La Sirene

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 ――俺たちは、先週末この街に来た。
 彼の言うことが本当なら、シレーヌは犯人たり得ない。
 だが、それはもう1つの事実も示している。彼がシレーヌを知っているだけでなく、親しい間柄だということだ。とするならば、庇っていることも考えられる。しかし、庇うならもっと別の言い方もあるはずだとも思う。
 結局、シレーヌは何者なのだろうか。
 本当に殺していないのだろうか。だとしたら誰が。昨晩は他に誰も見なかったし、何よりシレーヌは船から降りてきた。殺していないというのなら、あそこで何をしていたのだろうか。
 考えを巡らせながら歩いていると、雑踏の中に銀色の髪が目に入った。
 一瞬見間違いかと思ったが、錯覚ではないらしい。見失わないうちに慌てて追いかける。少し離れたところで追跡しながら観察すると、確かに昨日見た女だった。
 1人で何処にいくのだろうか。もう宵の口である。行くのは港の方角。
(……まさか)
 猫の青年の言うことは、嘘だったのだろうか。
 曲がり角を曲がる。ジェラールも遅れて曲がると、銀髪の女の姿はなかった。人通りはほとんどないのに。
 路地にでも入ったか、と思い当たった瞬間、腕を引っ張られ、路地の中に連れ込まれた。腕を捻りあげられ、乱暴に壁に押し付けられる。痛いと思ったのもつかの間、首筋に冷たく鋭い物が当てられ、ジェラールは固まった。
 当てられているのは、おそらくナイフ。自分は今、命の危険に晒されている。
「何故私をつける?」
 低く、冷たく、しかしそれでいて心地の良い声だった。それだけに、例の怪物を連想して恐怖は強まる。
「俺は、探偵だ」
 何とか勇気を振り絞って喋ったが、口走った内容にすぐに青ざめる。これでは、探っていたと白状したようなものだ。
案の定、そう受け取ったらしい。首筋に当てられたナイフを握る手に力が籠ったような気がした。
「探偵? 誰かに私を追うように頼まれたか」
「違……っ」
 否定する声は、自分で聞いても悲鳴混じりだった。思えば、甥っ子に頼まれたとはいえ、これについては仕事が絡んでいない。単なる好奇心で死ぬのか、と思うと、自分の浅はかさを呪いたくなる。
 がたがたと震えそうなのを、歯を食いしばって耐えていると、背後の女が、ん、と疑問の声をあげた。
「お前、昨日船の前にいたな」
 一瞬だけ、恐怖が吹き飛ぶ。確信していた事柄が、確証を得た。
「やっぱお前が殺した……!」
 昨日、ジェラールは船乗りとシレーヌしか見ていない。ジェラール以外には、被害者と加害者しかいなかったはずだ。そして、彼女は被害者ではない。となれば、加害者の他にない。
「だとしたら、昨日見かけた時点でお前を殺している」
 それはそうだとも思ったが。
「じゃあ、これはなんだよ!」
 首筋のナイフを示すと、しばし考え込んでから彼女は身を離した。ナイフをしまい、腕を解放される。自由になったジェラールは、振り向いて相対する。
 初めて間近に見るその姿に息を飲んだ。
 凄い美人だ、というのは自分で言った言葉だったが、改めてその姿を見てみると、その言葉ではとても形容仕切れない。整った顔立ち。肌は不健康に見えないほどに白く、鼻は高すぎず低すぎず、形も良い。目は少し切れ長、唇は薄めだが、冷たい印象を与える彼女には、むしろプラスの要素でしかない。例えるならば、月の光。冷たくもあるその光に、魅了されぬものはいないだろう。宝剣の刃。その鋭さに恐れを抱きながらも丹念に磨かれた刃の輝きに見とれずにはいられない。
 シレーヌ。
 伝説のあの妖は、実はこのような姿をしていたのだ。思わず、そう信じそうになった。現実のものかと見まごうほどに、彼女は綺麗だった。
 意外なのは、眼鏡を掛けていたこと。銀色のフレームに嵌ったレンズは、青味がかっていた。髪以上に特徴的な瞳の色を誤魔化すためだと気づく。
「もう一度訊く」
 ジェラールを現実に引き戻したのは、歌を紡げばさぞかし素晴らしいだろう、その声だった。
「何故私をつける?」
 問い詰める声は、一度目よりは柔らかく、だからこそ魅了されてしまいそうになる。ジャンが歌を聴いたというのが、羨ましく思えるほどだ。
「俺は……」
 喉の奥が渇いて、うまく声を出すことができない。自分を保つのに必死だった。
「あんたが、船乗りを殺して回っているのだと……」
 少女は、ふん、と不機嫌そうに鼻を鳴らした。そこに少しの人間らしさを見つけて、思わず緊張が緩んだ。
「私に、殺して何の得がある」
 確かに、あれだけの人を殺しても利益はない。少なくともジェラールには思い付かない。とても殺人を楽しむようには見えないし。
 だが、それだけで彼女が無実であることを証明することはできない。
「一昨日、倉庫街にいたのは?」
「散歩に」
 夜に女が1人で、と思ったが、彼女が陽の光の下を散策する姿もピンとこない。
「……ああ、あの子どもか、そもそもの原因は」
「おい、ちょっと待て」
 ジェラールは焦った。シレーヌの証言はジャンが発端だ。警邏も真面目に受け取らなかったから、甥とジェラールの口を封じれば彼女の嫌疑はなくなる。
 駄目だ。自分は自業自得のところがあるが、甥っ子だけは殺させる訳にはいかない。
「危害を加えたりはしない」
 心の内を呼んだように、少女は言った。
 思ったよりも危険な存在ではないようだ。
「取り敢えず、あんたがシレーヌなんだな」
 殺人鬼かどうかでなく、ジャンやジェラールが目撃した人物であることを確認する。
「おそらくそうだな。シレーヌと呼ばれたのは初めてだが」
「あんた、何者なんだ」
「ちょっとした通りすがりだ。買い物に来た連れについてきた」
 連れ、というのはあの青年のことだ。やはり親しかったのだ。どう見ても兄妹には見えないから、恋人か。
 ……とても、目の前の美少女に恋だのという浮いた話は似合わない。
「とにかく、関わらないことだ。昨日は運よく犯人を見なかったらしいが、このまま関われば狙われる」
 そこでふと、通りのほうに目を向けた。ただでさえ暗い路地に、影が射す。
 シレーヌの目付きが、険しいものに変わった。
「……いや、遅かったな」



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