La Sirene

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 人ひとりが突然目の前から消えた事態に、ジェラールも平静では居られなかった。月明かりに照らされた路地裏が、恐ろしすぎて仕方がない。目の前に立つ銀髪の娘は、更に恐ろしい。
「奴は……」
 からからになった喉からなんとか声を絞り出す。
「死んだ」
 振り返らずに言ったシレーヌの返答は淡々としたものだ。
「消えたようにしか……いや」
 ジェラールは今しがた見た光景を正確に描写する。
「塵になってしまったみたいだった。あんた、何をしたんだ?」
「さあ。忘れろ」
「無理だって! なにかの夢みたいだが、違うんだろ!? あいつもかまいたちとか使うし……そう、さっきだって力がどうとか。何者なんだ、あんた」
「シレーヌ。さっきお前がそう言った」
 確かにそうだが。さすがにそれと違うことは理解している。シレーヌの伝説に、睨んだものを灰にしてしまう、という一説はない。彼女らが行うのは、歌声で船乗りを魅了した末に船を沈没させる、それだけである。今見たものとその伝説は、そのいずれにも合致しない。
「これ以上関わるな」
 振り返った銀の眼差しに、ジェラールは凍りついた。もしかしたら自分も殺される――塵となってしまうかもしれないと思ったら、立ち竦んでしまった。
「今のことは夢だと思って忘れろ。それがお前の……」
 急に言葉を切ったかと思うと、その身体がふらりと揺れた。貧血か。よく見えなかったが、怪我でもしたのだろうか。片手で頭を抱え、歯を食いしばっているようだった。何かを必死に堪えている。
「おい……?」
「思ったより、早く……っ」
 身体が大きく傾いだ。危ない、倒れる、と思って足を踏み出したところで、シレーヌの華奢な身体が、ジェラールのものでない別の誰かの腕に受け止められた。
 あの猫の青年である。
「関わるなって、言ったのに」
 少し憂いを帯びた表情で、シレーヌの冷たい美貌を見下ろした。
「ロビン……?」
 力なく抱きかかえられるシレーヌの銀色の虹彩が、青年の顔を捉えた。口にしたのは、青年の名前だろうか。人を睨み殺したとはとても信じられない、ぼんやりした瞳で彼を見上げると、そのまま目を伏せた。
 どうしたことか、この状況で寝入ってしまったようである。
「君も。危険だって言っただろ。実際、イリスがいなければ、死んでたんじゃないか?」
 彼女を壁に凭れさせて座らせながら、青年は言う。
 どういうことか、と説明を求めると、
「関わるなって、イリスに言われなかった?」
 窘めるような返事が返ってきた。
「依頼主、いないんだろ? 報告義務もないんだから、無理に知る必要もないはずだろ。それとも、甥っ子に本当の事を言う?」
「なんで、そこまで……」
 先程シレーヌにジャンのことを言い当てられたときと同じ寒気がする。会ったばかりの彼が何故こんなにもジェラールの事情に詳しいのか。しかも、ここ2、3日の事なのに。
 無害そうなこの青年でさえ、だんだん恐ろしく見えてきた。
「つけさせて貰ったよ。話は全部、ルイが聞いてた」
 何処かで聞いた名だと首を傾げ、すぐに思い至る。
「……猫?」
 捜査官の取り調べのあとに出会った、青年の飼う黒い猫の名だ。呼ばれたからか、その黒猫は屋根の上から降りてくる。つけていたというのは、本当らしい。だとしたら、話を聞いていてもおかしくはない。問題は、尾行していたのが猫だということ。
 訳が分からない。
 信じないかもしれないけど、と青年は前置いて、
「俺は、動物の言葉が理解できる。気持ちがわかるとか、そういうのじゃなくて、会話ができるんだ。すべて、異能の力によるものだ。……悪魔の力、って言われることもあるね。
 イリスは、意思を持って睨むことでものを灰にすることができる“邪眼”と呼ばれる眼の持ち主。さっき君が見たのは、その邪眼の力」
 異能。特殊能力ということか。ある意味で伝説の怪物よりも信じられない話に、ジェラールはただただ呆ける。
 つまりは、と混乱する頭の中をなんとか整理した。目の前の青年は、動物と会話ができるという特殊な能力を使って、飼い猫にジェラールを尾行させた。そして、何処かで――例えば、ジェラールがシレーヌと会話しているときとか、捜査官が正体を現したときなどの間に、尾行の報告を聞いた。それだけでは得られない情報を持っているのは、町で他の動物に聞いたから。
 そして、彼女は先程その邪眼とやらを用いて、捜査官を灰にした、と。
(んな馬鹿な)
 有り得ない。そんな話、常識の範疇を超えている。
 ああ、でも。だというのなら、さっき見たものはなんなのか。
「……君には関わりのない世界の話だよ。今回は不運にも巻き込まれてしまったけど、首を突っ込むことをしなければ、もうそんなことはない」
 しないだろ、と念を押されるが、ジェラールは頷くことができなかった。青年はそれに嘆息する。
「悪いことは言わないから、夢だと思って忘れたほうがいいよ。それが君のためだ」
 これにも頷くことはできなかった。もはや説得は無駄だと判断した青年は、なにも言わずに、眠るシレーヌを抱き上げて路地裏を出ていった。



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