A

Aの摂動

0.3 河のほつれ

 さて、今日はもう帰ろう。
 ハリーは会議室の大きな石時計を見上げてため息をついた。まだ16時前――まだ空が明るい頃に帰宅できるのは、嬉しい半面疲労感もある。今週のジニーは原稿の追い込みにかかってるから、夕食を作ったり部屋を片付けたりリリーの相手をしたりするのはハリーの仕事……帰宅してもやらなくちゃいけないことが沢山ある。
 しかしそうはいかなかった。

「ミスター・ポッター、ちょっと」

 いつの間にかすぐそばにマクゴナガル先生が立っていて反射的に背筋が伸びた。昔より少ししわがれたものの依然棘のある高い声で、『ミスター・ポッター』と声をかけられると、ハリーは「はっ」と背筋が伸びてしまう。まあ先生の目を盗んで透明マントに隠れたり夜の学校を徘徊したりしまくっていたから、隠し事がなくても「はっ」としてしまうのだ。

「マクゴナガル先生、半年ぶりですね」ハリーは笑って握手した。
「ええポッター、この前の飛行機事故は災難だったわね……少し、よろしいですか?そちらのお二人も」

 マクゴナガルは挨拶もそこそこに神妙な顔つきでハリーと、ハリーの後ろ――丁度ハリーに声をかけようとしたハーマイオニーとロンに目を向けて、顎をくいっとひいた。何か嫌な予感がする――この三人まとめて呼ばれるなんて、クリスマス以外ではここ数年なかったことだ。ハーマイオニーといい校長先生といい、今日は晴れない顔をよく見る日だなと思った。
 下の階に移動しましょう、と言うマクゴナガルに従ってハリーたちはエレベーターに乗った。「下の階って、神秘部じゃないか」とロンが囁く。エレベーターの中にはシャックボルト魔法大臣も乗り込んでおり、下の階について扉が開くと、なんとネビルがいた。

「ネビル!」
「やあ、ハリー。久しぶり」

 ネビルとハグを交わして、「君も会議に居たっけ?」と聞くと「いや、僕はいないよ。別件で呼ばれたんだ」と言った。

「それで……”校長先生”、このメンバーで一体何の話ですか?」
「その話ですポッター」

 マクゴナガルは静かに話しながら神秘部の黒い重々しい扉を開けた。

「魔法省では、イギリス魔法界に戸籍をもつ人間を自動的に感知する広範囲感知魔法を制御しているのはご存知でしょうね?」
「ええ、まあ」ハリーは答えた。ロンは口を右側にぎゅっと結んだまま首を僅かに右に傾げているが、学生時代とは違って「知りませんでした」とは言わなかった。
「これは感知系呪文学に関係する複雑な話なので割愛しますが、かんたんに説明すると、その魔法は女性が妊娠して出産するまでの”一連の流れ”を河を流れる種子のようにとらえています。海に出る河口付近で網を敷いているイメージです、そこに種子が触れることで生命の誕生を把握しています」

 マクゴナガルは幾つかの部屋を通り過ぎて小さな小部屋に入った。そこの部屋の真ん中には地球儀のような半透明のブヨブヨした球体が浮かんでおり、球体の表面、ヨーロッパ大陸やらアジア大陸やらのそこらじゅうに緑の細かい光がひとつ、また一つとともり、消えていく。

「この魔法により魔法省は、世界のどこに新しい魔法使いが生まれたかを感知し、その情報をホグワーツとも共有しています。というよりこの魔法は元々ホグワーツ創設の四人の魔法使いが作ったものなので、ホグワーツ”が”魔法省”に”、提供しているわけですが」
「校長先生、では今光が消えたのは……」ネビルが口ごもった。
 マクゴナガルは片方の眉をわずかにキリッとさせ「いいえミスター・ロングボトム、これは出産の光です。産まれた瞬間にだけ光って消え、ホグワーツに名前が刻まれるのです」
「だから僕がどこにいても手紙が届いたんですね」
 ハリーは感慨深く呟いた。

「しかし、ごくまれにこの魔法で取りこぼす命があります。元々戸籍がなかったり、産まれた瞬間に運悪く呼吸が止まっており、その後息を吹き返した赤ん坊だったり、未熟児として産まれ魂の定着が曖昧だったものたちです。ただ彼らに魔法の力が備わっていれば、いずれ必ず魔法省の感知に引っかかります。魔法の力は内側に閉じ込めておけるものではありませんから」
「マクゴナガル校長――えーっと、つまり今回の話は――その広範囲感知魔法から長い間、”億が一”漏れてしまった子どもがいる、という話ですか?」

 ハーマイオニーが手を上げた。

「その通りです、ミセス・ウィーズリー」

 マクゴナガルは杖を取り出し、円を描くように動かすとヨーロッパ大陸が前面にくるように大きな地球儀を動かした。

「もう一つ捕捉すると、そのときにホグワーツの入学者名簿に刻まれる情報は、子どもの名前、そして子どもの両親の名前です。両親が両方とも過去ホグワーツに在籍していた場合は、そのときの情報も併記されるので同姓同名で間違えることはあり得ません」

 ハリーはちらりとロンを見た。あまりに遠回しな説明だ……ここまで来ればもう先生が何を言いたいのかはわかる。一体”だれ”が入学するっていうんだ?

「昨晩、来年のホグワーツの入学者名簿に新たな名前が刻まれていることを見つけました。彼女の名前はアウロラ・シャーヒン。トム・リドルとアウリュム・シャフィクの娘です」

 トム・リドル……。
 トム・リドル???
 ハリーは驚き瞠目した。ヴォルデモートには娘がいるのか……そして今度ホグワーツに入学する……いやそうじゃない。問題はそこじゃない。

「馬鹿な。ヴォルデモートは死んだはずだ、もう十八年も前に」
キングズリーが低い声で言った。
「でも死んだ人は子どもを作れないわ」
「あいつは間違いなく僕らの前で死んだろ!分霊箱だって全部壊した!」

 ハーマイオニーとロンが叫ぶ。ハリーは思わず額に指をあてた。

「ハリー」ハーマイオニーが真剣なまなざしでハリーを見る。「額がこの十八年間で痛んだことはないって、前に言っていたわよね?」
「ないよ」

 ハリーは答えた。嘘じゃない、本当に一度も額が痛んだことはないし、ヴォルデモートの気配を感じたことも一度だってない。

「でも、僕との対決で分霊箱として僕に入っていたヤツの魂は完全に消えた。だから、仮に今ヤツが存在していても僕にはなんのつながりもない……と、仮定することはできる」
「ハリー、頼むよ」ネビルが苦笑いして机に寄りかかる。「その仮定、聞きたくなかったな……」
「ロングボトム教授、机によりかかるのはやめるべきだと助言します。余計な事故を起こしますよ、ここは神秘部ですから」

 マクゴナガルは咳払いした。

「彼は間違いなく死にました。まだ生きているということは万に一つもありません。そして、ヴォルデモートに子どもがいるという噂はここ十七年何度も耳にしました。しかし、そのすべてが根拠のない噂、わざわざ否定する必要もないほど無意味で非常識な悪戯であることは、あなた方も知っているでしょう……」

 マクゴナガルの言わんとしていることはハリーにも理解できた。
 魔法省に勤務する以上その手の噂も耳にしている。また、そこに含まれる噂の一つが、『ドラコ・マルフォイの息子はヴォルデモートの子どもではないか』というものだ。曰く、父親の失脚と闇の勢力の衰退を憂いたドラコが、タイムターナーを使って妻を過去に送りそこで子供をつくらせたのではないか――と。勿論、そんなものを本当に信じている人はいないし、相手にするべきではないとハリーは思っている。
 ハリーは今日の会議で見かけた青白い顔を思い出した。
 あのドラコが、ダンブルドアを殺す任務にあれだけ怯えて泣いていたアイツが、せっかく得た伴侶を過去に送り込んでまでわざわざ恐怖の元凶を復活させる?ドラコを信じているわけではないが、ハリーにはとても想像できない。

「逆転時計の件ですね。私も聞いています……本当にふざけているわ」
 ハーマイオニーが言った。ロンとネビルも仔細はどうあれ知っているようだ。
「魔法省が管理している逆転時計は全て破壊した。それだけでなく、今や逆転時計は所持しているだけで罪に問われる、民間に散らばっているものも可能な限り回収している現状だ」
 キングズリーが捕捉した。
 その通り……逆転時計は、元々正規品は希少であったがホグワーツの戦いのあと回収し破壊することが決まっている。闇市には偽物も出回っているが、粗悪品であり、とうてい正確なタイムスリップはできない代物である。
「こうして娘が存在している事実がある以上確実なことは言えませんが、私は今回の場合も逆転時計は関係していないと考えています――なぜなら今回の場合は――父親だけでなく、その母親もヴォルデモートが死ぬ少し前に亡くなっているからです」

 ハリーは依然不可解な表情を浮かべてマクゴナガルを見た。

「どういうことですか?」
「アウロラの母親である、アウリュム・シャフィクはレイブンクロー寮の優秀な闇祓いでした。闇の勢力との戦いにも参加し、ホグワーツの戦いの少し前に死喰い人に捕らえられ、その後戦いが終わってから一か月後の夏に遺体で発見されました」

 マクゴナガルは悲し気に瞼を伏せ、かすかにほほ笑んだ。

「彼女のことはよく覚えていますよ。あのシャフィク家らしく、それでいてシャフィク家らしくない女性で、魔法生物学が大得意の……」昔話が始まるのを危惧したのか、キングズリーがそっと「わたしも覚えている」と言って遮った。
「シャフィク家といえば魔法族の名家だ。純血主義らしきところもあったが、闇の魔法使いが力を増した時代ではいずれも反体制、我々騎士団側についている。アウリュムは素晴らしい魔女で特に飛行能力に優れており、多忙な闇祓いに所属しながら魔法生物保護委員会に顔を出しては保護された魔法動物と檻の前で遊んでいたよ。動物が好きな子でね……彼女がヴォルデモートと共謀して何かことを起こしたとは考えにくい」
「では……結局どうして?どうやって――彼女は?」
 ハリーは重ねた。

「経緯は不明です。もしかしたら、口にするのも憚られることですが、彼女の意思を無視した何者かが事を起こした可能性はゼロではありません。また、この水球が出産を感知しなかった……つまり出産までの河のどこかに”ほつれ”があったとも考えられます。彼女の母親はなんらかの方法で正常に娘を産むことができず……どういう方法なのかわたしにも見当がつきませんが――なんらかの魔法で――七年間誕生が遅れたのかもしれません。」
 マクゴナガルは不安げだったが、次の言葉はきっぱりと言い切った。
「ただ、間違いなく彼女の両親は二人とも死んでいます。それだけは確実です」
「魔法じゃないかもしれないわ」

 ハーマイオニーがはっとした様子で言った。皆が彼女の方を見た。

「確かに。血と肉と骨から作り出されたのかも」

 ハリーは少しだけおどけて言ったが誰も笑わなかったので、咳払いして誤魔化した。

「マグル界には『精子バンク』というものがあるって聞いたことがある。詳しくはわからないけど……卵を……そう、受精卵を凍結させるとか……なにかそういうことをしたんじゃないかしら。そして代理母出産で生まれたとか」
「托卵ってこと?」
「マグルのやることってたまにすっ飛んでるよ」

 呆れと感心の入り混じったような声をあげて、ロンとネビルが唸る。

「ヴォルデモートがわざわざマグルの方法を使って子孫を残そうとするとは思えない。トムは絶対、そんな手段を取らない」

 ハリーは静かに断言した。これは、トムの幼少期から成人までをダンブルドアの記憶を通して視たハリーだからこそわかる感触だ。

「そう…わかったわ……つまりそうね、今は、"どうやって"産まれたのかは置いておきましょ」
「そうですとも、ミス・グレンジャー」マクゴナガルは言い切ったあと、「失礼、ウィーズリー」と訂正した。

「本題は、彼女が来年ホグワーツに入学するということです」

 マクゴナガルのワイン色のマントが揺れ、奥にすぼまった鷲のような瞳がきらりと光って皆を、そしてハリーを見た。
 ハリーは複雑な心境だった。あのヴォルデモートの血をひく子どもがいる……間違いなくスリザリンだろうな。いや、待つんだ、そういうのはよくない。まるで純血主義じゃないか……彼女が誰の子どもだろうと、彼女がこの世界で他の子どもと同じようにたった一人のちっぽけな子どもにしか過ぎない以上、僕ら大人がやるべきことは決まっている。

――『大事なのはどう生まれついたかではない、どう育ったかなのじゃ』

「私たちは何をすればいいでしょうか」

 ハリーは尋ねた。マクゴナガル先生に質問したかったわけではなくて、ただハリーの口から零れてしまった呟きだった。

「何も。ポッター、我々はただ大人として、庇護すべき子どもに対してするようにすれば良いのです」

 マクゴナガルは困ったように微笑んだ。そこでやっと、ついさきほどまで先生の顔に張り付いていた緊張がほどけたような気がして、ハリーは「もしやマクゴナガル先生も同じことを危ぶみ、考え、そこに至ったのかもしれない」と思った。

「少なくとも私は、ホグワーツの校長としてそう接します。ただ――例えばダンブルドア校長がかつてあなたにしたように、あなたも彼女になにかしてあげることができるかもしれません」
「魔法界にはまだ僅かに純血主義の残党やヴォルデモートの信者がいる。特に力はなく、放っておいても害はないくらい力も頭も足りていない輩だが、奴らに見つかるのは避けねばならんな」
「そうですね、キングズリー。魔法省ではあなたが知っていれば十分と判断しました。そちらの対処は問題ないと思っていますよ」
「ひえ〜〜なんか凄いことになったな」
「ロン、凄くなんてないの。今、凄くなんてない、って話をしていたのよ」

 口々に話し出す皆をよそにハリーはまだ見ぬ少女について考えを巡らせていた。
 両親がおらず、心を打ち明けられる人が誰もいない幼少期を過ごした。自分に妙な力があるような気がしても、それを否定され続けて育った。幸福そうな他人の子どもを見ると寂しい気持ちになり、それを隠して生きてきた自分にとってホグワーツがどれだけ素晴らしい……暖かい、夢の場所だったか。
 ハリーにとってホグワーツは己のルーツであり、暖かな家であり、すべてをもたらした素晴らしい場所だった。息子たちにも飽きるほど言っているせいで最近は「もうわかったって」なんて言われつつあるが、それくらいハリーにとってかけがえのない場所だ。彼女にとってもホグワーツはそのように在るだろうか。
 それに加えてその子は父親がヴォルデモートだ。魔法界ではその名を知らぬものはいないほどの大犯罪者で、ヴォルデモートに大事な人を殺され憎しみを募らせている人は未だに大勢いる。憎しみ……ハリーはさらに心の中を覗いた。憎しみが、やっと悲しみになってきた。あの悲劇が、大勢を傷つけ怯えさせた闇の時代が、十八年の時を経てようやく過去として流されようとしている、今はそういう時期だった。
 そんな時代に、娘として生きることがどれだけ……大変なことか、ハリーには想像できない。

「ところで先生、何故私まで呼んだんですか?後で学校の教授たちには話すんですよね?」

 机からかなり遠いところに移動したネビルが聞いた。なんだか、見間違いかもしれないがネビルの袖口から煙が出ている気がする。頼むよネビル、教授だろ……。

「ええ、話しますよ。ただあなたには色々頑張ってもらいたいので」マクゴナガルがウキウキした口調で言った。
「頑張る?」ネビルがオウム返しした。
 そのときハーマイオニーが小指を素早くふってネビルの袖口になにかして、またたく間に煙が立ち消え炭になりかけていた袖が元通りになった。

「まだどんな子かもわからないまま話していてもしょうがありませんが、色々彼女の学校生活をカバーしておやりなさい。どうもマグルと生活しているようですし、迷惑な身内による過去の過ちが、幾つかの”些細な”困難を呼び寄せる可能性がありますから」
「些細な困難ね……禁じられた森で巨大なアラゴグに追いかけられたりするレベルじゃないといいけど」ロンが肩をすくめる。
「いえ、わたしは男性ですしそういうのは女性の方が……いや………えっ、ちょっと待てよ。それってなんだか僕………まるで」
「スネイプ先生よ!そうだわ、ハリーにとってのスネイプ先生!」
「ねえ君らちょっと――やめてよ!」

 たまらずハリーは制止した。ハリーにとってのスネイプ先生だ!なんて本人のいる前で言わないで欲しい。ハリーにとってのスネイプ先生と、いがみ合い、守られて過ごしたあの七年間はなかなかセンシティブで柔らかい話題なのだ。

「彼女が今どのように過ごしているのか、既にお分かりなのですか」

 キングズリーが冷静な顔持ちで聞いた。彼はこの話のはじめから最後までだいたい神妙で真面目な顔をしていて、ハリーたちよりこの件を楽観的には捕えていないようだった。

「はい、マグルの女性と共にカレーショップの上で過ごしているようです」
「念のため、周囲に監視をつけたほうがいいでしょうか」
「まあキングズリー、いけませんよそういうことは。ダンブルドア校長もハリーにそういったことは一切しなかったのですからね。わたしが何度提言しても!」
「こういう言い方は角が立つが、ダンブルドアのやることなすこと全て真似しなくとも………」
「真似ではありません」

 マクゴナガルはキングスリーと興奮気味に口論しつつ――心なしか嬉しそうにしている――水球に杖を振った。
 水球の一部が大きく盛り上がり拡大した。それはヨーロッパ大陸の中東、シルクロードの端・トルコ共和国。

「来年になればふくろう便が彼女の元に届くでしょうが、今回の場合はどなたかが届けに行ってもいいかもしれませんよ。彼女は今、イスタンブールにいます」


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