A

Aの摂動

1.1 どこにもない店

 初春のイスタンブールは7時ごろに日の出を迎える。
 アウロラは毛布越しに薄ぼんやりと目を開き、ゆらめく白いカーテンと窓越しに差し込む眩しい青空から顔をそむけた。
 この光なら多分、6時30……45分、そう、6時50分ちょっと前だ。どこかのパン屋から店主のクルド語なまりの「毎度ァあり」が聞こえてきていないから、少なくとも7時半にはなっていないはずだ。アウロラは毛布を顔までかぶり直し寝返りを打った。
 マルボロの匂いがする。
 猫の鳴き声がする。

 アウロラ・シャーヒンはイングランド系トルコ人の少女だ。イスタンブールの真ん中を通るボスポラス海峡東側の港町、民家の並ぶ通りに居を構えるカレー屋『コリー・ラムジー』の上階に住み、ハッジェ伯母さんと二人で暮らしている。『コリー・ラムジー』は地元の人が立ち寄るカレーショップで、シーフードカレーが定番だがアウロラはあまり良く知らない。アウロラはハッジェの店が好きじゃなかったし、飲食店に興味がない。
 海の見える寝室には、二軒隣の屋台である開店前のドネルケバブの匂いが染み付いている。クミンシードとヨーグルト、ラム肉の脂。そこに一階のカレー屋から一年中立ち昇る強烈なスパイスが混ざり合っていた。乾いた潮風と埃っぽい油煙、ガラムマサラ、コリアンダー、クミン、そしてハッジェ伯母さんの朝の一服。

 ハッジェ伯母さん――ハティージェ・シャーヒン、通称ハッジェ――は毎朝アウロラが起きる前に一服するのが好きで、今日も台所の椅子に座ってマルボロをふかしていた。
 煙草を吸っているときのハッジェは機嫌がよくて、アウロラの持ってくるテストを気まぐれに褒めたり、「美人だねぇ」と言ってアウロラの髪を梳いたりした。しかし酒を飲むと(それはだいたい夜だった)一個下の階でドタンバタンと音を立て喚き散らすのだ。アウロラは決まっていつもベッドに片耳をつけてハッジェ伯母さんの様子に耳を澄ませながら眠った。なぜなら、伯母さんの機嫌が悪いとすぐに叩かれたり怒鳴られるのだ。例えば洗濯物の置き場所が悪いとかコップの洗い方が甘いとかいう理由で、寝ているところを叩き起こされたらたまったものじゃない。ハッジェが”始まって”しまったときに、そういう怒りの火種を思い出すとアウロラはこっそり気配を決して火種を消しに下りないといけなかった。ハッジェは憂鬱そうに頬杖をついて酒を飲むか、超スローペースのメトロノームみたいに定期的に溜息をつくかするのをやめられない女性だった。
 そんなハッジェが、ため息もつかずブツブツ不満げにひとりごとも言わずにただ静かに座っているのは、少なくともアウロラの記憶では、この朝のひととき以外に思いつかない。

 カーテンが揺れた。マルボロの煙たい匂いに、香ばしいバターと小麦の香りが混ざってアウロラの鼻孔をくすぐった

「おはようございます、旦那……」
「おはよう、やあ今日も実にうまそうな香りだねぇ」

 パン屋のおじさんの声が聞こえる。
 パンと言えばアウロラはむかし、知らないおじさんにパンを押し付けられたことがあった。男は、昆虫図鑑に載っている気持ち悪い毛虫のようながっしりした黒い眉毛を持ち、同じ黒い口髭が赤らんだ皮膚にボーボー生えた巨体だった。下校中のアウロラに「君、腹が減ってるんだろう?」と突然話しかけてきて、紙袋に挟んだシミット(胡麻をまぶしたパン)を差し出した。クルド語なまりのトルコ語だった。
 アウロラは咄嗟に「いらない」と断った。ずい、と近づいた巨体からはいつも酒気帯び営業しているかのようなブランデーの匂いがしたし、この辺にパン屋があったことも初耳だ。反り返って見上げた毛深い赤ら顔から視線を下におろすとバターで汚れたエプロンが見え、仕事終わりのハッジェ伯母さんのような嗅ぎ慣れた飲食店独特の匂いがした。
 アウロラはよく変な人に声をかけられる。”上玉”の”美人な小娘”だからなのか、子どもだからか理由はわからない。アウロラは自分に声をかけてくる人の9割が嫌いだった。残りの0.5割はどうでもよくて、0.5割は大嫌いだ。つまり、アウロラは自分に声をかけてくる人は大抵、ろくなものではないと思っていた。
 お得意の"NO!"を繰り出す前に彼は油の染みた紙袋を押し付けてまたたく間にどこかに消えてしまっていた。仕方なくシミットがはみ出た紙袋を持ち帰ったが、ハッジェに取り上げられてそれが口に入ることはなかった。

――結局、そのパン屋には一度も行ったことがない。

 ふと、小さな疑問が首をもたげた。アウロラは産まれてからずっと――ハッジェの話だと、イギリスの大きな病院で生まれた後すぐトルコに引っ越してきた――ハッジェが経営するカレー屋『コリー・ラムジー』の二階に住んでいるのに近くにパン屋を見かけたことがない。

――この、バターの焼ける香ばしい香りは間違いなくパン屋だ。店員さんはきっとあの時のおじさんだし……"おはようミスターグレイビーさん……"……ほら今も聞こえた。絶対近所にあるはずなんだから。

 しかし幾ら記憶を探ろうと家の近くに香ばしい小麦粉とバターの塊が店を構えていた光景が浮かび上がらない。アウロラは、きっと寝ぼけているのだと思った。“冗談はもうその辺にしてパン屋を記憶から探しなよ”と頭の中の冷静な自分に命令した。まさかボスポラス海峡を挟んだ向こう岸から漂うわけあるまいし、『コリー・ラムジー』から周囲三軒くらいのフラットのどこかにあるはずだ。
 アウロラはもう一度寝返りを打った。


 しばらく微睡むうちに本当に寝入ってしまい、ブチ切れ間近の「図々しい子だねえまったく」の声でハッと飛び起きた。
 階段を上り下りするときに鳴るバンバンバン!という靴の音、外の喧騒、空の青さ。まずい、7時半だ。アウロラはカーテンを開けて毛布をベランダにひっかけ、手すりにうずくまる黒猫の首の下をちょちょっと愛撫して急いで二階に降りた。
 ハッジェは毎朝、洗濯機が置いてある一階と二階を派手に音を立てながらしつこいほど往復する。その片手間にアウロラが小学校に持っていく弁当と朝ごはんを用意し、ついでに10時に開店するカレー屋の準備もやっているので悠長に何度も起こしたりはしない。一度、このまま起きなかったらどうなるだろうと考え呼びかけを無視して寝てたことがあったが、ハッジェは三回声をかけたきりでそれ以上起こすことはなくバスの出発時刻を過ぎても何も言われなかった。”ずる休みしてやったぞ!” という小さな高揚感は、テーブルの上に準備された冷めた朝食と弁当を見て、太陽がすっかり上がった青い空を見上げるとあっというまにシワシワ萎んだ。ハッジェはいつも忙しい。たいして稼ぎのなさそうなカレー屋の厨房に週6日立ち、客の他にほぼ毎日誰か知り合いが訪ねてきてカウンターで何か話したり、店番をほかの店員に任せてどこかに出かける。一階で慌ただしく開店準備をする鈍い足音を聞きながらのろのろと口に運ぶ冷めた朝食――この日はギョズレメもどき(ナンのような生地をチーズや野菜と一緒にフライパンで焼いたもの。トルコの田舎料理の一種)とお茶だった――は、美味くはあったが妙にがっかりしたような、寂しいような気持ちになった。それ以降アウロラは特別用事がなければ小学校をサボらない。
 アウロラは、背骨の形に凹んだマットレスを畳んで毛布の匂いを嗅ぎ、まだ臭くはないな、と思ったので洗濯機には入れず同じように畳んで隅においやった。アウロラの朝のルーティーンはベッドの片づけ、身支度、フルーツの準備、二人分の皿洗いだ。何か一つでも損なうと、ハッジェはそれまでどんなに機嫌が良くても途端に沸騰したヤカンみたいに怒り出してアウロラをぶつし、丸一日は機嫌が治らないので最悪だ。ハッジェはすぐに気分が良くなったり悪くなったりする人だが、特にアウロラはハッジェを怒らせる専門だった。

「顔洗った?今朝はオレンジね。熟れてるやつから使って頂戴」
「はい」
「あとあんた、皿の洗い方が甘いよ。手抜かないで綺麗にしなさいちゃんと……昨日の汚れだって全然落ちてなかったわ。あれでやったつもり?」
「……ごめんなさい」
「またさぼったら叩くからね」

 ハッジェの方がよっぽど汚い、と言い返そうとしたがぐっとのみ込んだ。朝から余計なことを言わない方がいい。特に今は、ハッジェのご機嫌ポイントを稼ぐべき最重要期間だ。
 ハッジェが約束してくれた、”誕生日プレゼント”の日まであと一週間――アウロラはここ最近なるべくいい子にしていようと勤めていた。ここでつまらない言い争いをして、いつ覆るともわからない言葉を決定的におしまいにしてはならない。
――『やるべきときに、やるべきことをする』
 図書館で読んだヘレン・ケラーだかキュリー夫人だかの伝記の言葉が頭をよぎった。”携帯電話を買ってやる”という奇跡のような半年前の約束が、ついに、あと一週間で果たされようとしている……!

「あ、この辺にパン屋あるよね?」

 突然思い出した疑問が脳を経由する前に口から飛び出た。「ええ?!」ハッジェはキリキリした声をあげながら泡立て器を流しに放り込み、フライパンに生地を流し込むと一階の洗濯機に耳を澄ませて慌ただしく降りていく。この家の洗濯機は一階にしかないが、その頼みの綱も最近調子が悪いのだ。
 一階でいつもの規則正しい振動音が鳴り始めると、またバンバンバンと音を立ててハッジェが登ってきた。その間にアウロラは小学校の荷物を揃えて身支度を整えた。クローゼットから引っ張り出した黒い靴下は糸がほどけていたが……今日着ていくパーカーの端っこの方も擦り切れて繊維がむき出しになっているし、まあこれも許容範囲だろう。どうせ靴を履けば見えなくなるんだ。

「パン屋なら郵便局の方にあるじゃない。いったことあるでしょうよ」
「そこじゃない、もっと近く」
「さあ、ないと思うけど?なに、パンが食べたいわけ?」
「そうじゃなくて!ほら、ほら、毎朝いい匂いするでしょ……パン屋のおじさんの”いらっしゃい”も聞こえるよ。”毎度ァあり〜”って」

 果物かごに手を突っ込んで、握ったり少し強く指で押したりしてなんとなく熟れたオレンジを掴みナイフで8つに剥き、黄色い花の模様に囲まれた皿の端っこに置く。ハッジェは「この匂いでしょ」といってラヴァシュ(平たいナンのようなもの)と店の残りであろう菜っ葉のカレー煮を皿によそっていく。違う、それではない。ハッジェが煙草を吸ってる時から匂いがするんだから。
 だがハッジェは、アウロラの主張に対し面倒くさそうに首をかしげるだけで、「それより、次の課外活動のプリント早めによこしなさいよ。行きたいなら!学校ってのはね、あんたが締め切りを一週間も過ぎたから行けなかっただけなのにあたしに連絡寄越すんだから……行きたいならよこしなさいよ」云々と始めたのでこの話は打ち切りにした。



 ハッジェ伯母さんは、ところどころ鬱陶しいくらい守らないといけないルールを持っている。

――いいね、なにか変だと思ったらとにかくNOっていうんだよ。NO! いいね!
――幼いアウロラは復唱する。
――ノー。

 ハッジェは店で客と話したり大人と話すときいつもトルコ語なのに、アウロラには英語で接する。そのせいでアウロラは家では英語を、外ではトルコ語を話す羽目になった。なぜ、家で英語を話すの?と尋ねたことがあったが、伯母さんは面倒くさそうに「あんたの母さんはイギリス人だから」と答えただけだった。
 わたしの母はイギリス人。もう死んでいて、この世にいない。

 ハッジェ伯母さんはアウロラの実の母親ではない。もう記憶も定かじゃないくらい小さい頃は、「ママは、お父さんとは離婚して引っ越してきたんだよ」「ほんとは母親なんかじゃないからその呼び方やめな!ハッジェって呼びなさい」「預かってやってんのよ、今だけね」と適当に誤魔化されたが、じきに両親は二人とも死んだと教えられた。

「あんたのお母さんはブリティッシュで、イギリスのロンドンあたりで働いてたらしいけど仕事中に事故で死んだのよ。悪いんだけど本当に詳しいことは知らないの、アウリュムの訃報を聞いたときはもう亡くなって一年くらい経ってて、その頃あんたはまだ……小さくて、親戚もいなくて事情を聞く相手もいなかったんだから」

 アウリュム。アウリュム・シャフィクが母の名前だ。
 この話を聞いたとき、アウロラは初めて母の写真を見た。ちょうど今のアウロラと同じくらいの歳の女の子が二人、弾けるような満面の笑みを浮かべて芝生でシャボン玉を吹いている……。お揃いのギンガムチェックのワンピース、片方の女の子はヘアバンドを着けている。
 どっちが母なのかは一目でわかった。ピリッと釣り上がった眉がくっきりと濃くて、ヒジャブに似た布を身に着けている子は間違いなくハッジェ。それなら、その隣の……ハッジェに抱きついて、柔らかそうな栗色の髪をふわふわさせた頬の赤い女の子がわたしの母……。なんとなくイングランド人ぽい
 正直あんまり似てないし、歳も同じくらいで実感もなかった。むしろ烏の濡れたような黒髪はハッジェに似ているとすら思ったが、これがこの家にある唯一の写真だったので今もローテーブルの隅っこに飾っている。

「小さい頃、10歳くらいまではたまに遊んでたよ。昔は家族でバーミンガムの郊外に住んでて……あたしの両親はトルコとアラブの人で、移民だね、バーミンガムの工場で働いてた。家は近かったけどそれ以外は別に……あっちは立派な家の子だったらしい」

 少なくとも母親は死んだし、父親は"どこで何してるか知らないがあんたを放っておいて平気なやつなんだから死んだようなもの。"
それがアウロラの知る肉親の全てである。OK,とりあえずわたしの顔が西欧風に整っている理由はわかった。緩くウェーブのかかった黒髪も、眼と眉の隙間が狭くてセクシーな彫りの深い造形も、”海底の宝石”のようなヘーゼルの瞳も、少しピンク色に色づいた白い肌も、すべてイギリスの親譲りというわけだ……。
 妙にケツの落ち着かない思いだったが、それ以上追及できなかった。いい家の生まれなのに誰もわたしを引き取らずに、事情も知らせなかったなんて――

――本当に親は死んだのだろうか?わたしを捨てただけなんじゃ……何か、育てるのに不都合な理由があって?

 アウロラは少しだけそう考えると、心の奥に冷たい水が広がっていくような気持ちになることに気がついて深く悩むのをやめた。母親について考えることは、もしかして起こっていたかもしれない未来について空想することに繋がる。そんな惨めな行為……まるで今の状況に不満があるかのような……いや、不満がないわけじゃないけどまるで、まるで、実の母親に縋りついているようなみっともない行為――そんなものはアウロラのプライドが許さなかった。
 しかし、かといって写真を捨てようとは思わなかった。ローテーブルに座るたびに目に入るセピア色の写真はいつも心の奥をザワザワと波立たせ、さびしいような面白いような、辱められているような、掴みどころのない形容しがたい感情をもたらした。


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