A

Aの摂動

1.2 どこにもない店

 八歳のときだ。赤い夕暮れに黒い影がひょろひょろ伸びる家路だった。アウロラは、珍しく寄り道をせずに学校から家にまっすぐ帰った。
 本当は、ランチとディナーの間の時間はハッジェが煙草をふかしているので会いたくなかった。ハッジェは煙草中だと機嫌がいいが、それを邪魔されると烈火のごとく怒り出す。獅子をつついて起こすような愚行をするほどアウロラは愚かではない。ただ、その日は家に今すぐ帰りたい理由があった。近所の家に子猫が産まれたのだ。
 アウロラは生き物がすきだった。アウロラはなんにでも興味を持つ子であったが、その興味が持続するかどうかは話が別だ。興味が持続する対象とは、命らしきもの。温かくて、トクトクと脈打ち、飛んだり跳ねたり歩いたりするものだ。
 アウロラは『閉店中』の掛札を通り過ぎて店の奥までダッシュで駆けこんだ。アウロラが珍しく早く帰ってきたので、ハッジェは驚いていた。怒るでもなく泣くでもなく、ただ目を見開いて驚くハッジェは珍しい。

「ただいま!」

 ハッジェはレジ前の丸椅子に座っていた。ハッジェの向かい側に、テーブルを挟んで男が座っていた。チェックのピンとしたシャツを着た男で、バカでかいリュックを背負っていた。
 こんなに邪魔くさいリュックを背負っているのは観光客に間違いない、とアウロラは思った。男はテーブルに右手を出して、前かがみになって何か話していた。テーブルの上はよく見えなかったが、赤と白のチェック模様の包みと金が並んでいた。
 
「あんた随分早いね」
「うん。カムサんちに猫見にいってくるから」
「猫?」

 ハッジェが聞き返したが無視して、階段を上がった。一旦学校用の鞄を置いて、猫のお小遣い箱の中から”狩り”で溜めた小銭をすこし出して財布に入れた。猫には餌が必要だもの。カムサんちの猫は何を食べるんだろう?やっぱり魚?ふと、冷蔵庫の中を漁って猫の餌になりそうなものをパクっていこうか考えた。
 アウロラは準備をしながらふと、先程の男がテーブルに並べていた紙包みについて考えた。あのタータンチェックの包みは、ハッジェがよく持っているものだ。ハッジェはいつもあの包みの中からクスリを出す。ハッジェの持っているクスリはあの男が持ってきているのだろうか?
 考えながら一階に降りると、男はまだそこにいた。アウロラを見て何か喋ったが、聞いたことない言語だった。男は柔和に笑みを浮かべて「アウロラちゃん」と言った。アウロラは挨拶しようと男のそばで立ち止まって、一歩、近づいた。男がわずかにリュックの左ポケットを気にする素振りをみせた。
 アウロラはテーブルの上を見たが、赤と白のタータンチェックの包みは既になくなっていて、札束だけがあった。ポケットに何か入っているの?アウロラはもう一度目を細めて、まるでそうするとポケットの中が透けて見えるかのようにじっとそこを見つめた。男はなおも身じろぎした。何か入っている。ゴツゴツしている……大人の掌ほどのサイズ。

「何見てんだよ、さっさと行きな!」

 ハッジェの怒号が飛んで、アウロラは一目散に走りだした。店を出ながらぼんやりと、ハッジェはあの包みを受け取っているのではなく、売っていたのだという結論に達した。ハッジェはあの包みを売っている。でもいつ作っているんだろう?クスリってカレーみたいにフライパンでいためたり鍋でコトコト作れるものなの?
 アウロラは不思議に思ったけれど、子猫に会うのが楽しみで、その日はすぐに忘れてしまった。

 ハッジェの隠し事が、特に大人が子どもにする一般的な配慮と少し様子が違うという直感はここ数年抱き始めたものだった。ハッジェの営むカレー屋にはよく何かの小包を持った男がきたり、意味深にアイコンタクトをして店で落ち合う輩が来る。そういう人たちは一見カレーを食べに来ただけの地元民か、観光客か、ハッジェの友人に見える。だが彼らの目を見ると、アウロラには不思議と何を考えているのかがわかった。
 何かを警戒している人、隠し事をしている人は表向きにこやかで社交的、あるいは”自分はいつもこうなんですよ。ええ、こうしてお茶を飲みながら携帯電話をいじって無為に時間を過ごすのが好きなんです”と周囲に全力で言い訳しているように見える。学校帰りや休日の昼間、一階のカレー屋でたまにそういう人を見かける。そして彼らは必ずハッジェと話したり、奥の厨房に入っていく。
 ハッジェはなぜ奴らとつるんでいるのだろう?奴らと何をしているのだろう? ……わたしがそれを知る日はくるのだろうか。――なにより彼らは”銃”を携行しているのだ。
 あの日、怒号を浴びせたハッジェの向こうで男は不気味なほどニコニコ笑っていた。目はカートゥーンみたいに湾曲して、リュックの右ポケットを気にしていた。嘘をついている。こいつは何か隠している。そのポケットに入っているものを見せろ!
 ”なによりも、ハッジェが一番そういう目をしてアウロラを見る。”
 ここ数年、特にそれを感じるようになって――いやもしかしたらわたしを引き取ってからかも――アウロラはハッジェと同じ空間に居ることが息苦しく感じ始めていた。元々十分憂鬱だったが、それとはまったく異なる種類のものだ。
 でも聞けない。知りたいが、知りたくない。



 さて、今日は平日である。

アウロラの通う公立小学校は、家から徒歩十分のバス停から毎日スクールバスで20分くらいのところにある。小学校から家まで距離が近い人は、午前中の授業が終わるとお昼ご飯を食べに家に戻るのが通例だ。アウロラの家は少し戻るには遠すぎたので、ハッジェが弁当を持たせる(または作らせる)。学校で食べることもできるのだが、近くに住んでいるエミネJの家に上がらせてもらうのが最近のお決まりになっていた。
 エミネJは同じクラスで、入学まもなくして話しかけられてからたまに話す女の子である。――たぶん、わたしの容姿……うまく言えないがイングランドやドイツのような西欧らしい顔立ち…?に憧れている。ミーハーな女の子の、熱に浮かれたような元気な振る舞いは実に奇妙に思えた。

「帰ったよ、ママ!」

 今日もエミネJの家でお昼を食べることになり、アウロラは居心地悪い気持ちで「おじゃまします……エミネおばさん」と小さく挨拶して鞄をお腹の方で握った。アウロラは何度経験しても、この他人の家に上がり込むという行為が好きになれない。どうにも居心地悪くて落ち着かない。エミネJが一度だけアウロラの家に来たときは、彼女はそんな風ではなかったはずなのに(いや、わたしがそう思ってるだけかも……と一度逡巡したが、やはりエミネJは勝手知ったるとばかりに堂々とカレーを食べていた)どうしてだろう……。アウロラのその躊躇いが透けて見えるかのように、エミネおばさんは毎回妙に大仰に手を広げてアウロラを迎え入れるのでますます苦手だった。
 洗面所で手を洗い席に着くと、いつ洗ったかわからないような茶渋のついたコップがめいめい置かれて、アイラン(僅かに塩気のきいたヨーグルトドリンク)が注がれる。これがまたひどく薄味でアウロラの好みではない。薄味アイランを回避するため毎朝お茶を水筒に準備してきているというのに……しかし以前、早く無くなって欲しい一心ですぐカラにしたらもう一杯注がれるという経験をしたので、仕方なくチビチビ飲んでいる。

「エミー、算数のテストどうだったの?」
「良かったよ、9点。でもアウロラは満点だったよねー」

 その日は二時間目に算数があり、小さいテストが行われた。十分程度のものだ。アウロラにとっては、簡単すぎてつまらないくらいだったのでエミネJの問いに「そうだね」と適当に返して湿ったサンドイッチをほうばった。今日のはハムを挟んだシミットとオレンジ、お茶。

「はやくハイキング行きたいな。ママ、紙書いてくれた?」
「書いたわよ、さっきそこ置いたじゃない……アウロラちゃん、美味しそうなパンねぇ」
 パン? ……パン屋!

「ね、ねえ聞いて。毎朝パンの焼けるいい匂いがするのに家の周りにパン屋がないの」

 いきなり思い出して声を上げると、二人は少しびっくりしたように食事から顔を上げた。

「窓から、匂いが…人の声もするのに。うちの近くにあるか知ってますか?パン屋」

 エミネJはガラムマサラやスマックの香りのする豆のスープを、平たい皿の上で追いかけ回すと、「知らない、その辺あんま行ったことないんだよねー」と言ってやっとこスプーンに小さく掬った豆を口に運んだ。バタつかせた足が膝小僧を蹴ってくる。
「あのあたりのパン屋っていったら〜、ああほら、もうちょっと郵便局の方に行ったあたりの道を海の方に行ったところになかったかねえ?緑の屋根の」
「そこだと遠い……と思います」

 アウロラは自分の声が曇るのがわかった。明らかに遠すぎる……誰が考えても。正直、エミネおばさんを最も苦手としている理由がこの“子ども相手に話しかけるような幼稚で単調な語り口”である。

「近くの家でパンを焼いてるんじゃない?」
 エミネJ、お前の方がまだマシな提案だ。
「でも”いらっしゃい”が聞こえるの。毎朝同じ時間におじさんが売り始める」
「ふーん」

 エミネは既に半分以上興味を失い始めていて、豆のスープにラストスパートをかけることに意識を集中している。
 エミネおばさんはしばらく思い出そうとしていたが、やがて冷蔵庫からヨーグルトを取り出して「新しくできたのかもね。海の方の店はあれちょっとハイソぶってるから」と結論づけ、豆の上にどさどさかけた。エミネJはそれを見て「蜂蜜!」と叫んで冷蔵庫に飛びつき「ちょっとにしな」と言われているにも関わらずびくびくと上限を伺いながら、空になったスープの皿にこんもりとヨーグルトをのせ、その上に蜂蜜をたっぷりかけた。
 それからアウロラはエミネJと一緒にパソコンでYouTubeを見たり、PS4でゲームしたりして遊んだ。エミネJは子どもなのに妙に勇気のあるところがあって、discordで謎の外国人と喋れもしない英語でチャットしながら土を掘って家を建てる変なゲームをするのにハマっている。アウロラは彼女のそういうところは割と好きだ。



 小学校はまあまあ楽しい。アウロラは学校の勉強は退屈で嫌いだったけど、自分で好きなものを調べるのは好きだった。特に図書室で少し難しい算数の本を読み理解できる自分への優越感に浸ったり、パズルが解けた瞬間に味わう秩序を導き出す過程に喜びを感じたり、植物図鑑や昆虫図鑑を眺めて空想にふけるのが好きだった。いつか誰も踏み入れたことのない未知の森や、沼や、谷を冒険して、見たこともない世界を見てみたい。小学校の四階から遠望するボスポラス海峡の、あのサメ肌に似た銀色にさざめく輝きのずっとずっと向こうに出ていくのって、たぶんかなり悪くないはずだ。
 しかしその空想はぼんやりしたイメージのままで、具体的な形を持たない。
 勉強すればいいのか、お金が必要なのか、一刻も早く独り立ちするべきなのか?
 アウロラはその曖昧なイメージを誰にも話したことはなかった。話したいとも思わなかったし、むしろ積極的に隠してすらいた。どんなに働いても僅かな給料しか貰えない仕事淡々とこなして生きていくのか、それとも法律をすり抜けてリスクとリターンの高い仕事に手を染めるのかーー。まだ10歳のアウロラのまわりにはこの2パターンの人間しかおらず、そこに、アウロラの心の一番奥に密かに湧き出た金色の泉のような気持ちを掬い上げてくれる人がいるという期待は全く持てなかった。
 それになにより気がかりなことは、ハッジェが自分に物凄く大きな隠し事をしている、という疑念があることだ。疑念、というのはそう感じている根拠がアウロラの持つ”不思議な直観”以外にないからだったが、アウロラは確信していた。

 ハッジェの隠し事、自分を捨てた親、たまに起こる変なこと。
 苦しい。わたしは常に、壁のような分厚くて憂鬱なものに覆われている――アウロラは時折爆発しそうになる。これらの名前のつけようのないなにかに囲まれ、まるで水中で身動きできないような息苦しさを感じているとき……すべてが突然爆発して、何もかも滅茶苦茶にして自由になりたくなる。これは閉塞感だ。圧迫感だ。わたしはこんなところにいるべきじゃないという虚しい空想に浸って、でもそれを長続きさせることができるほど能天気でもなかったアウロラは多種多様な人種と文化の入り混じる街の真ん中でこの鬱憤を人知れず抱えていた。

さて、アウロラの短い人生において、自分にしか聞こえない謎の声が聞こえるといった“妙”なことはたまに起こる。旧市街で”釣り”中にターゲットに接触する前に財布が手の中に入っていたり、うたたねするハッジェのマルボロから吸い殻が床に落ちるのを食い止めたり。その灰は、ハッジェ伯母さんが用意した灰皿にトントンと叩いてもびくともせず、アウロラが見つめるのをやめた後もガンとして落ちようとしなかった。最終的に、物理法則を無視した形で細長い灰が出来上がるのをみてハッジェ伯母さんは首を傾げていた(最終的に、まだ酒が残ってるらしい、と思い込んだようだ)。
 もう、こうなったからには直接調べずにはおれない。
 アウロラは学校が終わりスクールバスに乗ると、いつもより一個手前のバス停で降りて徒歩で帰宅することにした。その途中で鼻孔をフル活用し、滑稽な観光客のように首をぐるぐる回して歩き、途中の本屋で地図を立ち読みした。地図には載っていなかったが諦めない。(『コリー・ラムジー』も載ってなかった)道路の両脇に立ち並ぶ数回建ての住宅地を見上げ、連なる赤茶色の屋根から煙突が伸びていないか確認し、家の周辺をぐるりと一周回った結果――パン屋はどこにも見当たらなかった。

 もう認めるしかない。気のせいだったか、もしくは少し変なおじさんが毎朝、美味しそうなパンを焼いて大声で一人芝居をしているんだ。ふざけるな……10歳のわたしですらそんなままごとはしないというのに……。

 消沈してカレー屋の中に入り、1人の常連のお客さんと「おかえり、アウロラちゃん。今客が来てるみたいだから帰ろうとしてたところだよ」「ただいま。またいらしてくださいね」と挨拶して二階に上がると、そこに紺色の民族衣装を着た人影が立っていた。
 民族衣装だと思ったのは、それが一瞬女性が着る宮殿衣装(トルコの民族衣装のひとつで、赤や紺、緑などの布に刺繍が施され、肩から足首のほうまでAラインにおりている)に見えたからだ。しかしよく見ると無地のマントだった。トルコではあまり一般的ではない服装だ。むしろ世界中のどこかでコレが一般的な国があるなら見てみたい。
 人影は、黒っぽい髪に丸眼鏡をかけ、薄い緑の瞳はくまができていて、顎に少しだけ生えた無精ひげが妙にやつれた印象を与えるが全体的にはきっちりとした生活をしていそうな四十歳くらいの男だった。男は振り向いて、「ああ、」と嘆息した。

「はじめまして、アウロラ。僕はハリー・ポッター、君に手紙を届けに来た」
 


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