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「大丈夫ですか」と伸ばした手は音高く跳ねのけられ、刃物のような鋭い視線が名前に突き刺さる。
暴れ馬が通り過ぎた市の混乱の中、名前は呆然として目の前の女性を見た。年齢はアルフリードと同じか、少し年上ぐらいだろうか。
まだどこか幼さを残した顔立ちは濃い化粧で無理矢理大人びて見えるようにしているような、微かな違和感があった。
「あの方の妻になれたからって、いい気にならないでよ!」
「あの方……?」
「ダリューン様よ!」
女性は立ち上がり、未だしゃがんでいる名前を見下ろして続ける。
「どうせあんたなんか、絹の国の姫君の代わりなのよ!」
……絹の国の姫君?
パルスより遥か東方の地にあるその異国は、名前にとって馴染みのある国だった。
夫であるダリューンと絹の国といえば、かつて隊商の護衛として絹の国へ滞在していた時期があったと本人から聞かされたことが思い出されたが、その思い出話の中に姫君の名前は全く出てきていなかった。
「あの、どうしてそこで絹の国の公主様が出て来るのですか?」
「はっ、知らないの?あの方は以前……」
そこまで言いかけた時、「こら!」と中年の女性の声がして、女性は忌々しそうに舌打ちすると素早く踵を返した。追いかける暇もなく路地裏に消えたその背中を名前はただただ眺めることしか出来なかった。

横にやってきた中年の女性が「お怪我はありませんか?」と言って優しい手付きで名前を立たせる。
服に付いた埃まで払ってくれようとしたので名前は礼を述べて丁重に断り、自分の手で埃を払った。
国の英雄と崇められているダリューンと共に城下を歩くことがあるため、名前の顔も自然とエクバターナ市民には割れている。だが、彼の妻だからといって人々に特別扱いされることを名前は好んでいないのだ。
埃を払い終わると、名前は中年の女性に向き直る。よく日に焼けた顔には見覚えがあった。この近くで果物を売っている女性だった。
「あの、彼女は一体……」
「あの子は王宮に仕官していた子なんですよ。タハミーネ王妃様お付きの侍女で」
「そうだったのですね……ですがタハミーネ王妃様お付きの侍女であったなら、今頃王太后府にいるはずでは……?」
前王アンドラゴラス三世の正妃タハミーネは、ルシタニアによる侵攻が終焉を迎えると同時に王都を去っていた。 彼女は現在、パルス東南部のバダフシャーン公国があった土地に館を建て、そこで静かに暮らしている。その地はパルスに征服されるまでタハミーネが正妃として暮らしていた思い出深い土地なのだ。
生き残ったタハミーネのお付きの侍女たちは皆タハミーネに付き添い、王太后府で奉仕していると聞いていた名前は首を傾げた。
「ええ、あの子は王太后府を辞めて王都へ戻って来たんですよ」
「ご結婚か何かで?」
侍女や女官が職から退く理由として最も多いものを、名前は口にした。
すると女性は途端に苦々しい表情になって口ごもる。こちらの顔色を伺うような視線を向けられて、名前は微笑みで続きを促した。
「……いえ、あの子は……ダリューン様と結婚するのだと言って戻って来たのです……どうやら王太后府まではご結婚の報せが届いていなかったようで」
「ああ、成る程」
元侍女の女性はダリューンが万騎長であった頃からずっと彼を慕っていたのだという。
戦火を生き延び、一度は想いを断ち切ってタハミーネに付き添い王太后府で1年間奉仕したものの長年の想いはやはりそう簡単には断ち切れず、「死んだと思っていた両親が生きていた」と嘘の申告をして職を辞し、王都に戻り、ダリューンと結婚することを望んだ。
しかしダリューンはその時既に名前を唯一無二の妻として迎えていたのである。
王太后府まで結婚の報せが届いていなかったのは、2人が書類の上では夫婦であるが今日まで婚礼の儀を執り行っていないからだろう。事実、秘密にしているつもりはないのだがエクバターナ市民の中にもダリューンが妻帯した事実を知らぬ者は多い。
そうとは知らず、ダリューンに選んでもらうために教養を学び、自分を磨いていた彼女は、真実を知って絶望した。それでも生きなくてはならないのだが王太后府には戻らず、娼婦に身をやつし妓館で働いているのだという。いつか妻帯する前のようにダリューンが立ち寄ってくれることを願いながら。
あの化粧はそういうことだったのかと名前は女性の顔を思い返す。
そしてぶつけられた「絹の国の姫君の代わり」という言葉も。
「ありがとうございました。事情はよく分かりましたわ。理由が分からないまま恨まれるのは本意ではありませんから」
彼女は名前が知らない時代のダリューンを知っている。
助けて怒鳴られたことよりも、そのことの方が酷く腹立たしかった。

鋏で丁寧に切り取った牡丹の花を愛でる横顔は、まさに至高の芸術品とも呼べる美しさを放っている。
「ここに来ると、過ぎ去りし日々の出来事を思い出す」
パルスから遥か東方の異国、絹の国にある立派な花園だった。
艶やかな長い黒髪を流し、名前に語っているのは絹の国第五十二代皇帝の娘である星涼公主である。
彼女は皇帝の娘という立場でありながら時には自ら馬を駆り、国境まで赴くこともある「傍迷惑な」女性だった。今日も今日とて居城を抜け出し、平民に扮した格好でこうして花園へと遊びに来ている。彼女の身辺を守る騎士たちの気苦労も絶えないというものだろう。
ただ、星涼がここで語ることを騎士たちにも聞かせるのは無粋な気がしているので、名前も役人に告げ口することはしないのである。
あくまで花園の管理を任されている庭師と、花園を気に入って頻繁に訪れている町娘という体で、語らいは続く。
「一度だけあの者と城下を歩いたことがあったのだが、すれ違う町娘達が皆あの者を見て振り返るのじゃ。あの者は全く気付かない様子でな、呑気に私が紹介した戟の師匠のことなどを話していた。
町娘達の視線とあの者の鈍さに私はたいそう腹が立ってな、つい口論になってしまった」
「まあ、それはそれは。かの御仁もさぞ驚かれたことでしょう」
「うむ、ぽかんと阿呆面を晒しておったわ。だが何より私は自分が町娘達に嫉妬していたことに驚いたのじゃ。あの時のことは、忘れられそうにない」
名前が絹の国に来る前、星涼はパルスから来ていた騎士の1人と恋をしたのだという。
雑談に交えて、終わりを告げた恋の日々を星涼は語ったが何故、どのように終わってしまったのかについてだけは終ぞ語らなかった。
「心とは己で分かっているつもりでも分からぬものじゃな。私はその時初めてあの者を心より愛していることに気付いたのだ──……」
強い風が吹いて花弁が城塞都市の空へと舞っていく。
名前は花園の入口に現れた星涼お付きの騎士に気を取られたのだが、外れた視界の隅で風の音の中、星涼の唇が小さく1人の男の名前を紡いだのだった。
その男の名前は──……。

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Thanks:彼女の為に泣いた

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