2歳 これまでのあらすじ

 寒さの厳しい2月下旬だった。その日は卒論発表会の打ち上げの飲み会があり、帰宅は零時を過ぎていた。終電が間に合わなくても問題ないくらい学校の近くに住んでいたけど、アパートの近くは真っ暗だったのでわたしは携帯のライトをぺかぺか光らせて歩いていた。
 教授や先輩たちともたくさん話をして、一次会がお開きの後も丁度同じ日に飲み会を開いていた隣の研究室の気の合う友人らと合流して二次会に行った。おいしくないお酒を飲んで、歌を歌って……携帯端末にそれを録音された気がするし、鏡月をラッパのみしたような気もする。

 鉄製を疑うほど重たい扉に身体をねじ込んで、転がり込むように自宅に足を踏み入れると、ポストにパンパンに入った何らかの重要な紙類があふれ出していた。「重要!○○電力株式会社」って書いてあるつるつるの紙を仕方なく踏みつけて、今度は散らかった洗濯物を適当にテーブルのあたりによけて、着ているものを全部脱ぎ捨てながら風呂に向かった。

 泥のように疲れていた。今日は最高に気持ちよく眠れそう、ううん、もうきもちいいっていう感覚すらない。

 ここ数カ月、寝るためだけに帰ってきた家は無視できないほど汚かったが、そのときのわたしには目に入らなかった。誤差のない鋼球のような、純粋な、完全無欠の睡魔だけを感じてかろうじて睡眠の体裁(化粧を落としたりだとか)を整えると布団に潜り込んだ。

――覚えているのは、最近ずっと干していなかったベッドの冷たさに震え上がり、万年床とはこのこととばかり、温かい足同士をさすり合わせたこと。
 枕元で電源につなげた携帯電話が、最後の挨拶で交わされるメッセージやスタンプで、時折ブーブーと振動していたこと。
 酒臭さとシャンプーと保湿クリームの匂い。
 二月とはいえ、耳を澄ますとキンとするほど静まり返った冬の夜のことだった。

「そういえば、君は進路についてはどう考えてますか?」
 教授からかけられた声が頭の中でぽんぽん響いている。
リノリウムの廊下。既読のつかないメッセージ。進路というのは博士後期課程のことだ。博士後期課程に進むのは一昔前だと一大決心が必要な判断だったらしいけど、今はそうでもないらしい。もちろんわたしもまんざらじゃなかった。ただ、今はちょっとそれどころじゃないので。そんな感じのことを丁寧に言って一旦断った。

 
リノリウムの廊下。既読のつかないメッセージ。静まり返った部屋。

 長いマラソンのような四年間だった。
 止まっても、スピードを落としても、ゴールまでの道のりは増えるだけなら走り抜けるしかないと、そう思ってひたすら前を向き続けた日々だった。苦しいスタート地点から、辛い思い出から、少しでもましになるんじゃないかと逃げ続けた日々。
 わたしは受け止めきれない現実から逃げていた。

 病室に横たわる人影が、頭蓋骨にこびりついて離れない。




「……ふう」

 母――サエの母が、大きな鍋でゆでたホウレン草を流しにつっかけた竹ざるにあけた。水をどうどうと流し始めると、水道管にむかってゴロゴロ水が流れる音がする。湯気はぶわりと天井近くで広がって、臙脂色のレンガで縁取られた煙突兼換気扇に向けて一直線に吸い込まれていく。
 わたしはそれを眺めながら、もう一度低い声で「ふう」とため息をついた。実際口から出たのは「あぁ」だった。目の前の小さなお椀の中には、柔らかく煮たリンゴがある。



 卒論発表の夜眠りについたのを最後に、わたしは“東雲サエ”として二度目の生を受けた。
 生を受けた、という表現が正しいのかはわからない。わたしは前の世界で死んでないしこんな経験するとは思っていなかった。しかも、2歳´(ダッシュ)の誕生日を迎えて庭を走れるようになるまで前世の記憶を思い出さなかった。
 “こんな経験”と指し示す経験が、“日本の地方から上京しなにかに不安を抱いたまま院進を決めた女子大生だった誰か、の記憶を持っている”ことか、それとも“目が覚めた瞬間から妙に体の調子がおかしく、据わらない首をなんとか回してかき集めた情報を基にすると、見知った忍者漫画の世界に待望の次女として産まれていた”ことか定かではない。記憶を取り戻してすぐの頃、わたしはどっちが本当の自分の世界かわからなかった。
 なお、今は“元の世界”を便宜上“前世”と呼んでいるけれどこの呼び方も本意ではない。なんせわたしは死んでない。しかも前世では、茨の博士後期課程に進むか修士で就職するかという大きな問題に答えを出していないままだ。しかし他に短くて適当な呼び方がないし、元の世界に通じる扉は今現在うんともすんとも応答する気配がないため以降この名称で統一する。

 こういう感じで、わたしは『自分に影響を与えた5つの漫画』の一つであるNARUTOにキャストとして参加する運びとなった。うーん、大学院に進学してなんか技術職か開発職に就きたかったんだけど、間違えて集〇社に就職しちゃったのかな?それならそれで面白そう。今連載を休止している好きな漫画の進捗状況などを編集者特権諸々で知れたりするのかな。こんなに面白みと社交性のない女が編集者なんてむりだけど、一日体験編集者とかちょっとやってみたいな〜。
 今の名前は東雲サエ。木の葉隠れ在住一般人出生、2歳の女の子だ。

 このようなアヴァンギャルドな体験をしたわたしだが、東雲サエ本人の出自はいたって平凡だった。豆腐屋の次女である母・ユキと大工の父・スグリという一般人夫婦の次女である。
 東雲家は木の葉隠れの北西部にある。丁度商店街の真ん中あたりの十字路から郵便局方面の小道に入り、コスモスと柳の木に挟まれた水路とその脇の石畳を少し森の方に上がった小高い場所だ。家の骨組みは焦げ茶色の樫の木で、壁はあずき色のレンガ積み。可愛らしい色合いは、ナルトらしい和の趣ある家というよりはヨーロッパ北部の少し寒い地域にありそうな外観だ。
 うちは一族や日向一族の家屋と比べてわたしの家、しいては周囲の家並みが凝っているのは、大工であるスグリの仕事である。地中海に面したリゾート地のような白い壁に朱色の屋根だったり、カスピ海のような鮮やかなブルーの壁紙に定規のような平たくて黒い屋根が載っている家はだいたいスグリが関わっていた。スグリは大工の中でも特別遊び心のある人であったので、細やかな意匠には大層凝っていた。ついこの前も、向かい側の田中さん宅のベランダをアールヌーヴォー風に改築したばかりだ。太い針金がグネグネと薔薇の蔦のように絡みついた模様の手すりを、あくせくと楽しそうにつけているスグリの姿が二階の窓から見えていた。
 また、我が家の内装のあちこちには隠れミッキーのような愛らしい意匠(木ノ葉マーク)が施されていた。多分わたしが二歳児だからだろう。スグリは、足ものとおぼつかない娘が隠れ木の葉マークを探しては、レンガの壁を木の枝でトントン叩いている様子をいつも嬉しそうに眺めた。本当は、2歳児生活にしびれを切らしてダイアゴン横丁の入り口に見立てて遊んでいるだけだ。それにその遊びにはもう一つ理由があった。なんせレンガ積みの家というものは無視することのできない脆弱性がある。そう、耐震強度だ。地震ソムリエと呼ばれて久しい元日本人なので、家が揺れるたびに耐震構造に思い巡らせてしまうのだ。
 デザイナーズ木の葉マンションを考えるのが好きなスグリに対し、母・ユキは堅実で古い考えの人間だった。実家が老舗豆腐店で、なんでも木の葉の里創設前からあるというだけあって母親が厳しかったようで、今も仕事先で叱られてはしょんぼりと落ち込んで帰ってくる。わたしはそんなユキをよく慰める。
 保守的な家に育ったユキと孤児院で幼い頃から働いて育ったスグリは、しばしば“常識”の価値観の相違を論点にした喧嘩を繰り広げている。でも、二人とも感情的になっても冷静に話せる穏やかさを持っているので、いつもほどなくしてそれは収束する。



「サエちゃん、もうお腹いっぱいかな?」

 仕込み用のホウレン草を冷水で冷やしながら、ユキが後ろを向いた。うーん、と唸ろうとして「あー」と声が出た。スプーンでリンゴを挟んで食べた。
 リンゴは、柔らかく煮られていて不思議な味がついている。一般的な2歳児の口には合うのかもしれないけど現状だと病院食をクタクタに煮込んだような味わいだ。つまり美味しくない。現状把握は十分行い、これが現実だと思い知った今のナイーブな心境にはパンチが効きすぎて水で口を漱ぎたい気分だった。

 記憶を取り戻した直後から朝無意識に枕元を漁って携帯を探したり、目覚めの一杯とばかりにコーヒーを求めて彷徨ったりする生活を一か月ほど続けて、わたしはじわじわと途方に暮れていった。
 うんざりだ。
 人生で同じ過程を二度も繰り返すことの、退屈さ!我慢ならない、耐えられない。
 大学院で研究室ライフを満喫しようと思ってた。奨学金を使い込んでかわいいワンピースを買い、好きな人と海辺を歩きたかった。研究費で国際学会に行き、カジノでバイト代を二倍とか0.5倍とかにしたかった。
 こっちに来てしまう前にたしか教授にD進の提案もされていたんだっけ?何かに迷っててすぐに答えを出さなかったけど、今なら即答だ。こんな肩透かしな人生送るくらいならいばらの道でも普通の国道でも構いやしないよ。だいたい、わたしは何に迷って「それどころじゃない」なんて答えたんだろう?

 ホウレン草の胡麻和えとホウレン草のペーストづくりを終えたユキは買い物袋からカボチャを出した。「ああ、やっぱり大きいわねえ」……丸々一個のカボチャだ。
 実家にいたころ、我が家のカボチャはもっぱら冷凍食品だった。百戦錬磨の主婦がその選択をした意味をよく考えればよかったのに、1人暮らしに浮かれたわたしは初めての自炊でカボチャを一玉買った。気合を入れてまな板に置き、勢いよく切断しようとして愕然としたことを覚えている。
 カボチャ、クソ硬い!

「ユズ、いるー?ユズリハ〜」

 丸々としたカボチャに中途半端に突き刺さった包丁。それを前に、立ち尽くすしかなかった1年生の頃が懐かしい。それ以来、カボチャは冷凍食品かせめてスライスのものを買うようにしたんだっけ。どっちにしろ一人暮らしじゃ食べきれないしね。
 ユキに呼ばれ、先程帰宅した姉、ユズリハが二階の自室から降りてきた。まな板に置かれたカボチャを見て、「もー、お父さんじゃなきゃ無理だって……」と言いつつ包丁を握った。

 ユズリハは、サエと十つ歳の離れた姉だ。
 わたしはスグリ譲りのホオズキ色みがかった髪を持つが、ユズリハはユキ譲りの黒髪が綺麗な、鼻筋の通ったすっとした美人である。故あって前世で女子アイドルグループに詳しかったので、原石を見つけるのが得意だと自負している(※誰にも保証されていない技能ではある)のだが――今12歳のユズリハがこれからどんどん美しくなるのは間違いない。
 ユズリハ。彼女が愛おしい。



 三つ年下の妹がいた。
 学問の為に怪しい友達と距離を置いたわたしと違い、彼女はそれらの誘いを断らずやりたいことをやり放題だった。元々ちゃらんぽらんなところがあった上に、中学ごろからタバコや酒をこそこそやるようになり、学校をサボることも増えていく妹を母は火が付いたように叱り、叩き、ありとあらゆる手で家に縛り付けた。しかし、自分が家にいないのに子供を縛ろうなんて無茶な話だ――妹はじき、警察のお世話になるようになった。
 美容師になりたいと言って専門学校に進学したものの中退。キャバクラやガールズバーのバイトでフリーターなのか就活中なのかよくわからない生活を送りつつ、ホストに金を三桁万円貢いだり、男友達のバイクでニケツして事故ったり、とにかく一時もこちらを安心させない子だった。心配はあったが、彼女は頭で考えて動くタイプじゃないので、動き回って何かを見つけるまで放っておいてもいいんじゃないかと思ってもいた。
 彼女の振る舞いで色々な人が迷惑をこうむるのを見ているのが好きだった。わたしは長女として我慢に慣れていたけど、誰か何かをぶっ壊してくれないかという衝動的な願望も抱いていた。彼女はそれをほどよく叶えた。
 今にして思えば、わたしの家族はそんなに悪くない。わたしの両親は共働きで、子どものしつけに厳しく喧嘩が絶えなかったが、ちゃんと子どもと向き合ってくれた。本当にしんどい家庭もあるのだろうが、わたしの家は違う方のやつだった。


 わたしがこうして真っすぐな視線で家族と向き合えるようになれたのは、子どもの頃を支えてくれた妹のお陰だ。わたしがいい姉だったかはわからないけどわたしは妹が好きだった。こっちにきて、その代わりに新たにできたのが姉――わたしにとって人生初めての姉だ。

 不思議な感覚だった。
 妹にならやらなかったかもしれないようなことを、姉に対してだと躊躇なくできた。例えば悪戯とか……窓枠に上って外を見ようとして、落ちそうになったところを拾ってもらったりとか、ゆで過ぎのブロッコリーを食べないと駄々をこねたりとか、道端に埋もれたさび付いたクナイや手裏剣をかき集めたりだとか。
 本当は私のほうが年上だから、さらに奇妙な感覚だ。まるで、昔の自分を見ているような……わたしと妹は三つ違いだからそんなに変わらないが、重なるところが多かった。妹に対して、良かれと思ってしていたこと、これが正しいと思ってやってきたことが、本当にそうだったかと考え直すことが増えたし、ユズリハと過ごすのは非常に興味深い時間になった。単純に、口からこぼれたおかゆをぬぐってもらったり、手についた餡子を掃除してもらったりするのがこそばゆかったのもある。
 ユズリハは降って湧いた新しい楽しみだ。そして大好きなお姉ちゃんだ。
 そういうわけなので、しばらくは、指先を掠めて向こうに行ってしまった“なにか”への喪失感で、諦観と自暴自棄で元気のない日々を送っていたが、彼女がニコニコしながらわたしを抱っこしたり、わたしに絵を教えたりするのに付き合っているうちに、前向きな気持ちになれていった。
 そもそも、元の世界に還れないと決まったわけじゃない。
 もしかしたらあちらの自分はものすごく深い眠りについているのかもしれないし――これが物凄く繊細な夢かもしれない。なんのタイムスリップだかレイシフトだか知らないが、来ることができたなら戻ることもできるに違いないのだ。



 ガタン!と時折大きな音を立てて、カボチャは二つに割れた。二人で「手が切れそう」とか「なんで12歳のわたしに頼むかなあ……」とか言っている。
 もしかしたら? わたしは思った。
 もしかしたら、ユキがカボチャを一玉切断しようとしたのは、ユズリハの前でこれがやりたかったからかもしれない。ユズリハがいつかお嫁に行ったとき、旦那さんがいないときも一人で家事ができるよう、今から教えていくつもりなんだ。
 母は、こういうのを教えてくれなかった。でも、忙しいなりに冷凍食品を使ったアレンジレシピがあることを知っているし、もし運悪く死刑になる機会があったら、最後の晩餐には冷食カニクリームコロッケの周りを豚肉と大葉で巻いて焼いたやつが食べたい。それくらい好きだ。

「今度からは、切ってあるやつをかいなよね!」
「そうだねぇ」
「うちには忍とかいないんだからさあ〜…あ!サエちゃんまだリンゴ食べてないんですかー?」

 ぼんやり眺めていたら、姉がわたしの視線に気づいてぐぐっと視線を合わせてきた。慌てて目の前の更に目を落とすが、そこにはぐちゃぐちゃになり冷え切ったリンゴの残骸が広がっている。自然と口がへの形になった。

「もう、おなかいっぱいなんですけどぉ」
「ダメだよ、食べ物を無駄にしない!わたしがあっためてあげるからね」
「ウーン」

 わざとらしく嫌そうな顔をした。ユズリハの前で駄々をこねるのが楽しい。
 
 ここは木の葉隠れ北西部、小高い丘の郵便局前。夕暮れの光が台所のサッシから差し込んでキッチンを橙色に照らしている、平和な午後だ。
 悲観的になることはない、きっとなんとかなるさ。
 わたしはポジティブになろうとした。そしてその頃はまだ、自分がどのようにして元の世界に戻るのか、ということしか考えていなかった。この世界――『NARUTO』は、アニメも見て、既刊全巻揃えていた大好きな漫画の一つであったにも関わらず、木の葉隠れの里の壊滅頻度をすっかり忘れていた。
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