Oneiroi

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 朦朧とした意識が浮上したのは、いったいどれほどの時間が過ぎてからだろうか。頭から水を被ったような衝撃に身を震わせる。無論、水など掛けられてはいない。服の下がびっしょりと濡れているのは、汗の所為だ。急激に冷やされて、寒い。
 意識を失っている間は、世界から切り離されたような気分だった。体が浮上し、溶けていくような。自分が自分を超え、気分が高揚としていたような……気がする。今は自分が何を考えていたのかよくわからない。
 ロビンに渡された薬は確かに遅効性だったが、劇薬だったようだ。中毒時の昂揚感などすっかり消え失せて、今は寒気しかしない。気付け薬がここまで効果があるものだとは知らなかった。
 ふらつく身体をなんとか動かし、出口へ向かう。なんとなく明るい方に向かえば、金属の扉に対面した。ちょうど目の位置に作られた、擦り硝子の嵌った窓が明かり取りとなっている。
 未だ部屋に充満している阿片の煙を吸わないように呼吸を抑えつつ、手探りでドアノブを探る。見つけると、まずそっとノブを回してみた。開かない。鍵が掛かっているのだ。
 諦め悪くこじ開けようとすることはせず、油断すれば霞んでしまいそうな意識の中ドアノブとその周辺を指先で撫でまわす。ドアノブの真ん中に鍵穴があった。部屋側に鍵穴があるとは奇妙なことだが、もしかしてこの部屋はもとからそういうことに使われていたのだろうか。
 ドアノブを替えたに決まっている。オカルトじみた妄想に笑いつつ、ジェラールは服を探ってピンを取り出し、ピッキングを行った。ほどなく手ごたえを感じ、ドアを引き開け外へと転がり出た。
 外に出られたことで安堵した所為か、足が縺れて床に倒れ込んだ。1つ呼吸をすると、冷たい空気が肺の中に送られる。熱も煙もないのが心地よくて、何度も喘ぐように呼吸を繰り返した。
 その様子をその場にいた全員が見つめていた。
「へぇ、まさか本当に来るとはな」
 聞き覚えのある声に顔を上げた。涙でぼんやりとした視界で見えたのは、ここの少年たちとその客人と思われる2人の姿。
 感心したような呟きは、確かにシンのもの。ということは。
 面白がる表情を浮かべるシンの隣に、フードを被った黒い影が見える。その中の顎のラインと銀色の髪が見えたのは、偏にジェラールの視力のお陰か。それとも、シレーヌへの執念ゆえか。
 間に合った。
 間に合わなかった。
 果たしてどちらだろう。
「知り合いか?」
 尋ねるのはシンの前に立つ少年。さっきジェラールが訪ねてきたときにはいなかった。あれがリーダー格か。
「そんなところだ。引き取るか?」
「……いや、用があるらしいからな。あんたたちに帰って貰ったあとに聞くとするさ」
 用、というのはきっと薬の取引のことだろう。ジェラールは先程売人を名乗ってここに来た。あんなところに放り込まれたが、話をする気はあったのか。
「ということは、こちらの要求を飲む気はないと」
「その通りだ」
「そうか。そりゃあ残念だ」
 言葉の割に、残念さを微塵にも感じさせない。嫌な予感がした。全身が粟立つ。ロビンの気付け薬など目ではないくらいの効力で、淀んだ意識が回復した。
 止めなければ。そう思うのに、手足が重くて身体が思うように動かない。ただ両腕で上半身を支えることしかできなかった。
 頼むからもう何も言わないでくれ。ジェラールの願いを彼らは裏切る。
「そうそう。迷惑料と言ったらなんだが、そいつは置いていって貰おうか」
 そんな馬鹿な要求に、頭の中が真っ白になる。少年たちが誰1人、その男の危険性に気付いてないことがジェラールには信じられない。
「そいつ、女だろう? そんなマントを被っていても、何回か見ていれば判る。こちらでは遊ぶに数が足りなくてね」
 16人の愚連隊の中に少女は僅か5人。華がないとは言わないが、確かに少ない。少ない、が。
 まさか、そんなことのために彼女を要求しているのか。
「……止めておいたほうが良いと思うぜ?」
 さすがのシンもこれには眉根を寄せる。しかも忠告付きなのだが、少年たちは取り合わなかった。
「こういう交渉事に女を連れてきておいて何言ってるんだ。元々そういう目的のために連れ歩いてるんだろう」
 つまり彼らはイリスをシンの愛人かなにかと勘違いしているのか。仮にそうであった場合、あんなマントなどではなく見せびらかすように着飾るだろうに、そうしていない理由を彼らは考えなかったのか。
「そういう考えもあったかー。悪い、失念してた」
 これはイリスへの謝罪。フードを深く被った彼女は無反応。
「けどお前ら、もう少し危機感ってのを鍛えておいたほうがいいぜ? ……まあ、今さら遅いけどな」
「四の五の言わずにさっさと……」
 はぐらかすようなシンの言葉に苛立った愚連隊の中の小太りな少年が、マントを被ったイリスに手を伸ばす。それをシンは僅かに目を細めて見ていた。
 冷汗など、とうに引いた。
「待て、やめろ!」
 思わず出た制止の言葉は、果たしてどちらに向けたものだったか。
 暗闇の中、灯が一つ増える。
 耳を塞ぎたくなるような悲鳴が、廃工場の中に反響した。
「な、なんだ!?」
「何が起こった!」
 火種も油などもなにもなく、突然人が燃え上がった事態に少年たちはただ困惑した。知っている者からすればなんてことはない、シンの異能の仕業なのだが、悪事に手を染めた少年たちは異能者の存在を知らなかった。
 彼らはその程度の悪党なのだ。
 恐慌状態のなか、くつくつと愉快そうな笑い声が響く。無論、こんな状況で笑えるような神経を持ち合わせている者など1人しか居ない。
「シン!」
 そいつは火だるまになった少年のことなど気にも留めず、ジェラールの咎めも無視して、愉しそうに少年たちを嘲笑した。
「言ったろ? 危機感を持てって」
 悪魔。
 おそらくこの場の誰もがそう思ったことだろう。彼の本性を目の当たりにして、ジェラールはうすうす察していた部分すら片鱗でしかなかったことを悟った。
 ふと、悲鳴が消える。全身に炎を纏った少年が消えてなくなり、代わりに灰の山があった。
 燃え尽きるにはまだ早すぎる。そもそも灰になるほどの火力もなかった。普通なら炭化した死体ができて終わり。それなのに。
 心当たりがあるジェラールは、シンの隣に目を移す。
 悪魔の傍に、銀色の影があった。銀の髪が灯代わりの篝火の色を映して輝き、普段は念入りに隠された銀色の虹彩が現れる。
 銀の瞳は悪魔の瞳。対象物を灰へと変える。
 イリスが、フードを外してそこに佇んでいた。
「お優しいことで」
 嫌味とも茶化しともつかない、シンの言葉。ジェラールは、これがイリスなりの慈悲なのだと気が付いた。彼は死から逃れられなかったが、イリスの邪眼で焼き尽くされる苦しみから解放されたのだ。
 だが、そんなことを感じさせない、取るに足らないといった様子でイリスは口を開いた。
「火を使うわけにはいかないから私を呼んだんだろう。だというのに、お前がそれを忘れてどうする」
「嫌らしい男から守ってやったっていうのに、酷い言い種だな」
 恩着せがましいシンをイリスは睨む。しかし彼が灰になることはない。イリスがそれを望まないからだ。付き合いが長いのだ、それは当然。だが、何故という思いがジェラールの心の内を支配した。どうして同じ視線にさらされながら、薬を売りさばいていただけの小悪党が灰になり、少年を容易く火だるまにするこの男はそのまま在りつづけるのか。
 さて、とシンが目の前の凶行に固まった少年たちを見る。
「ま、待ってくれ!」
「充分待った。もう遅い」
 ずっと笑みを浮かべていた男から、とうとう表情が消えた。
「1人も逃すな」
 深い溜め息が1つ。
「分かっている」
 死刑執行の合図に、ジェラールは喉を引き攣らせた。
「探偵、動くなよ」
 ジェラールを巻き込みたくないが故の言葉なのだろう。彼女がそれだけ自分を価値あるものとして見てくれている証拠だが、それを喜ぶ余裕がジェラールにはない。
「シレーヌ、やめろ!」
 叫び声は虚しく、少年たちは次々に灰になっていく。止めなくてはと思う一方で、全く動けなかった。
 1人、また1人と灰となる。それを見た少年たちは悲鳴を上げながら工場内を逃げ回り、イリスの視線から逃れられずに灰の山となっていった。
「シレーヌ!」
 聞き入れられず。
 全員が灰になっていくのを見ていられなくて、ジェラールは目を伏せた。それしかできなかった。
 次に目を開けたときには、廃工場の中には幾つもの灰の山が築かれ、ここを根城にしていた少年たちはただの1人も残っていなかった。



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