Banshee

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 大通りから路地に入る。石壁の迫った道の間を何本か経由して、辿り着いたのは猫の看板がぶら下がった喫茶店だ。あまりに普通の場所だったので少し意外に思ったが、そういえばシレーヌと一緒にいた青年が喫茶店を経営していると言っていたのを思い出す。そもそも、ジェラールの故郷に来たのも茶器を買い求めるためだった。
 店の前、扉を開けるに邪魔にならないところに、黒猫が1匹座っていた。じっと探るようにこちらを見つめる、グリーンブルーの瞳。その色に既視感を感じた。
 窓から中を覗いてみれば、木の温もりのある洒落た店内が見えた。静かで落ち着いた雰囲気。だが、客はいないようだった。繁盛していないのは、中心街から離れているために仕方ないような気もする。が、経営は成り立つのだろうか?
 ここまで案内してくれたオーレリアは、何も言うことなく扉を開けた。カランカラン、と低めの音のベルが鳴る。
「やあ、来たよ」
 躊躇いなく店内に入る彼女は、店の常連だったようだ。つまり、シレーヌのことを知っているどころではない。面識もあるのである。ここに来て一発目、彼女を掴まえることができたのはあまりにも偶然が過ぎないか。
「ああ、レラ。今日は遅かったね」
“今日は”。つまり、毎日来ているのか。
 レラ、はオーレリアのことを指しているらしい。なるほど、彼女はリアと名を略してもいまいち似合いそうにない。それよりは男とも女とも判別のつかぬ名のほうがぴったりな気がした。
「ちょっと見物に行ってきてね。それよりもお客だよ」
「催促するなよ」
「そうじゃなくて。イリスにお客だ」
 猫が視線を逸らし、店内に入っていく。それを視線で追っていると、入店を促すようにオーレリアが入り口から身体を退けた。結果店の中を覗き込む形となり、視線を上げるとカウンターに立っていた店主と目が合った。
「君は……」
 店主は――その青年は、見るなりジェラールが誰だか気づいたらしい。猫と同じグリーンブルーの瞳が驚愕で見開かれる。
 やがて驚きが一通り通り過ぎると、青年は表情を失くす。一瞬しか見えなかったが、その僅かな間だけでも分かる朗らかさすら顔から消え失せて、ひたとジェラールを見つめた。
「忠告、忘れた?」
 問う声は責める様子もなく穏やかだった。それだけに、親切を仇にした心が痛む。
「……いや」
 言われるまでもなく、覚えている。覚えていたから先程のオーレリアの質問に答えられなかったのだ。
 夢だと思って忘れろ、という忠告。
「ならどうして来たの。俺たちに関わることのその意味、身をもって体感したでしょ」

 ――彼女は殺人事件の犯人でも伝説の人妖でもなかった。
 けれど、人間でもなかった。
 彼女の瞳。まるで水銀を流し込んだような色の虹彩。およそ人間にありえないその眼は、彼女が意志を持って何かを見つめることで対象を灰に変えた。
 その特異な能力を、彼らは異能と呼んでいた。そして、自分たちは異能者であると。

 じっとこちらを見つめるグリーンブルーの瞳。ただの好青年に見える彼もまた、シレーヌと同じく特殊な能力を持っていた。確か名をロビンといったか。動物と話すことができるのだという。
「……馬鹿なことしているとは思っている」
 本当にそう思っている。ジェラールは別に非日常を求めているわけではない。何事もなく生きていくのが一番だ。探偵という仕事も、適正と成り行きで就いていただけに過ぎなかった。
「けれど、忘れられなかったんだ」
 暗闇の中で仄かに光る銀色が脳内にずっと残っていた。月の光の如き銀。冷たいその色は、ナイフのようにジェラールの胸に突き刺さっている。
「……入りなよ。お茶の一杯くらい奢ってやる」
 勧められて店内に入る。先に座っていたオーレリアと1つ席を空けて、カウンターの円形の椅子に腰かけた。テーブルは木製で、使い込まれて黒ずんだ木の板に新しく重ね塗りしたニスが光る。
 店主はやかんを火にかけている。それをぼんやり見ていると、先程の黒い猫がジェラールの隣の椅子に飛び乗った。器用にお座りをして、あくびをする。……飲食店に猫なんて、構わないのだろうか。
 茶葉をティーポットに入れながら、ロビンは口を開いた。
「気持ちは分からなくもないよ。俺も一目惚れだったから」
「えっ」
 一目惚れ。
 誰が。俺が? 誰に?
 端からしてみればそうとしか見えないというのに、当のジェラールはそんなこと全く思い当らなかった。それ故に意表を突かれた。
「いや、俺は、別に彼女をどうこうしたいって訳じゃ」
 慌てて否定の言葉を口にする。確かに綺麗だと思う。見惚れたし、魅了された。けれど彼女を女としてどうこうしたいとは思っていない。
 ――思えない。
 椅子の上でわたわたと慌てるジェラールを見て、オーレリアが愉快そうに笑う。
「初心だね」
 ジェラールは暴れるのをやめた。否定の言葉が出なかった。
「レラ」
「気にすることはないよ。私もそうなのだから。……皆そうさ。彼女の魅力に取り憑かれる」
 窘めるロビンを無視して彼女はなおも笑う。
 取り憑かれる。その表現は果たして正しかった。自分の正気のなさは魔に魅入られたと言っていい。ただ、そうとわかっていながらもこうしているのは自分の意志だった。
 後悔はしていない。これからもしないと確信できる。たとえ、その銀光がこちらに向けられても。
 どうぞ、と紅茶を出される。白磁の茶器。なだらかで滑らかなカップとソーサーの縁に、藍色の線が入れられていた。そこに入れられた褐色の海の中を、黒で塗りつぶされた小さな人魚が泳いでいる。
「La petite sirene……」
 そんな童話があった。これも“シレーヌ”だ。シレーヌと縁深い定めなのか、それとも店主が気を働かせたのか。
「それ、あのとき購入した茶器なんだ」
 どうやら両方だったようだと知る。ロビンはジェラールの故郷に行くきっかけとなった品を見せたかっただけなのだろうが、それが人魚の絵だったことは偶然に違いない。
「あんな遠くまで行ってわざわざ買ったんだから……高級品なんじゃねーの?」
 あのときは起こっていた殺人事件の所為で品がなかなか入ってこなかった。それなのに、遠出をしたからということもあるだろうが、長いこと粘って待ち続けていたのだ。それだけの価値のある品だとジェラールは踏んだのだが。
「いや、それは違うよ。安物、と言えば失礼だが、そうそう高値で売れるものじゃないね」
 造形作家のオーレリアが口を挟む。
「おそらく、それは無名の作家の作品だ。もしかしたらただの道楽で作ったのかもしれない」
 となれば、安価なはず。粘る価値があるとは思えない。
 しかし、彼はそんなことは問題でないとばかりに笑う。
「欲しかったんだ」
 ……まあ、他人が口出すことでもないだろう。人によって物の価値は様々だ。
 ようやくカップの中の紅茶を口にした。
「そういえばシレーヌは」
「残念ながら、お遣いに行ってるよ」
「お遣い!?」
 それはとてもあのシレーヌに似合わぬ言葉だった。
「イリスもここの従業員だからね。働かせないと」
「働く……」
 彼女が注文を取ったり給仕をしたりするというのか。とてもその姿が想像できなかった。



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