第13章 すれ違い、遠ざかる 1. 〈塔〉の中は、慌ただしい雰囲気に包まれていた。自分や友の身を案ずる者、力を発揮できると意気込む者、研究に支障が出ると文句を言いながらも準備をする者、愚かな選択と憤りながらも逆らえない者。まるで、シャナイゼで戦争が起こるようだとウィルドは思う。 その喧騒も、図書室の中までは及ばない。今、ウィルドが安らげる場所はここしかなかった。読書用の机からかなり離れた書棚。利用者の少ない黒魔術の書架。関わり合いのない分野だったが、くだらない話を耳にするよりはずっといい。 パラパラと手慰みに本を捲る。黒魔術は陣よりも呪文に重点を置いた魔術なので、魔術書には珍しく図解よりも文章のほうが多いが、記された内容は魔術師にとってはそう難しいものではない。ただ、黒魔術を使いこなせるのはほんの一握りしかいない。これは努力や才能ではなく、素質に問題があるのだ。 ……まあ、それはどうでもいい。 パタン、と革の本を閉じ、書棚へと戻す。どうも読書にも集中できそうにない。 「よほど不安と見える」 背後から掛かった凛とした声に、ウィルドは内心溜め息を吐いた。 「なんの用です?」 振り向きはしない。さっさと帰ってくれればいい。 「久しぶりに会ったというのに、可愛げのないことだ」 皮肉な笑いを洩らしながら声は言う。それがますます不快だった。読書の邪魔をしてきた者に、何故愛想など振り撒かなければいけないのか。 「ずいぶんと楽しそうにしているな。はじめ見た時は別人かと見間違うた」 ウィルドは観念して振り返った。このまま背を向けていれば、ずっとからかってくるだろう。 背後に立っていたのは、古臭く堅い言葉づかいからはとても想像できない可憐な女性だ。黄色に近い金の短髪。翠の瞳。強い意志を宿した自信に満ちた笑みに垣間見える気丈さと豪胆さは、知らず知らず人を引き付ける。それもそのはず、昔は戦女神などと呼ばれていた。 まだ、女神が世にたった2人である、とされる前の話だ。 「不安、とは?」 半ば睨みつけるようにして、相手の顔を見た。この失礼ともいえる態度は習い症のようなもので、今更どうしようもない。慣れたもので、相手も気にした様子がない。 「気の置けない相手と死に別れることを心配しているのではないのか?」 思い出すのは、1人の少女の姿。 「図星のようだな」 「全く嫌なことを言う」 苦々しくウィルドは言う。顔を合わせるのが嫌なので、近くの本棚と向かい合った。腕を組んで、隙間なく並ぶ本の背表紙を眺める。 「貴女のそういうところは、昔から嫌いです」 「そう言うな、オルフェ。これでも、私としては友好的なほうだよ。……もっとも、お前と私は敵同士だったのだから、相容れないのも無理からぬことではあるがな」 遥か昔のことを思い出す。ずいぶん昔のことなのに、脳はしっかりと互いに切り結んだときの光景を覚えているのだ。夢に見るようにぼんやりとしたものではあるが、1000年の記憶など人間の脳の容量を超えているだろうというのに、こうも覚えているのには感嘆を覚える。 忘れさせてくればいいのに、とも思う。 「なにか用事があるのではないですか、レティア?」 これ以上、余計なことを探られるのは御免なので、こちらから話題を変えた。そもそも滅多に会わない相手。わざわざ会いに来た理由も気になる。 「無論だ。お前に会うためだけに、北方からこんなところまで来たりはせんよ」 言葉に含まれていた予想外の事実に、ウィルド――オルフェは耳を疑った。 「北にいたのですか?」 「そうだ。山脈の向こう側にいた」 山脈というのは、クレールとリヴィアデールの遠く北のほうにある、東西に横切るクオジレ山脈のことを指す。なかなか険しい山々で、登山は困難。その上、山脈の麓は荒れ地で、更には魔物が住まう。強い魔物ばかりのシャナイゼにいるものよりもさらに強い魔物がいるという。到底山を越えることなどできない。レティアがそれをできたのは、死なない身体を持つことと、1000年間剣の鍛錬を怠らなかったからにすぎない。 山脈の向こうにも当然人は住んでいて、独自の文化を作り上げている。だが、山が難所であるために、人が往来することなど全くない。クレールの西から北上するという手もあるが、なにやら海流の流れもよくないらしく、こちらも困難。こちらから行くことも、向こうから来ることもなく、漁をする者も沖合いに出ることがない。それ故に山脈の北との交流は無きに等しく、なかには、この地域以外にも人が住んでいることを知らない者もいるほどである。 「それで、用件だが」 思わず思考の闇にはまりかけたところを、明瞭な声が救い出す。翠の瞳に鋭さを宿して、はっきりと彼女は言った。 「エリウスの命令でな」 レティアの語った内容に、オルフェは次第に陰鬱な気分に陥っていった。 「……本気ですか?」 「本気だろう。奴はそういった馬鹿げたことをする子どもなのだよ、まだ」 それで行くのか、と訊かれ、答えることができず、ウィルドは書棚の陰に立ち尽くす。エリウスからの伝言というのは、とんでもない内容だった。そこにどんな思惑があるのかは知らないが、私情を挟めば、気に入らない。 だが、創造神は絶対だ。闇神である以上、彼に逆らうことは……。 「迷っているのか?」 優しくレティアは問いかける。 「それは、秤にかけなければならないものなのか?」 言われたことが分からず、振り向いた。目を合わせたレティアは、ウィルドを見て諦めたように息を吐きだす。 「まあ、しばらく考えるといい。あまり時間はないがな」 髪をかきあげてそう言うと、彼女は立ち去って行った。 夜にまた来る、と言い残して。 ――それは、秤にかけなければならないものなのか? 確かに、秤にかけるまでもない。なんのために、自分が今ここにいるのか。それを考えれば、選ぶ道は一つしかない。 たとえ、この場所は居心地が良くても、神である自分の居場所はここではないのだから。 「……そろそろ、去らねばなりませんか」 そう口にはするものの、なかなか思い切りがつかない。こんなにも寂しさを覚えるのは初めてだった。 [小説TOP] |