第15章 救いを求む禍の火種


  1.

「嫌な風ね」
 陽が暮れかかり、空が僅かに赤くなったルクトール西門の城壁の上。普通、街の守護をする兵士以外に立ち寄る者のない場所に、アリシアは1人佇んでいた。眼の前に草原が広がっており、更に離れたところに森が見える。小さな森だ。あの森の中に3国の国の境があるはずだ。いや、今はもう2国か。
 陽が沈むことで生まれた風が、彼女の頬を撫でていく。
「戦の匂いがする……」
 1000年も昔の話とはいえ、アリシアはもともと兵士だ。戦を生業としていた。破壊神として世に留まり続けたあとも、何度も戦を見てきている。新しく創られた世界、この小さなミルンデネスでも、その外側の大地でも、人のいるところ血生臭い争いは起こる。
 それは人の悲しい性なのか。だとしたら、アリシアのしたことの意味はなかったことになる。あの忌まわしき剣を手にしたのは憎しみからであるが、それでも心の何処かでは期待していたのかもしれない。
 世界の変化を。
 人間の変化を。
 人が人を悲しませる生き物であることを否定したかったから。戦こそが人間の本質であるわけがないと信じたかったから。
 だから、あの剣を手にとった。
「……まさか、後悔するなんてね」
 1人呟く。あのときの自分は、絶対に後悔しないと思っていた。
 だが、実はずっと後悔していたのかもしれない。自分で決めたくせに、悔んで、辛くて、逃げていたのだ。この1000年間、ずっと。
 かつて、無責任だと言われたことがある。オルフェにも、レティアにも、他にも何人か。
「この小さな世界で、争いが起こる……」
 今では大きな国が3つしかない世界。北には、普通ではとても越えることのできない山脈がそびえ、西から南にかけて海が広がり、東はかつての世界の残骸が立ち並ぶ。そんな小さなエリウスの創った世界。
 あの小さな少年が、なにかを企んでいるのは間違いない。これから起こるこの戦争はまさしくそれだろう。
「関係、ないわ」
 今更だ。人は憎み合い、殺し合う。ただ1人の、ちょっとした権力を持った者に振り回され、世界は悪意に包まれ、人は狂気に踊る。それが人の世の真実。
 だが。
「あの子たち、何処にいるのかしら」
 関係なくとも、心配になる人間はいる。友を失い悲しみに暮れるまだまだ甘い青年や早くも咎を背負ってしまった少年は、放っておくことができなかった。
 だから今、全てに無関心なはずのアリシアはここにいるのだ。

「これが今日の分の報酬だ」
 硬貨の入った袋を手渡され、ラスティは安堵した。これでしばらくの宿代と食費を確保できた。
 〈挿し木〉に仕事を紹介してもらって、ずいぶんと日が経つ。酒場の用心棒だけでなく、他にも色々な仕事をもらったりして過ごしていくうちに、この生活にも慣れてきた。
 慣れてきたが、やはり宿で生活しているので出費はかさむ。食事も自分で作っているわけではない。どうしても金は必要になる。
「……そういえば、アリシエウスにいた頃は、ここまで金のことを気にしたことはなかったな」
 これでも一応貴族。父は仕事は真面目で賢く騙され難かったため、没落の危機に陥ったこともなかったし、騎士になってからは、普通の職業とは比べ物にならないほどの良い給料が入っていた。特にこれといった趣味はなく、剣の手入れは自分でして、魔術に手を染めることもなかったので装備にも金がかからず、遊びで通っていた唯一の場所は庶民派の安酒場。賭けもゲーム感覚で少量だけ賭けて、負けたなら負けたで気にすることなく、浪費もせず、躍起になって取り返そうとしたこともない。
 つまり、浪費と言える浪費など一度もしたことがなかったのである。
「金持ちはこれだから……」
 故郷で貧しい生活を送っていたレンは、その金持ちを呆れた風に半眼で見上げた。
「ま、金銭感覚が普通なだけマシですけど」
 それは単にディレイスの街遊びに付き合わされたお蔭ではないかと思う。あらゆる商品の相場を知り、一般家庭の生活の話を聞いて知り、自分の家とそうでない家の違いを知って、金銭の使い方を考えるようになったのだ。自分たちが手にするのは、民たちが汗水垂らして稼いだものの一部。受け取るからにはそれに報いなければならず、だからある程度勤務も真面目にやった。昼寝などしていたのは、やることをやったあとである。
 しかし、こうして市井で働いてみると、あれでも自分は贅沢だったことを知る。
「よう、頑張ってるみたいだな」
 カウンターの前でうっかり迷惑も顧みずに雑談をしていると、ギルドの奥のほうから野性的な中年の剣士が手を挙げてこちらへ来る。以前、ラスティたちを手記泥棒扱いした、カーターとかいう名前の男だ。
 実は、ラスティたちが〈挿し木〉に正式登録していないにも関わらずこうして仕事を受けられるのは、半分は彼のお蔭である。もう半分は紹介してくれたグラム。カーターは彼の名を聞くと、すぐに快諾してくれたのだ。なんでも、グラムたちの小隊は、グラムが隊長となる前はこの男が仕切っていたらしい。だから、弟子のように可愛がっているグラムを信用し、ラスティたちを信用してくれたのである。
「真面目に働いてるようで、感心なこった。腕もいいみたいだし、おめぇら、良かったら正式にうちの一員にならねぇか?」
 どうやら気に入られたらしい。獰猛な野獣を思わせる顔に、親しげな笑みを浮かべている。
 正直、少し怖かった。
 返事に困っていると、カウンターで記録を取っていた青年が厳しい目つきでカーターを見上げた。コルネリウスという受付係だ。
「支部長、勝手にスカウトしないで下さい。これで何人目ですか」
 冗談じゃない、と付け足す。ラスティが言われたわけではないのだが、なんだか腹の立った。こんな風で良く受付が務まるものだ。
 だが、カーターは気にした様子がなかった。カウンターに片肘を置いて、コルネリウスと視線を合わせながら、挑発的に笑ってみせる。
「なんだよ、俺の眼を疑うのか? それに、グラムのお墨付きだ。問題はないぜ」
 その確固たる自信に、ラスティは軽く驚いた。
「ずいぶん信用されているんですね」
 グラムは、決してそれだけの人物ではないが、一見して軽薄なお調子者である。
「小さな田舎育ちのわりに、あいつの人を見る目は確かだからな。あんなんでも実は鈍くないから、企みには気付かなくても、悪意には気付く。ま、勘がいいんだな」
 さすが、かつての部下だからか、よく見ているらしい。しかも一時期自分が育てたものだから、それだけ信じているようだった。
「だから、僕たちを誘うんですか?」
 信用できる部下が、信用しているから。動機として充分といえば充分だ。どうやらこのギルド、もう少し人材を充実させたいようであるし、即戦力が欲しいと言っていた。
 が、レンの疑問に反して、カーターは凄みだした。
「それはちゃんと俺様の目で見て判断したんだよ。見くびんじゃねぇ」
 すみません、と直ちに謝った。やはり野性的――狼か虎のようで、少し凄んだだけで気圧される。しかし、人柄を知るにはこの数週間で充分で、頼りにはなるし、その背についていきたいと思わせるような人物だ。かつて試されたことによる怒りは、とっくの昔に忘れてしまっている。
 そんな人物の目にかなって、少しも嬉しくないはずがない。



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