La Sirene

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「ごめんな、イリス」
 宿の一室で朝を迎えたシレーヌ――イリスは、済まなそうに頭を下げる青年を見て首を傾げた。
「……なんのことだ?」
「ここに連れてきたこと。少しはああいうことから離れられるように、と思ってたんだけど、結局その眼を使わせてしまった」
 眼。イリスは片手を目蓋の横に這わせた。いつも虹彩の色を誤魔化すために掛けている眼鏡はなく、瞳は金属の色を見せている。光を取り入れて物を映すだけでない、簡単に人を殺すことのできる凶器となる銀色の眼。この眼の所為で、幼い頃から辛い思いをしてきた。昨晩のようなことも珍しくはない。
 目の前にいるロビンは――同じ特異な力を持っていても普通の人間と同じ感覚を持つ青年は、そんなイリスを哀れんでくれていた。今回のこの旅も、今でもなお不本意に事件に巻き込まれるイリスを心配して、そういったことから一時だけでも遠ざけようとしてくれたことだ。結果として、青年の意図は報われずに、妙な事件に巻き込まれてしまったが……。
「さして気にすることじゃない。海を見るのはなかなかだった」
 住まいを離れるのは良い気晴らしになったし、言うように海を見れたのは良いものだった。謝罪などいらない。寧ろ、こちらが感謝しているくらいだ。
 珍しく落ち込んでいるロビンは、その言葉でようやくいつものように笑みを見せた。
 少し、疲れたような笑みだったが。
「……帰ろうか」
 目当ての食器も無事手に入り、この町に留まる理由はない。それに、事件は解決したとはいえ、まだ世間には知れ渡っていないのだから、妙な疑いをもたれる前に退散するべきだ。
 足下でルイがにゃあ、と鳴く。
「その前に、一つだけ」


「それで、シレーヌはどうしたの?」
 薄暗い事務所。身を乗り出して、ジャンは尋ねる。ジェラールは得意げに――そう見えるように物語の締めくくりを口にした。
「勝手に犯人にされて腹を立てて、真犯人を沈めちまった。そして、そのまま海に消えてったよ」
 言うまでもなく作り話だ。真犯人は魔法を使って人を殺し、罪をシレーヌになすりつけたのまでは本当。だが、彼は沈められたのではなく塵となって吹き飛んだ。まさかそのままを伝えるわけにはいかない。犯人が警官であることももちろん、悪魔の力で殺されたなど。
 だから、ジェラールは調査の結果を知りたがるジャンに嘘を吐くことにした。おとぎ話に作り変えたのだ。真実を伝えなくとも、甥っ子が少しでも満足することを期待して。
「もう、あんなことは起こらない。そのうち、仕事も再開になるだろ」
 町の人はまだ殺人鬼の陰に怯えているが、死んだあの捜査官にに新たな事件を起こせるはずもない。被害が出なくなったことを察すれば、それから2,3日のうちに貿易は再開されるだろう。そしたら、ジャンの仕事も戻ってくる。
 この事件も、シレーヌの仕業として終わるはずだ。あの銀髪の娘のほうではなく、伝説の怪物のシレーヌのものとして。もしかしたら、ジェラールのほら話も広まるかもしれない。
「そっかぁ……」
 そう呟く子供の目は輝いていた。仕事に戻れる安堵感だけではない。ジェラールの“作り話”に感動したのだ。男というものは――特に子供は、冒険が大好きなのである。
「ジャン」
 そろそろ帰る、と言った甥をジェラールは引き留めた。
「あんまり遅くまで働くんじゃねーぞ。何かあったら、姉ちゃんが悲しむからな」
 今回の事件では幸いにして何もなかったが、夜道には危険が潜むものだ。いつか何事かに巻き込まれないとも限らない。今回彼女にその気がなかったから良かったが、そうでなければ、目撃した晩に死んでいたかもしれないのだ。
 ジャンは神妙に頷いた。シレーヌに遭遇した彼も、思うところがあるのかもしれない。
「じゃあ、俺行くよ。また面白い話、聞かせろよな」
 作り話であることはばれている。こんな嘘を鵜呑みにするほど子どもではない。寧ろ、しょうもない叔父の作り話を真剣に聞いて、満足してくれるあたり、そこらの大人以上だ。働く子供とはそんなにも成長するものなのか。それとも、甥っ子ができすぎているのだろうか。
 ジェラールは天井を向いて、溜め息を吐いた。机の上には、新しい依頼書。猫捜しの依頼だ。
 事件の後、あの2人は、港に現れ、探していた茶器を手に入れたらしい。港の船乗りが、銀髪の眼鏡を掛けた綺麗な娘の話をしていたのだから、間違いない。
 今日明日には、この町からシレーヌは姿を消すだろう。行く先は海の中でなく、彼女の住む町。彼女らが住む町は、どんな町だろうか。ああいう者たちが蔓延っている町か。それとも、仮初めにも普通の町だろうか。
 彼らの力は、悪魔より与えられた力だという。動物と会話する能力はともかく、一睨みするだけでものを灰にしてしまう力は、確かに悪魔のものに思えた。
 だが、彼女自身は、悪魔めいていない気がする。身辺を探るジェラールにナイフを突き付けはしたものの、暴力を振るうわけでもなく、それどころかかまいたちからジェラールを守ろうとしてくれていた。青年にしてもそうだ。彼はさんざん忠告してくれた。
 結局、彼らは何者だったのか。
 ふと、窓辺に黒い影が差した。見てみると、黒猫が立っている。あの猫だ。
 窓を開けると、咥えていたなにかを落として去っていった。拾ってみると、メモのようだ。そこには、何処で情報を拾ったのか、ジェラールが探そうとしていた猫の居場所についての情報が書かれていた。
 窓を見下ろすと、あの2人が立っていた。青年のほうが猫を抱えあげ、こちらに向けて手を挙げた。シレーヌもこちらに一瞥を寄越す。
「異能者、ね」
 ジェラールも手を挙げてそれに応えると、2人は背を向けて歩き出した。これから、帰るのだろうか。その後ろ姿は、絵になるとは言えないが、仲の良い普通の恋人同士のようにも見えた。人と何ら変わらない。
 窓から離れ、帽子を被る。そして、上着と写真を手に取ると、事務所のドアに手を掛けた。



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