名前の様子に悪びれる様子もなく「ははは、いやすまない」とからかって笑っている。
「誰にでも欠点はあるものだろう」
「貴方が身の回りの事をほとんどご自分で出来ないように?」
「うっ……それは……今後努力する……」
「是非そうなさって下さいな、私も戦場まではお供出来ませんから」
痛い所を衝かれてあからさまに視線を逸らしたダリューンを今度は名前がからかって笑う番だった。そして自分に言い聞かせるように次の言葉を唇に乗せる。
「この先何があっても、私がいなくても、平気なように」
「……不吉なことを言うな」
「ごめんなさい、でも時々とても心配になるのよ。
貴方は大陸公路一の勇者……そう簡単に命を落としてしまうとは思っていないけれど、いつか私の前からいなくなってしまう気がして」
「俺も限りある命の身だ、いつかはこの世から去ることになるだろうが……陛下の大成を見届けておらぬ上に貴女とも過ごし足りないからな、まだまだ死ぬ訳にはいかない」
「ダリューン……」
顔に触れていた手が引っ張られて、名前は寝転がったままダリューンの胸の中に収まる形になった。夜着の下から伝わってくる温もりが、愛しい男性が生きて、今目の前に在るということを証明してくれている。
「名前、ずっと傍にいてくれ」
懇願の響きを持って放たれた言葉に、名前は驚いた。顔を上げればダリューンはどこか寂しそうな表情を浮かべている。弱気にとりつかれるなど、たまには珍しいこともあるらしい。
「はい。この命尽きるまで、お傍にいますわ」
名前は手を伸ばしてダリューンの頭を撫でる。
「私は女神官ではないから、眠っても夢魔をうちはらうことまでは出来ませんが、夢の園の入口までならお供出来るでしょうし」
「ふっ……それは頼もしい限りだな」
ダリューンが笑う。
「願わくば、入口までとは言わずに夢の園の中でも貴女に会いたいものだ」
「ふふ、私もよ」
額を合わせて名前も笑って答えた。
「きちんと眠れば、きっと会えるわ。だから夢の園でも待っていて下さいね」
「ああ……」
安心して眠気が襲ってきたのか、ゆっくりと瞼を閉じたダリューンの額に唇を落とし、名前も瞼を閉じる。
「おやすみなさい」
寄り添って眠りについた夫婦を見守るように、月明かりが優しい光で照らしていた。

託されたものは極彩色の夢

150916
Thanks:亡霊

- ナノ -