5.甘い蜜に酔いしれれば

「千鶴ちゃんは今年の夏休みは何してたの?」



千は千鶴にハワイ土産のチョコレートとボディミストを渡しながら言った。
夏休みも中盤に差し掛かった頃、千鶴は千といつものカフェでランチを食べながら、久々に女同士の会話を楽しんでいた。


「今年は特に何もしなかったなぁ。毎日課題やってたよ。」
「千鶴ちゃんまじめねー。夏を楽しまないでどうするのよ。」



片眉を下げて苦笑いをしながら千がくれたボディミストの封を開け、シュッと手首に吹きかけた。甘くて爽やかな花の香りが広がる。
「ん、いい匂い。」
「でしょ?それ今ハワイですごい人気なんだって。わたしも買っちゃった。」
こんがりと日焼けした千がにっこり笑う。




「ところで千鶴ちゃん。最近なんかあった?」
千の言葉に千鶴は固まってしまった。こういう時の千は、恐ろしい程勘がいいのだ。



「えっ、えぇ?どうして?何もないよ!」
「本当にぃ?なんか千鶴ちゃん雰囲気変わったよね。いい人でも出来たんじゃないの?」



できないよーとはぐらかしつつ千鶴は内心ドキドキだった。
千に言いたくない訳ではない。むしろ話を聞いてほしい。
千鶴に好きな人ができたこと。その人には恋人がいるということ。
けれど言えなかった。
千鶴には自分のしていることが、胸を張って人に話せるようなことではないという自覚があった。
それに、曲がったことが嫌いな千に軽蔑されることが怖かった。



「千ちゃんは?彼とは順調?」
「全っ然!あいつ、本当にムカつくのよ。こないだもね、」



千には付き合って長い年上の恋人がいる。
千鶴も何度か会ったことがあるが、彼はなかなか傲慢で高圧的な性格だが、千をとても大切にしていることがわかる。
千もまた、なんだかんだと文句を言いながらそんな彼のことが好きなのだ。



「そっかー。千鶴ちゃんにも早くいい人ができるといいんだけどなー。」
千の言葉が千鶴の胸にチクリと刺さった。
いつか沖田のことを千に話せる日が来るのだろうか。
大切な人だと紹介できる日が…。
なんだか千鶴にはそんな日々が夢の話のように感じられ、そうだねと相づちを打つしかできなかった。



しばらくお喋りを楽しんでいると、やばっと千が慌てて時計を見た。
「もうこんな時間だ。あいつそろそろ迎えにくるのよね。」
そう言って外を見ると、既にカフェの前に一目で彼のものとわかる目立つ車が停まっていた。

「千鶴ちゃんごめんね。そろそろ…」

申し訳なさそうに千が立ち上がったので千鶴も財布を出し席を立った。




「じゃあ千鶴ちゃん、またね。近々またゆっくり会いましょ。」
千鶴に手を振りながら千は彼の車のドアを開ける。
運転席の彼と目が合ったので軽く会釈すると、彼は目だけで返事をしすぐにそっぽを向いてしまい、千にもうっと文句を言われ小突かれていた。



そんな二人のやり取りが微笑ましくてクスクス笑ってしまう。
彼は千鶴に向かって軽くクラクションを鳴らし車を出した。見えなくなるまで見送っていると、千は楽しそうに彼に向かって何かを話し、彼は先程とは別人のような優しい顔をしていた。
千鶴はそんな二人の様子を沖田と自分に当てはめて想像してみたが、すぐに頭を振ってその想像を追いやった。

沖田の側にいようと覚悟した日に、そんな夢は望まないと決めたのだ。









「千鶴ちゃん、なんか今日いい匂いするね。」



ソファに座っていた千鶴を後ろから抱きしめ、首筋に顔を当てて沖田は言った。

「あ、わかりますか?今日友達に貰ったボディミストつけてみたんです。」

ふーんと言って千鶴がテーブルに置いてあったボディミストを手に取り沖田に見せると、沖田は容器を受け取り、キャップを外し自分にひと吹き吹き掛けた。



「どう?僕もいい匂い?」
吹き掛けた手首を首筋に擦り千鶴に嗅がせようと近づけてきた。

「沖田さんはいつもいい匂いですよ。」
「それもしかして嫌味かな?僕が最近加齢臭を気にしてるって知ってて言ってるんでしょ。」

沖田はわざと拗ねたような口調で自分の匂いを嗅ぐふりをして言った。
千鶴は違いますよと笑いながら沖田の胸に寄り、沖田はそれを受け止めた。



「わたし、沖田さんの匂いを嗅ぐととても安心するんです。」
千鶴は沖田の匂いが好きだった。
香水とはまた違う、お日さまのような、包み込んでくれるような暖かい、甘い匂い。
沖田の胸に顔を当て大きく息を吸い込むととても幸せな気持ちになった。
この瞬間だけは、沖田は紛れもなく自分のものだった。



沖田は千鶴の顔を自分に向けさせると優しくキスをした。
唇から首筋に。首筋から胸元に沖田の唇が移動する。
じゃれ合い、体を探り合う時間はすべてを忘れることができた。
千鶴は叶わないとしりながら、このまま世界で二人きりになれたらいいのにと願った。





その瞬間、沖田の携帯が鳴り幸福な時間が裂かれた

沖田は携帯のディスプレイを確認すると、ちょっとごめんと言って携帯を持ち部屋を出た。
恋人からの連絡の時、沖田はいつも部屋を出る。
頭では仕方のないことだと解っていても、この瞬間が堪らなく辛かった。
優先されるのはいつも恋人だと思い知らされる。
千鶴は起き上がり、観たくもないテレビのスイッチを無意識につけた。
映像は目に映るだけで、頭には入ってこなかった。





「千鶴ちゃんごめん。今日は帰るね。」

しばらくして戻ってくると申し訳なさそうに沖田は言った。
気を遣わせたくない千鶴は、大丈夫ですと笑ってみせた。



「また来るよ。連絡する。」
そう言いながら千鶴に軽いキスをし、足早に部屋を出ていく沖田を見送る。
「また来る」と沖田はいつも言うが、絶対に来てくれる保証などどこにもない。



ソファに座って部屋を見渡すと、途端に寂しくなった。
沖田のいない部屋はあまりに広く、ポッカリと大きな穴が空いてしまう。
千鶴は、世界に一人きりになってしまったのではないかと錯覚した。



部屋には沖田がいい匂いだと言って吹き掛けたボディミストの匂いまだ残っていた。
その匂いだけが、沖田が先程までこの部屋にいたことを証明してくれる。
千鶴は甘い花の匂いに包まれながら膝を抱え込み、幸せだった時間にひとり取り残された寂しさを紛らわした。






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