03,

名前を取り巻く状況が目まぐるしく変化していることも知らず、馬を走らせていたルミルは予感が的中してしまったことに焦りを感じていた。
街を見張る望楼に詰めていた兵は射殺されており、兵達の詰所も血の匂いで満ちていたのだ。残されていた馬蹄の跡も十を越えていた。
山賊のような男達はかなり本気でダリューンを葬ろうと考え行動しているらしかった。
馬を走らせる手を止めず、ルミルはどう動くべきか必死で考えた。王都に戻り、援軍を連れて来るか、それとも宿に引き返すか、否か。
どちらを選ぶにせよ可能性の低い賭けに出なくてはならないことは明白だった。
「──ルミル!?」
ルミルを混沌を極める思考の海から引き摺りあげたのは、彼女の宝物であるイヤリングの片方を持つ世界でただ一人の青年だった。
「エラム様……!!」
ルミルの顔に一瞬安堵が広がったが、すぐに真剣な表情に変わる。それを悟った優秀な青年は馬を隣に並べると、ルミルを自分達が泊まっている宿へと導いた。
先の豪雨で今日の内に王都に帰ることを断念していたアルスラーンは、ルミルの報告を聞くとすぐにエラムを伴って兵装を整え始める。
ダリューンを騙る青年の存在には流石に苦笑を漏らしていたが。
「とにかくすぐに助けに行こう。知らせてくれてありがとう、ルミル」
「いえ……」
次にルミルは自身の槍の師匠であり、守るべき女性の夫であるダリューンに名前を危険な場所に1人置いてきてしまったことを詫びた。
アルスラーンと同じく兵装を整え、愛馬に鞍を取り付けたダリューンは「気にするな」とルミルの肩に手を置く。
「彼女のことだ、どうせおぬしに「自分は残るから助けを呼びに行ってくれ」と言ったのだろう?全く無茶をする……」
肩を竦め、ひらりと馬の背に跨ってダリューンが呟いた。
「だがそんな無茶をする人だからこそ、傍で守りたいと思ったのだろうな、俺も」
「ダリューン様……」
「それにいつまでも偽者をのさばらせておく訳にもいかぬからな。
さあ、行くぞ」
「はい!」
頷いてルミルはエラムが引いてきてくれた愛馬に跨った。

昼間に絡んで来た男は青年の後ろに立っている名前に目ざとく気付くと、汚い歯を剥いて笑った。
「女連れとはいい身分だなダリューン!安心しろ、貴様を地獄へ送った後女は俺達で可愛がってやろう!昼間の分も含めてな!」
名前と青年を取り囲む男達の間から下品な笑い声が上がる。
「だっ、黙れ!誰が貴様らなどにこの方を渡すものか!」と青年が怒鳴り、剣を抜いた。威勢が良いのは結構なことであるが、剣を持つ手はまるで初めて剣を握ったかのように震えている。
これでは勇ましく挑んだところで数合も打ち合わずに斬り捨てられてしまうことだろう。威勢と実力とはしばしば釣り合わないものなのだ。
「くそっ……」
まさに多勢に無勢、青年も危機的状況であることは分かっているらしい。端正な横顔を汗が伝った。
汗の雫が地面に落ちるのと、青年を挑発した男が手を上げて攻撃の合図を下したのはほぼ同時だった。
──名前の視界の隅で、マントの赤い裏地が翻ったのも。
突如男達の包囲網の一部が崩れ、短い悲鳴が上がる。
「な、何だ!?」
蹄の音が近付いてくる。宵闇の中、血飛沫を散らしながら包囲網を突っ切ってくる影に名前は微笑み、手を伸ばした。
身体が浮き上がり、馴染み深い温もりに包まれる。
視界を染めているのは漆黒の甲冑だった。
「全く、相変わらず無茶をする……」
呆れるような、だが優しさを含んだ声が上から降ってくる。
「怪我はないか?」
「おかげさまで擦り傷1つないわ、ダリューン」
窮地を救ってくれた夫の名前を名前は愛しさを込めて呼んだ。
ようやく、「本物」のダリューンと再会することが出来た。安堵感から今にも涙が零れそうだった。
ならず者達の剣の檻から名前を救い出したダリューンは、離れた場所に優しい手つきで名前を下ろす。
「すぐに片付ける」
「ええ」
ダリューンがならず者達に向き直る。今や彼らは青年からダリューンへと殺意の視線を向けていた。ダリューンが通った後には仲間の死体の道が出来ていたのだ。
口汚く罵るならず者達を黙らせるように、ダリューンは長槍の刃先を向けた。先端から赤い血が滴り落ちる。
「妻に剣を向けたこと、後悔させてやろう」
ならず者達を睨む眼光は長槍の刃先のように鋭く研ぎ澄まされている。ダリューンの威圧に怯んだ男がはっと我に返り、「あいつを殺せ!」と叫んだことが、幕開けの合図となった。人馬一体となった「戦士の中の戦士」は、猛然と剣の林の中へと斬りこんでいった。
「名前様!」
複数の蹄の音が聞こえ、怒号と剣戟の中を3頭の馬が駆けてきた。
騎手はルミルとアルスラーン、エラムだった。殿を務めているエラムが名前の愛馬であるソルフドゥーストの手網を引いている。
「御無事でしたか!」
「ルミル!私は無事よ、陛下達を連れて来てくれてありがとう」
「良かった……」
ルミルの瞳に涙が滲んでいた。手を取り合い、無事を喜びたいところであったが、今は頷くだけに留め、名前は栗毛の友人の背に跨った。
鞍の前輪には弓と矢筒が取り付けられている。目が合ったエラムが肩をすくめて言った。
「ただ見ているだけというのは性分に合わないでしょうから」
「ありがとうエラム、伯父様には秘密にしておいてね」
名前は悪戯っぽく笑い、弓に矢をつがえる。名前とアルスラーンを守るようにルミルとエラムが馬を寄せた。
弓弦の音を震わせ飛んだ矢は、剣を弾き飛ばされ丸腰になった青年を狙った男の手首を貫いた。
「こちらへ!」
青年に呼びかけながら続け様に放った矢は、死角からダリューンに忍び寄っていた騎手の右目に突き刺さる。騎手が顔を押さえ、絶叫と共に落馬した。
駆けてきた青年は驚いた表情で名前を見上げる。
かつて仲間を多く葬った仇敵であるダリューンを殺し、名前に乱暴を働くつもりであったならず者達は、嵐の如く猛威を奮う黒衣の騎士の前に自分達が仲間の下へ赴く羽目になっていた。
猛威を奮ったのは何も黒衣の騎士だけではなかった。彼の仲間も目覚ましい活躍を見せたのだ。
ルミルは得意の短槍を振るい、エラムと共に立派にアルスラーンと名前を守っていたし、2人に守られていたアルスラーンと名前もそれぞれ得意の剣と弓の腕を振るい、ならず者達を葬っていた。
こうして真夜中の戦いはならず者達の敗北という形で幕を閉じたのである。

□■□■□

妻を守るために槍を振るった黒衣の騎士ことダリューンが、戦いの後に見たのは恐らく自分を騙っていたであろう青年が慌ててアルスラーンに跪いて彼の言葉を聞いた後、立ち上がって名前の手をしっかりと握った光景だった。青年の横顔は嬉しさと尊敬できらきらと輝いている。
一方の名前は困惑した様子で青年の言葉を聞いていた。
──面白くない!
瞬時に湧き上がった子供じみた思いを隠し、ダリューンは黒馬から降りてマントを翻した。
主君であるアルスラーンに「陛下、御怪我はございませんか」と一礼して声を掛けるとアルスラーンが「ああ、大丈夫だ」と頷く。彼の晴れ渡った夜空のような瞳がダリューンの背後に動いた。
「あの者は誰かに認めてもらいたくてダリューンの名を騙ったそうだ。今回のことで、自分がどんなことをしたのか、よく分かったと言っていた」
「左様でございましたか」
「なあダリューン、私はあの者を王宮の騎士見習いにしようと思う」
「……陛下!?」
「確かにあの者はダリューンの名を騙っていたが、一方で名前を守ろうともしていたであろう?
私はその勇気にもっと実力が伴えば、将来立派な騎士になれるのではないかと思ったのだ」
反対しようと思っていたダリューンは言葉に詰まった。青年が敵に囲まれてもなお名前を守ろうとしていたことは、真っ先に敵陣に突入したダリューン自身が一番よく分かっている。
眉間に皺を寄せて複雑な表情を浮かべたダリューンに笑みを漏らし、アルスラーンが続ける。
「無論、ダリューンの名を騙った罪に対する償いはきちんとしてもらわねばならないから、今すぐにという訳にはいかないが……どうだろう?」
「……陛下の御意のままに」
アルスラーンの視線に自身の敗北を悟り、ダリューンは頭を垂れた。アルスラーンの言っていることは筋が通っているし、これ以上何か言えば墓穴を掘ってしまいそうな気がしたからだった。
「しかるべき償いを終えた暁には名前殿をお守りする立派な騎士になってみせましょう!」
仕方ないと心の中で嘆息したダリューンの耳に飛び込んできた上擦った青年の声に、ダリューンは瞬時に背後を振り返った。
その顔にはあからさまに嫉妬が現れていて、名前の傍にいたルミルとエラムが思わず笑みを漏らした程だった。
「……騎士になったらあの者を名前の警護に付けるのはやめておいた方が良さそうだな」
「私からも御願い申し上げます……」
力なく言ってダリューンは名前に近付いた。
そして青年の前で名前の肩を抱き寄せる。普段であれば絶対に人前ではやらないのだが、これはもちろん青年に対する牽制のためである。
むしろ威嚇と言った方が正しいかもしれないが。
「妻を助けようとしてくれたこと、感謝する」
「つ……妻?」
唖然とした表情で青年が名前とダリューンとを見比べた。
「で、では名前殿が言っていた生涯心に決めた殿方とは……」
「ええ、ダリューン様のことですわ」
笑顔で答えた名前にルミルが「本物のね」と付け加える。
「で、では俺は、本物のダリューン卿の妻を口説いていたのか……」
「そうなりますわね。改めて、私を助けようとしてくれたこと、感謝申し上げます。ですがそういう訳ですので私はあなたのお気持ちに応えることは出来ません。これからはどうか私以外の方のためにお力を奮って下さいませ」
地面に座り込んだ青年に目線を合わせて、名前がそう言った。
項垂れていた青年がやがてゆっくりと上げた横顔を、朝日が照らしていた。
「さあ、皆。王都へ帰ろう」
アルスラーンが言い、皆が歩き出す。
ダリューンは名前を伴って後に続いた。
「言っていなかったのか、結婚していると」
「向こうも私を騙していたのですから、お互い様ということで。落ち着いたら全てお話するつもりでしたのよ。ただ、生涯心に決めた殿方がいるとははっきり申し上げました」
「そうか……」
ダリューンは片手で口元を覆った。改めて言われると気恥ずかしいものがある。
そんなダリューンの心を知ってか知らずか、名前がダリューンに微笑みかけた。
「私には生涯貴方だけですから」
つまらない嫉妬心を抱いたことなどどうでもよくなる、何よりの言葉だった。

「──ほう、そのような経緯があったとはな」
ルミルとエラムからあの夜のことを聞いたナルサスが水の入った杯を手の中で回した。視線は窓の外に向けられている。
「何事も順風満帆では面白味がない。2人共、後学のためによく見ておくと良いぞ。
いかに「戦士の中の戦士」と呼ばれるような男でも、嫉妬に駆られて醜態を晒す時があるということを」
今にも腹を抱えて笑いだしそうになっているのを堪えているナルサスにルミルとエラムは顔を見合わせた後、2人して窓の外を覗き込んだ。
眼下の中庭では、名前にあの青年──ベフルーズが恭しく跪き、堂々と口説いているところに、彼を追いかけ訓練に使う木剣を片手に憤怒の形相のダリューンが乱入してくるというここ最近定番となったやり取りが繰り広げられていた。
あの後ベフルーズは罪を償い、晴れて騎士見習いとなったのだが指南役のダリューンの目を盗んでは訓練から抜け出し、隙あらば名前を口説き落とそうとして毎度ダリューンに阻止されているのだ。
ベフルーズ曰く「一度は諦めようと思ったがやはりそう簡単に諦めきれそうにない。むしろあの勇姿にますます惚れた」とのことらしい。
「厄介な恋敵とはいつどこから現れるか分からんものだな。お主達も気を付けろよ」
ダリューンの怒鳴り声とベフルーズの悲鳴で、今日も王宮の中庭は賑やかだった。

優しい呼吸の仕方を知らない

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Thanks:亡霊

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