9歳 負傷B
ゴキブリに肌を這われる感覚は、誰もがしたことのあるおぞましい想像の一つだと思う。
黒く細かい、ぶつぶつとした蠢く土に押し上げられて、気が付いたときにはもうわたしの身体は深緑色のリノリウムの床に乗り上げていた。ガンマが皮膚の上で必死に抗って、黒いザワザワとした群れを何とかしてわたしの皮膚から引きはがそうとするような動きをしているのがわかる。だが、黒い蠢く群れはガンマによる必死の抵抗とは関係なしに身体から離れようとしている――床にアリジゴクのように凹みができてわたしの身体がその真ん中から押し出されると、黒い蟲たちはその床の高さ寸前まで登った途端まるで何かに攻撃されたかのようにパッと向きを変えて土の中に戻っていく。
肺の中がツキツキと痛み出して、やっと息を深く吸い込んだときには固い床に膝をついていた。冷たくてまっ平らな床には、さっきまでの蠢く土も凹みもまるで見当たらない。
暗闇に浮かぶ白い動物面がみっつ。
思い出したように突然、恐怖に襲われた。奇妙な引きつった声が、わたしの口から引き絞るようにして漏れた。全身の産毛という産毛が一本残らず逆立っている。同時にわたしの頭はおどろおどろしい白い面のやつらに対して激しい警報を鳴らしている。
逃げなきゃ。
――ガンマ、土に戻って!
「――こいつは、」グレーの暗部装束を着た男が言った。
「いや、違う」黒い外套着た白い動物面の男が素早く続けた。
――サエ、走れ!!
反射的に再びリノリウムの床に潜ろうとしたとき、それと違える行動を示す切羽詰まった声が脳内に声が響いた。コゼツが走れと言っている。そのとき、ガタン、と大きな音がして部屋の電気が落ちた。
真っ暗で何も見えなない。頭で意味を理解するまえに、足が動いた。
わたしのいた場所は扉まで三歩、暗部装束の男がテーブルをはさんで向かい側に立ち扉まで三歩、根の暗部はわたしの右手――扉と反対側に二人構えていたはずだ。右足、左足で身体を前へ押し出したとき、暗部装束の男が腕を背中の刀に伸ばしたのを目の端でとらえた。
暗闇の中に、銀色の筋のようなものが見えた。なにかこちらに来る――避けなければ!だが右足を踏み出して左足で床を蹴った状態で、身体の軌道を変えることができない。銀色の筋は瞬きしたら消えていて、その後顔の右側に衝撃が走った。
熱い。右目が痛い。
――たぶん、ボクらを感知できたのは特殊な蟲なんだ!土の中でもボクらを見分けられるけど、蟲の姿のまま土の外に出ることができない……
――それ確証あるの?
――わかんないけどもう一度戻ったってしょうがないでしょ!だから一旦外に出て、走れサエ!
コゼツとガンマの声が頭蓋を揺さぶった。
このときもしわたしが冷静だったら、暗部からまっとうな手段で走って逃げることなど不可能である、という“正しい”判断によりコゼツの言葉に素直に従うことはできなかっただろう。だが、畳みかけるように起こった不意打ちのアクシデントで完全に混乱して尋常な行動をとれずにいたその瞬間、咄嗟に脳に響いた言葉に反射的に身体が従った。これが幸運にもプラスに働いた。
実際、コゼツとガンマは知らないことだがこの蟲は、嗅覚が特異的に発達している代わりに光に弱く、太陽光はおろか僅かな蛍光灯の光に晒されただけで身動きが取れなくなってしまう性質を持っていた。最初に群れの一匹が触れた生き物が発する匂いを、半永久的に追跡する能力をもつ蟲――これが、油女ハクロの子、油女セキロ(根であたえられた名は、“ゼン”)が操る双子蟲の特徴だ。双子蟲は全員雄の群れだが、術者が定めた対象に反応して触れた一匹だけが雌へと変化する。雌は変化したと同時に対象に卵を産み付けて一寸後には死に至る。雄は産み付けられた卵を守ろうとして命尽きるまで追いかけ、卵ごと産み付けられた対象の動物を栄養として食い尽くし、卵の周りにダマになって守りながら大事に孵化させる。
双子蟲は卵が産み付けられた“ガンマ”一体に限り感知することができるため、その中に包まれていたサエの存在まで感知・追跡することはできなかった。
――走るって!どこまで?!
後ろから迫る暗部の刃が恐ろしくて、背中がムズムズした。柱間細胞が保管されていた部屋から廊下に出て、右足でぐっと踏ん張って進行方向を変える。蟲のせいで一旦身体からはがれたガンマが顔から半分剥がれてしまっているのか、右側の顔の表面で何かがパタパタ動いている。右目のあたりが斬りつけられて濡れているようだが不思議と痛みはない。
――ボイラー室!そこでガンマを脱ぎ捨てろ、ボクが代わりに入る!
なるほど、ガンマを囮にして蟲どもの眼をくらまそうってことか。
「動くな!」
刺さるような暗部の声が後ろの方で聞こえたが無視して、ボイラー室から出た時電気がついていた廊下まで走り、そこを右に曲がった。電気がついていなくて良く見えない。わたしの走る足音と激しい呼吸音がこだましている。さっきの暗部はどうしたの?
階段の方から人の気配が降りてきて、「何の騒ぎだ?」「根の――……」と話し声がちらほら聞こえた。数人がボソボソと低い声で話している――剣呑な空気だ。
静かな、でも押し殺した足音が急激に近づいてきた。さっきの暗部だ、追いつかれる! そのとき、ボイラー室まであと数メートルというところで廊下の角から小さな人影が飛び出てきた。
――このまま走って!
まさか暗部の待ち伏せかと身体が強張ったが、あんなに身長の小さな暗部はいない。外套を着て黒い口布で顔の半分を覆っていて殆ど顔は見えないが、コゼツだ。
反射的に左側へ――コゼツとの忍組手でいつも一手目にしかけてくる方、つまりわたしの効き手側を空ける為に左側に足を踏み出した。ヒュッと空気を切り裂く音を立てて、弧を描くように手裏剣が通り過ぎ、背後でそれを弾き返す金属音が聞こえる。
全速力でコゼツの傍を通り過ぎボイラー室に続く曲がり角を曲がって、扉が開けっ放しのボイラー室に入り、続いてコゼツが走り込んだ。頭からフードを取った。
コゼツが「ガンマ!」と叫びながらぶつかるようにして背中に抱き着き、胸の前に腕を回して首に顔をくっつけた。コゼツが入ってくるのと同時に、顔からガンマの肉体がぐるぐると剥がれ落ち身体の胸のあたりからべりっと剥がれる。タッタッタッ、と暗部の足音が近づき、扉の前でかかとを踏みしめる音がした。フードを被りなおしたと同時に、わたしの右足が床に沈み込む。
――お前はそのまま潜って蟲をひきつけろ!!
床に立った状態から完全に頭のてっぺんまで沈むのに二秒。二秒あったら、暗部なら五回殺せるといわれる長時間だ。
ガンマが暗部と、暗部に背を向けた形で床に腰まで沈んだわたしの間にかばう様にして立ちふさがったのがわかった。ガンマもそのまま土の中に沈んでいるはずだ。
肩まで沈んだとき、右肩になにか突き刺さった。衝撃と痛みで叫んだが、その直後口も眼もすべてが土の中に――体が沈み込むのと一緒にせり上がってくる地面に備えて目をつむって、冷たく静かな土の中に頭のてっぺんまで潜り込んだ。
目をつむる直前に、黄土色の薄暗い光に照らされたリノリウムの床に二枚の手裏剣が突き刺さっているのが見えた。
▼
B棟の裏口で爆発が起こった、という連絡が無線に入り、マツは「オレが行きます」と他の暗部をその場に待機させ、裏口に向かった。
この監視の任務にあてがわれていた班はスリーマンセルのごく平均的な監視・追跡用組成で、例外を除き暗部での作戦行動における最小ユニットだ。そこにマツが加わった。当然班長は他にいる。
『マツか、頼んだ』
「了解」
マツは、班長のツチノトが何も言ってこないのを少し意外に思いながら、A棟屋上の室外機の上からB棟に飛び移った。
暗部は、暗黙の了解として縦社会だ。
火影直轄の暗殺戦術部隊、通称“暗部”への入隊方法は、原則火影からの直接指名のみである。アカデミー生から万年中忍、そして引退した上忍など里に生活する全ての忍と顔を合わせている火影に、名もなき忍の中からその名が届く程度に突出した功績を積み重ねるとある日突然声がかかる。或いは担当の上忍師に暗部に入りたい意欲を見せたり特異な才能を磨き続けると上忍師が火影に推薦したりする。殆どの暗部はこういった形で火影の耳に入り、簡単な面接を経て入隊する。暗部への入隊は命令ではないため、最終的な意思決定では本人の希望が第一に優先される。
しかし、暗部は替えの効く武器と等しい。常に仮面をかぶり個を認識せず、任務ごと自由自在に組み替えの効く便利な人員である必要がある。一度も顔を合わせたことがない人間といきなり任務を言い渡されたとしても、支障なくこなすだけの技術的な腕前と頭脳、そして人間関係の構築力が求められる。そのとき、ある一定のルールが予め定まっていた方が初対面の人間と円滑に任務を遂行できる、と思う人間は少なくない。
スリーマンセルでは年長者が班長を務めるが、大抵、小さな任務で1ユニット(スリーマンセル)、規模が大きくなると複数ユニット宛がわれる。小隊と呼ばれる人数になった時に初めて、火影から部隊長の指名がある。暗部には上忍、中忍のような階級がないため、部隊長以外全員平等にヒラの暗部である。部隊長の指名がない場合の指揮系統が明確でないと、ときにコンマ一秒の間に生死を分けるような現場では混乱の元になる。
表の忍でも年齢にかかわらず上忍・中忍・下忍の階級で完全な実力社会が形成されている。暗部では恐らく全員上忍であるため暗部歴の長い人間が立場上“上”である。こういった縦社会には一部面倒な独自ルールが存在し、例えば敬意をこめて“先輩”と呼ぶのが礼儀であった。
マツは今年で暗部歴五年。実年齢では暗部の平均より若いし、新人時代は過ぎたがまだ中堅程度の隊員だ。火影からの勅命とはいえ任務に飛び入り参加していきなり、班長命令も聞かずに動いたとなると、大抵いい顔をされないことを経験で学んでいた。
今回の班長――ツチノトは自分より暗部歴の長い先輩だ。今までの任務で一緒になったことがなかったので良く知らないが、寄合所で着替えていたときに見た目元のたるみや、鍛錬では誤魔化せない顔の皮膚の薄いところ……目元や口元の皺の寄り方からして恐らく三十代前半。暗部でその年齢は相当な“先輩”にあたる。
『優秀な奴から先に死ぬ』
忍社会でたまに聞く、年嵩のある奴をなじる言葉だ。マツは第三次忍界大戦始まった頃生まれたので、即戦力として後方戦線に投入され急き立てられるようにして経験を積んだ。忍は実力社会だから、有能であれば年齢などお構いなしに最前線に送り込まれ常人の二倍、三倍の働きを要求される一方で、いつまでも実力が一定に達しないものはずっと後方支援で燻り続け生存率も高くなる。アカデミー卒業年齢を大幅に引き下げられた時代に忍になり、偶然運よく生き残り13歳で上忍に上がった身からするとああ確かに、実力もないのにおめおめと生き残っていい気なものだと思うこともある。
しかしツチノトは暗部入りしている程なので実力もそこそこ申し分なく、確かこの前の雲隠れとの一件では国境警備班のバックアップとして三部隊の一つ・甲部隊の隊長を務めているので本人も己の役割にそれなりの自負があるはずだ。マツは、ツチノトは自分の言動が生意気に思わないのだろうかと思った。それとも独自ルールをあまり意に介さないタイプ? よく分からないが、暗部入りして今日まで余計なルールに煩わされた経験も一度や二度ではなかったので少し好感度があがった。
爆破報告を受けたB棟非常階段の裏口に到着すると土煙がうっすら舞っているのが見えた。樹木と地面の表面がいびつに抉れている。周囲に気を配りながらそっと地面にしゃがみこみ、破れた起爆札の欠片をつまみあげる。ごく一般的な起爆札による爆破痕だ。
「爆破痕からして起爆札のようです。建物に損傷はありません」
無線で報告しながら腰を上げて、つむっていた左眼を開けて警戒しながらじっと感知に神経を集中した。マツは感知タイプの血統ではないが、写輪眼を委ねられたときから忍としての全ての能力が底上げされたことを感じており、感知能力も僅かに上昇していた。
B棟裏口はすぐ林に隣接しており、その黒々とした幹と幹の隙間からは人々の営みがチカチカと瞬いている。宵闇に紛れる若葉の群れが春の夜風に吹かれてさわさわとこすれ囁き合っている。
周囲に人の気配はない。それどころか、不思議と静かすぎる。
『応援を呼ぶか?』
マツが黙ったまま気配を研ぎ澄ませていることを感じ取ったのか、ツチノトが聞いた。「いえ、」マツは口布の下で静かに呟いて、なおも爆破痕の周りを慎重に調べて歩きながら地面に、木々の上に目を凝らした。
「なにか……ん、」
ふと抉れた地面に目を凝らすと、黒い土が動いたように見えた。黒い土……土の中で蠢くもの。それは一瞬のことだったが、写輪眼はその黒い蠢くものがチャクラを纏っていることに目ざとく気がついた。
友から託された写輪眼は、マツの元々多くはないチャクラを猛烈な勢いで削っていく。この優秀な眼が正常に稼働するためにはこれだけ多くの燃料が必要なのだと解釈しているが、慣れるまでの間今までの戦い方を大幅に変更することを余儀なくされた。マツは元々慎重派で、相手を十分に分析し保険を幾重かに分散してかけたあと成功の確証があると判断したときのみ行動に移る、というチクチク型だったが、写輪眼の洞察力で状況判断にかかる時間が減り長時間チャクラを垂れ流すデメリットが増えた今は短期決戦型である。
第三次忍界大戦、休戦協定を結ぶ前の根回し・安全確保の為の数々の暗躍、そして去年起きた雲隠れの謀略。幾度にも渡る命のやり取りで写輪眼はマツの命を救った。何度も、何度も。
そして同時にチャクラ切れを回避することが火急の至上命令となった。生来写輪眼を持つうちは一族と違い、マツの身体では写輪眼の“顕在/潜在”の有無を使い分けることができない。赤く透き通る瞳に勾玉が三つ――顕現写輪眼のまま引き渡された眼は、一生ずっと顕現状態のままマツのチャクラを吸い続ける。
命の綱引き含む試行錯誤によってなんとか、“顕現状態の写輪眼であっても眼をつむっているときはチャクラの消費が少ない。つまり写輪眼の駆動が準励起状態にまで落ちる。”ことがわかってから、マツは通常額当てを下げて左眼を覆い隠す、または片目をつむって生活していた。そして、本当に写輪眼を使いたいときには瞼を上げてピントを合わせ、首の後ろの方にチャクラを集中することで瞳の能力を励起させることができるようになった。
ちょうど首の後ろ、神経の束が通っているあたりにチャクラを流す。眼軸にチャクラが流れ込む感覚、そうまるでつめたい湧き水が喉を滑り落ちるような――遠くの山の木の葉の動き、その一枚一枚がすべて鮮明に見えるような、明瞭感が身体を駆け抜ける。視界が一瞬で塗り替わり、コガネムシの前足、シジュウカラの鼓動、けだるげに研究所の床を踏みしめるスリッパの音までが聞こえるような敏感で美しい世界が広がる。
マツは突然駆け出して外の非常階段をのぼり、B棟裏口の取っ手をひねった。
「監視対象を確認してきます」
『なに?』
「今回の任務、同じ班に油女一族の奴はいませんよね?」
油女一族の蟲が土の下、建物の方向に移動していくのが垣間見えた。既に全て地中に隠れてしまったものの、特殊なチャクラをうっすらとまとった生き物はそうどこにでもいるものではない。
裏口を開けて中に入ると、簡単な受付と人工筋肉の研究室があるという一階は明るく照らされており、通路には人気がない。
『いや、いない』
ミズノトの声色が変わったのがわかった。この爆破がどういった意図なのかは不明だが、火影不在の夜、突然の追加人員、油女一族の蟲。テンゾウ――キノエの例からして大蛇丸の実験とその結果を根が欲しているのは間違いない。
正直、欲しいなら欲しいでくれてやればいい。どうせ大蛇丸の援助をしていたのはダンゾウに違いないし、黒い噂が絶えない男なのは確かだが一応は木ノ葉の忍なら里に不利益のあることはしないはずなんだから。
しかし三代目から直接妨害の命令が出ていれば話は別だ。マツは火影直轄暗部の忍――火影の命令は絶対だ。
『こちらも向かう』
「はい。――っ!」
柱間細胞の安置場所だという地下二階・202室に向かおうとすると階段から誰かが駆けあがってきた。白い外套に白い兎面――卯(う)の面か。今回の暗部メンバーはマツの辛巳(かのとのみ)・ミズノトの癸巳(みずのとのみ)・ツチノエの戊子(つちのえね)だけのはず。
念のため、なにかの誤解があったときを考え兎面が攻撃してくる様子がなければマツも対話の準備があった。しかし、マツの姿を認めたや否やなにやら仕掛けてこようとした素振りがあったので、迷わず背刀を抜いて懐に飛び込み心臓の真上に雷遁で掌底を叩き込んだ。
同じ木ノ葉の忍を殺すわけにもいかないし、かといって手加減した挙句わけのわからない術を(根の忍にはたまに死んだ方がマシってくらいとんでもない術を使う輩がいる)くらうわけにもいかないし、これはかなりうまくやったほうだ。兎面は、感電の衝撃で嘔吐の直後のようにびく、びく、と背中を震わせ床に倒れたが、唸り声をあげる様子を眺めることもなく地下に急いだ。
地下は煌々と明かりがついて、202室の引き戸が開いている。
「対象の部屋に誰かいます。応援要請」
『了解、我々も向かう。侵入者は誰だ?』
「ま、根でしょうね……十中八九」
雲との一件が終わったばかりの今、木ノ葉の里には準警戒態勢が敷かれたままだ。特に里の結界班は戦時中と同じ警備体制をひき、山中一族にもしばらくは第二級戦闘態勢で働いてもらっている。そんな状態で感知網を潜り抜け外から侵入することなどまず不可能だ。
『やっぱりそうか。マツ、お前はやつらの妨害か?』
「いえ、オレはただこの監視に加われと言われただけです。ですが……なにか臭いとは思っていました。とりあえず引き留めます」
話し声がする。居るのは二人だ。
「なんかやってると思えば……!」
「……!」
部屋の中に入ると、作業台のようなテーブルを挟んで向こう側で黒い外套を着た影が二人振り向いた。二人が立つ壁には監視任務の概要で聞いた通り金庫が埋め込まれていたが頑丈な扉は術式が解かれて、中から冷気が漏れている。
鼠面は作業台に巻物を広げ、寅面は金庫から出した細胞保管用の装置を開けていた。運搬用の巻物に盗んだ試料を封入しようってことだ。
「おまえら何者だ?返答次第では殺す」
二人とも身じろぎもせずに仮面の奥の瞳だけがぬるりと動いてこちらを見た。一人に関しては視線すら感じない……眼がないわけでもあるまいに。
「これはこれは。暗部の方がなんの御用ですか?」
寅面が、奇妙にトーンの高い演技がかった声色で尋ねた。
「オレの言葉が聞こえなかったのか?暗部以外ここには出入り禁止だ」
「わかるでしょう、我々も暗部ですよ。額当てをお見せしましょうか」
寅面が肩をすくめて掌をひらひらと見せた。左手は、試験官のようなものの四隅を木か何かで補強した、細い容器を握っている。恐らくあれが、初代火影様の遺産・柱間細胞という奴なのだろう。
「へーえ、ここの監視要員におまえたちみたいなのは知らないな。木ノ葉の忍だという証明がしたいなら、まずは尋問室に同行願おうか」
「それには及ばない」
さきほどから一言もしゃべらず、マツの方を見もしない鼠面が――顔をこちらに向けてはいるが“視線を全く感じない”不気味な奴だ――テーブルの上に広げた巻物に人差し指と中指を押し当てた。マツは背刀に手をかけたまま、ゆっくりと作業台の左側を回り込んだ。
「!?」
今までマツの存在を無視していた鼠面が、はじかれたように巻物から顔を上げ、マツの右手側の壁を見た。
つられてそっちに目を向けると、床の一点に黒い粒がぷつっ、と浮き上がった。蟲だ――だがマツが外で見た蟲とは違った。それを皮切りに黒い粒々は円状にこんもりと広がり、円錐状に凹み、その中から小さなフードが現れた。深緑色のフードを被ったなにかは暗部が嵌めている動物面はしておらず、顔があるはずの部分にはうずまき状の白い模様が描かれている。目出し穴が二つあるがそこからも黒い粒々が噴出している。
「うわぁっ、やだ、ひっ」
子どもの声だ。気配を全く感じなかった。
床から現れたフードは、蟲を払い落とすようなそぶりをしてもがいたが足元まで全てあらわになるとマツの方を見て硬直した。そこでやっとマツも、コレが“我々暗部”ではないことに思い至った。
「こいつは、」
「違うな」
根の連中が両手を下におろした。“本当の侵入者”に対して構えた刹那、ガタン!と大きな音がして廊下の照明が落ちた。
停電に合わせて謎のうずまき面が脱兎のごとく走り出したが、明暗の差が激しくとも写輪眼の前では無意味な陽動だ。背刀を抜き去り三歩で近づき、うずまき面が引き戸の敷居溝に足をかけたときその顔面に太刀を浴びせた。
うぅ…!とまた悲鳴が上がった。あのうずまき面がどこまで顔なのか不明だが、右眼のあたりを切り裂いた手ごたえがあった。ぐらっ、と身体がよろめき左肩が引き戸にぶつかったがそのまま廊下に走り出た。同時に、視野の広い写輪眼は部屋の反対側で根の連中が作業を再開したことを把握した。
「待て!!」
くそ、侵入者の方を追いたいがこいつらも放置できない。だいたいなんで侵入者がいたってのに柱間細胞の“窃盗”を優先するんだ。ここは全員で奴を捕まえるのが先だろ!
「おまえらは動くな、奴を捕まえた後この件も三代目に報告する!」
「お好きにどうぞ。それより侵入者が逃げるぞ、追いかけなくていいのか?」
「他人事か……!」
一旦足を止めて釘を刺し、もう一度うずまき面を追いかけると階段からミズノトとツチノトが駆けてきた。
「奴らを頼みます!」
すれ違いざまに部屋を指さし侵入者を追った。
うずまき面は真ん中の通路を北に向けて走っているが、深緑色の外套は背丈・140cm程度で足幅が小さいのか速くない。すぐに追いつく、と思ったところで廊下の突き当りの角からもう一つ小さなフードが現れ手裏剣を三枚投げてきた。
顔は見えない、背丈は同じくらい。うずまき面の方が息を合わせて左に避けたのを見るに連携はできているが手裏剣術自体が拙く、難なく弾き返せた。
確か廊下の向こうにはボイラー室があったはず……でも裏口にはつながっていない、行き止まりだぞ。どうする気だ?
時間稼ぎのつもりなのか律儀にしまっているボイラー室のドアを開けると、二つの人影が床に半分埋まっていた。
手前に身体半分埋まっているのは、服を着ていない白い人間のような形をしたなにかだ。うずまき面が解けて、身体の前側にはぎざぎざ亀裂が入っていて、マツの方に開きかけた口のようになっている。後ろ側に埋まっているのは今マツが追いかけていた深緑色のフードだが、背中を向けているので顔が確認できない。
手前側の白いでろでろした奴を避けて曲がるように回転をかけ、手裏剣を投げると、一枚だけがぐっと弧を描いてフードの肩に食い込んだ。が、間に合わない、ならば手間の奴だけでも。
同時に背刀を右に薙いで手前側の白い奴が土に潜る前にぎりぎり首を狙った。刀の先端が床のリノリウムを削ったが、「あ」と声をあげて首が飛び、ガス管にあたって跳ね返った。
「くそ……!」
フードの奴を逃がした。マツの一方的な見立てだが、この侵入の大元はこの白い奴じゃなくあのフードの方だ。
角から出てきたフードはどこに行ったんだ?うずまき面のフードと普通のフードがいて、フードが1人逃げてうずまき面の抜け殻みたいな白い奴を仕留めたが人間には見えない。この白いでろでろした奴があのどちらでもないなら、もう一人はまだ近くにいることになるがマツの感知能力で把握できる限りではもう気配がない。一応ボイラー室を隅々まで調べながら――電力管理の大元が切られているのを発見して元に戻した――なんとも後味の悪い徒労を感じてため息をついた。
ひとまずはこの奇妙な死体を保管しておかないといけない。そう思って地面にあらかためり込んだ白い奴の方を振り向くと、そこには黒くダマになるように蟲がたかっていた。思わず後ずさり、蟲はあっという間にその白い奴を食い尽くしてしまった。
なるほど、根の奴らもこいつにマーキングしていたらしい。
マツは急いで切り飛ばして転がった生首を拾って(うかうかしてると生首すら蟲に食われてしまいそうだった。こんな貴重な手がかりを根に取られるわけにいかない)、蟲がボール大に膨れ上がっている気色悪いボイラー室を出た。