La Sirene

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「そこを動くな。お前を殺人容疑で逮捕する」
 ジェラールたちが入ってきた路地の入口を塞ぐように立ち、誰かがこちらに向けて両腕を伸ばしている。いや違う。銃を向けているのだ。狙っているのは、シレーヌ。
 聞いたことのある声だった。誰だろう、と記憶を浚い、今朝会った若い捜査官だと気付く。
 彼はシレーヌの特徴を知っている。もし、銀髪の女を見かけたら、殺人犯だと思うはずだ。ジェラールもそうだったのだから。
「抵抗するなら、撃つ」
 声が震えていた。かつてないような殺人者を目の前にして、恐怖しているのか。彼女の容姿は人間味に欠けているから、なおさらそうなのかもしれない。シレーヌの話を知っているのだから。
 とりあえず落ち着け、と言っても落ち着かない。捜査官は銃を構えたまま硬直し、銃口を震わせている。どうにか説得する方法はないものか、と模索していると。
「はじめからそれが望みだろう」
 目の前のシレーヌは、冷静に銃口を見つめ、とんでもないことを口にした。
「抵抗した私を撃ち殺し、濡れ衣を着せ、事件を終わりに見せかける。お前にとっては好都合な事に、私はナイフを所持していて、それを凶器とすることもできる。そうして、自分は何事もなかったように過ごす。違うか?」
 自分は今、さぞかし間抜けな顔でシレーヌを見ているだろう。彼女の話す言葉全てがきちんとした意味を為しているはずなのに、さっぱり理解できない。
「試し斬りは楽しかったか、新入り」
 落ちる沈黙。路地裏の入り口で銃口をこちらに向けたまま動かない捜査官の顔は、夜闇で良く見えなかった。しかし、なんとなくただならぬ気配を感じて、1歩後ろへ下がる。
 体験したことのない重圧。額に汗が出るのを感じ、口の中が渇く。
「お前も同じ、悪魔の力を手にいれた者か」
 長いようで短かった沈黙の後に発した捜査官の声は、先程まで震えていたのが嘘のような、悦と毒を含んだような声だった。
 肌が粟立つ。更に後退すると、踵がなにかに当たった。振り返って見てみれば、放置された薄汚れた木箱があった。
 障害物にぶつかった所為で逃げるタイミングを失った。
「お前と同じであることを否定できない自分に嫌気が差すな」
 これだけの異様な雰囲気の中で、シレーヌは平然としていた。ジェラールを庇う位置に立ち、眼鏡を外す。色つきのレンズが取り払われた虹彩は、やはり銀色だった。闇の中で2つ月のように輝く。
「なんの話だよ。悪魔の力……?」
 自分より年下の少女の落ち着いた姿を見て、ジェラールも少し冷静さを取り戻す。自分ばかり怯えてはいられない。それに、気になることもある。
「そういえば、悪魔の仕業だって言ってたけど、関係あるのか?」
「当たらずとも遠からず、といったところだな」
 曖昧な言葉に眉を顰めていると、目の前にいる捜査官がくつくつと笑った。
「まったく、ネタばらししてくれちゃって。お陰で、探偵まで殺さなければならなくなったじゃないか」
 その台詞に、さっきシレーヌに問い詰められたときと同じ後悔をした。好奇心は、猫をも殺すのだということを、すっかり忘れていた。
「まあ、最後に遊べるんだから、よしとするか」
 さっきまでの、彼は何処へ行ったのか。いかにも若かったあの捜査官の面影など、一切感じられない。あまりの変わりように、呆然とした。
 大量殺人の悪魔が、腕をさっと払う。なんの動作か分からなかったが、シレーヌは気づいたようで、ジェラールの腕を思い切り引っ張った。バランスを崩して倒れ込み、シレーヌの腕に支えられる。その足元で、乾いた音がした。
「木箱が斬れた……?」
 へたり込みながら、音源を見る。そこには真っ二つになった木箱。綺麗な直線の断面は、まさにそうとしか思えなかった。
「いわゆるかまいたちだ。見えないが、切れ味は鋭いぞ」
 冷静に、なんでもないように言っているのが信じられなかった。
「どうすんだよ!」
 見えないのでは、躱しようがない。このまま木箱のように真っ二つだなんて、ぞっとしない話だ。
「黙っていろ。勝手に動くなよ」
 シレーヌはナイフを抜くと、捜査官に突っ込んでいく。どうやって見極めているのか、捜査官の手の軌道に合わせて放たれる見えない刃を悉く躱しながら、みるみる相手に近づいていく。その様子をジェラールは壁に張り付くようにして見守っていた。だが、あともう少しというところで捜査官は身を捩る。すると彼女は後ろに大きく跳んでジェラールのいる位置まで戻ってきた。はらり、と細い銀の糸が何本か宙を舞い、シレーヌの頬にはうっすらとした傷ができていた。負傷したようである。
 ジェラールは肝を冷やしたが、シレーヌはそうでもなく、冷静に頬を拭った。
「私を傷つけていいのか? 切り傷があれば、私に濡れ衣を着せられないだろう?」
 揶揄するように言うと、楽しそうに捜査官は返した。
「言い訳なんてどうにでもなるさ。今が楽しいかどうかが問題だ!」
 ピクリ、とシレーヌの眉が跳ねる。
「楽しい……?」
「あんたも同じならわかるだろう? 人を超えた優越感。魔法のようなこの力を手に入れて、自由に使えるんだ。楽しくないはずがない!」
 力説する彼は、一般人の感覚しか持ち合わせないジェラールには一片も理解できないが、心底楽しそうだった。口の中が苦くなる。ただ、奴が楽しいというそれだけの理由で殺されるなんて。あれだけ多くの人が、ただそれだけで命を落とすなんて。
 同じ死なら、それこそ本物のシレーヌに惑い殺されたほうがマシだったのではないか。同じ弄ばれた末の死でも、伝説に殺されるのと玩具にされるのでは意味合いが違う。
「幸せな奴……」
 ぽつりと呟いたシレーヌのような銀髪の娘の言葉には、明らかに相手に対する侮蔑が含まれていた。
「なら、楽しいうちに死んでいけ」
 シレーヌは一度目を伏せ、再び目蓋を開くと捜査官を睨みつけた。
 ただ、睨みつけただけ。ナイフを持った腕は下ろしたままで、身構える様子もない。
 が。
「な、に、を…………」
 睨みつけられているだけの男の方には明らかに異常が生じていた。よろめき、呻いている。かまいたちを発生させる魔法も使わずに、よろよろと壁にぶつかりながら後ずさる。
 なにが、と思って視線をシレーヌに戻すと、瞬きもせずに睨みつけている銀色の虹彩が、僅かに輝いて見えた。
「人に非ざる者は、人を超えることなどできない」
 シレーヌは一歩前に踏み出す。視線は相変わらず捜査官を見つめたまま。苦しみ悶える彼を、侮蔑の眼で見下ろしている。
「何故なら、既に対比の対象となり得ないからだ。しかし、人に近いが故に、我々は弱者たり得る。特別な力を持っていても、人の優位に立つことなどできはしない」
 気押されたかのように、捜査官が尻もちを付いた。否、違う。気押されたのではない。身体を支えられなくなったのだ。彼の足がなくなったから。切り離されたのではない。崩れ落ちた、という表現が一番近いだろう。
 ……なにが起きているのか、さっぱり理解できない状況だ。
「知らずにいられて、幸せだったな」
 止めの一言を告げた瞬間、断末魔もないまま捜査官の身体は一瞬で塵となり、大気の動きに流されて跡形もなく消えていった。



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