0.1 河のほつれ
それでなくても、人を吸い寄せる基質を持っていた。”それでなくても”というより、”なぜなら”というべきかもわからない。アウロラは黒曜石のような滑らかな髪を持っていたし、瞳は刻一刻と姿を変える夕暮れの空のようなヘーゼルで、白い肌に桃色の唇が映える愛らしい少女だった。しかし、アウロラの眉はいつもキリッととんがっていて、何かを睨みつけるように不機嫌そうで、にこりともしなかった。アウロラを知る人はいつも、「笑ったらもっと可愛いのに」といって残念がった。
六歳のときだ。曇りだった。
その日、ハッジェ伯母さんに頼まれた買い物を終えたアウロラはいつもと違う道を通った。そこはアウロラが当時つるんでいた子どもたちと一緒にみつけた抜け道で、人通りのない裏通りだった。
シーサイド・ロウから石造りの家の隙間に入り、水色のペンキが剥げた管を跨いで進むと裏通りに出る。塀の両側にかわりばんこに猫が寝そべっているので、猫の背中を撫でながら歩くと狭い水路の上にトタンを並べた橋のようなものが現れる。そこを通って、水路の隣を民家に沿ってしばらく歩き、駐車場のフェンスを乗り越えると家の近くの通りに出る。
イスタンブールは猫が多い。特にユスキュダルのような海側の街では、側溝の上を猫が散歩していたり、襤褸い屋根の上に寝そべっているのはしょっちゅうだった。アウロラは今日も空いた右手で猫の背中を雑に触りながら歩いた。
左肩からひっかけた布の鞄の中にはビニール袋の口をギュッと縛った鯖が二匹入っていた。馴染みの魚屋さんでいつものオジサンに”新鮮な鯖をください”と言って貰った鯖だ。鯖は、早いうちに締めて内臓と頭を落としてあったが、六歳少女の身には重かった。肩に袋の取っ手が食い込むので、右、左、と交互に持ち手を取り換えっこしながら歩いた。
鯖が重くてなんだかむしょうにムカムカした。右足のふくらはぎに布袋がバチバチ当たるのもいけなかった。アウロラは苛々して、裏通りの途中で袋を下ろし少し休んだ。
そのとき、靴裏で砂利を踏みつぶす音が聞こえてアウロラは顔を上げた。駐車場の方から男が二人歩いてきた。二人で何か話している。アウロラはその日、”なんとなく”苛々していたので男たちから顔を背けようとしなかった。普段なら”なんとなく”目を合わせないようにしたと思う。男たちはアウロラを見て話をやめると、「いえぇい」「ハロー」と話しかけてきた。
男たちは近寄りがたい雰囲気をしていた。一人は耳まで赤い顔をして、ぎょろぎょろした目は上と下をむいて焦点が合っていなかった。煙草を吸っていたようだが、震える指は今にもそれを落っことしそうだ。もう一人は、なまっちろい顔の落ち窪んだ眼窩に充血した目がぼんやり開いており、眼の下にはクマがあった。イスタンブールには観光客が多いので警官も多く基本的に治安が良い。そんな街で、よくフラフラ出歩けるものだと思うような麻薬中毒者だった。
顔の白い男が「おい、おい」ともう一度話しかけてきたとき、アウロラはやっと「帰ろう」と思った。こいつらきっとアル中かヤク中だ。”中毒者”に絡まれて楽しい思い出ができるとは思えない。”中毒者”は話が通じない。でも、腰をあげるのが遅かった。おまけに布の鞄の中で鯖が暴れた。勢いつけて立ち上がったが、ぐらりと左側によろめいてコテンと左ひざとついた。
「おい、おい、おい、おい、おい。どこ行くの?」
「やめろ、構うな。なあ?やめたほうがいいよなぁ?嬢ちゃん」
無視して今度こそ立ち上がったが、目の前を大きな体が遮って通せんぼしている。「どいて」と言おうか悩みながら、アウロラは右へ左へ、身体の向きを変えて駐車場の方へ行こうとした。男はアウロラの動きに合わせて足をフラフラ動かして、しばらく無言の攻防が続いた。
赤い男がアウロラの腕を掴んだ。「いいにおい」と男が言った。
「離して」
アウロラははっきりと言った。赤い男がアウロラのわきの下から手を入れて、身体を持ち上げた。アウロラは眉をきりっと吊り上げて「やめて!」と言った。白い男がアウロラの肩から魚の入った袋を取り上げた。肩が軽くなったのはいいけど……まさか魚を盗む気?アウロラは、そうはさせないぞ、という気持ちで白い男が持っている布の鞄をじっと目で追いかけた。男はアウロラを持ち上げたまま車庫の中に入っていく。
赤い男は車庫の中、車の影にあぐらをかいて座り込み、膝の上にアウロラを載せて身体の匂いを嗅いだ。なんとなく、本格的にかなり嫌になってきて、アウロラは本気で逃げようと考えた。でも「助けて」なんて大声で叫ぶのは恥ずかしい。アウロラはもう一度、ささやかに意思を主張しようと考えて、「帰りたい」と呟いた。「どこに住んでるの?」と聞かれたので「カレーショップ」と答えた。
「ジュースあげる」
怖い。もう帰りたい。怖い。
白い男がオレンジ色の飲み物を差し出してきた。オレンジジュースに見える。ハッジェはジュースをくれないし、お小遣いは自分で稼がなければ一リラも持てないので滅多にジュースなんて飲めない。アウロラは心が揺らいだ。男は酒臭くて足元もおぼつかないようだったのに、胴に回った腕はガンとして緩まない。
プラスチックのコップに唇が触れたとき、鼻に酸っぱい匂いが漂ってきた。それと一緒に、奇妙な、キシリトールのようなすっとした匂いと埃っぽさも感じ取れた。それはハッジェがたまにやるクスリの匂いによく似ていた。
男の指が服の隙間に入り込んだ。「帰りたい」という主張はささやかすぎたようだ。嫌だ。怖い。怖い。
「もう帰るから、手、離して。大声で叫ぶから!」
少し強く男の手を押し返した途端、口元を覆われた。その瞬間どっと汗が噴き出て身体中が固まった。大きな分厚い手だ。スカートが捲れ上がり、胸の上をもう一人の男の手が這いずり回った。
心の奥の方から地響きがする。それは心臓の鼓動に似ている。嵐が来る。真夜中の海の遠い遠い水平線の彼方から、黒い波が押し寄せてくる。頭に血が上る。鳥肌が立つ。
嵐が来る。
嵐が来る。
気が付くとアウロラは車庫の真ん中に立っていた。
車庫の中は酷い有様だった。トタンの屋根は粉々で床に剥がれ落ちていたし、オレンジジュースがひっくり返って中身を放射状にまき散らし、壁にかかっていた工具が散らばり、車が”倒立”していた。”倒立”だ。車のおなかの部分が丸見えになっていて、フロンドガラスは粉々で、車のハンドルがぺしゃんこになっていた。ビィ――――――と耳をつんざくような音が響いていることに気づいて、アウロラは顔をしかめた。倒立したときの衝撃で車のクラクションが鳴りっぱなしなのだ。
布の袋が落ちている。アウロラは駆け寄って拾い上げたが、袋に赤い染みがついているので嫌な予感がした。予感は的中し、ビニール袋は破裂して中の鯖がはみ出ていたし、鯖の腹も道路に百回叩きつけたかのようにピンク色の身をまき散らしていた。二人の男は跡形もなく消えていた。
鯖をめちゃくちゃにしてしまった。ハッジェ伯母さんに怒られる。
アウロラはこの後のことを考えてまたため息をつき、バラバラになった鯖入りの布袋を持って歩き出した。なんで車庫がこんなことになっているのか覚えていなかったし、あの不愉快な男がどこにいってしまったのか分からないけれど、それよりもハッジェ伯母さんの機嫌を取ることのほうがよほど大事だ。ハッジェ伯母さんは酒を飲んではアウロラのことを叩くので嫌いだった。
アウロラは小さい頃からかんしゃく持ちなところがあった。うまく自分の気持ちを言葉にできないのだ。後にホグワーツ魔法魔術学校で学ぶまで、自分が男たちになにをしたのか、男たちはどうなったのか知ることはなかった。