10.雲の裏にかくれた閑古鳥

「ようやく仕事がひと山越えるんだけど、来週あたりどこか旅行でも行かない?」



沖田からの突然の提案に思わず温めていた鍋を焦がしかけた。
「え、ええっ、りょ旅行なんていいんですか!?」
「うん、旅行と言っても君も学校があるだろうから1泊か2泊ぐらいだろうけど。どう?行けそう?」



千鶴は驚きと喜びで声が出なかったので、一生懸命首を縦に振って見せた。
顔を真っ赤にして、両手を胸の前で握り祈るようなポーズで頷く千鶴の姿が愛らしくて、沖田はキッチンに立っていた千鶴を後ろから抱きしめてしまった。



「どこに行こうか?温泉?観光?」
「え、えっとえっと………あ、う、海!」
「海?」
「はいっ。海の見えるところがいいです。」



千鶴にとって海は特別だった。
沖田と出会った日に二人で初めて出かけた場所。初めてキスをした場所。あの景色が忘れられなかった。
あれ以来、会うのは大抵千鶴の部屋か近場で、デートらしいデートはしていなかった。



千鶴は初めて沖田と長い時間過ごせることにわくわくしたが、同時に罪悪感に襲われた。
いくら沖田が自分を選ぶと約束してくれたとは言え、彼にはまだ恋人がいる。
恋人は、自分が沖田と過ごしている間どんな気持ちで過ごすのだろう。



いや、沖田と恋人の問題は二人に任せよう。
自分は自分自身の問題と向き合わなくてはいけない。
千鶴は最後に見た、斎藤の藍色の瞳が目に浮かんだ。






次の日の夜、千鶴はいつものカフェで仕事終わりの斎藤を待っていた。
待ってる間、様々な思いが巡った。
斎藤は千鶴にとって本当に大切な人だ。
しかしこれ以上斎藤に甘える訳にはいかない。
自分は沖田との未来を選んだ。
斎藤とはもうこれまでの様に兄妹のような関係ではいられないだろう。



誰も傷つかず、何も失わず……そんな訳にはいかないのだ。




しばらくすると、斎藤が店に入ってきた。
千鶴を見付けると片手を挙げ、少しだけ微笑んでくれた。
いつもと変わらぬ様子にいくらか救われた。
席に付いた斎藤がコーヒーを頼むと注文を取りに来た店員が去っていき、二人の間に沈黙が流れた。



ちゃんと言わなきゃ………!
千鶴は手をぎゅっと握り、心を決めて深呼吸をすると、斎藤が口を開いた。



「……すまなかったな。」
「えっ??」
「総司との事で傷ついていた千鶴を余計に混乱させてしまう様な事を言ってしまった。随分悩んだろう。」
「そっそんな…謝らないでください。わたしこそ、本当にすみません。いつも斎藤さんに甘えて、迷惑ばかりかけて。今回のことも心配かけてしまって。」
「迷惑だとは思っていない。お前はお前の事だけを考えればいいんだ。」
「………斎藤さん。わたし、斎藤さんのことは本当に大切に思ってます!でも……わたしは、沖田さんを待っています。どんなに時間がかかっても、どんなに傷ついても………。」



千鶴の想いを伝えると斎藤はそうか、とだけ言い、運ばれてきたコーヒーに一口付けた。



しばらくして店を出ると斎藤は千鶴に向かい合い言った。
「あまり無理をするな。辛い時はいつでも言うといい。相談にぐらい乗らせてくれ。」
言いながら千鶴の頭を撫でてくれた
その大きな手の温もりが嬉しくて千鶴は何度も頷き、斎藤の姿が見えなくなるまで見送った。



心の中で、いつか以前の様にまた笑い合えます様にと祈った。







旅行の前日、千鶴は父の職場の大学病院に来ていた。
大切な書類を実家の書斎に忘れてしまったらしく、実家まで取りに行き、届けに来たのだ。

父は忙しく手が離せないようだったので、受付の者に渡し帰ろうとした時、目の前を慌ただしく通りすぎていった女性から手帳のようなものが落ちた。
千鶴は急いで声を掛けた。



「あの、すみません。」
立ち止まって振り向いた女性の顔をみて千鶴は心臓が止まりそうな程驚き、血の気が引いた。



女性は沖田の恋人だった。



千鶴はあの日カフェで見た恋人の顔を忘れた日はなかった。
目の前にいる女性は、何度も何度も夢にまで見たその人だった。



「あの…何か?」
女性は怪訝な顔をして聞いた。
あの日と同じ、沖田を射抜いていた真っ直ぐな瞳で、千鶴を見つめていた。



「あ、すすみません!!あの、これ落としました。」
女性の切れ長の目が大きく開かれる。
「あ、父の保険証…親切にありがとう。助かりました。」
千鶴は女性が落とした手帳を渡した。
千鶴の事は知らないようだった。



「それじゃあわたしは…」
「あ!あのっ!」
女性がまた急いで歩き出そうとした瞬間、千鶴は思わず呼び止めてしまった。何故そんなことをしたのかは自分でもわからない。



「はい?」
「あ、すみません!あの…えっと、……お父様!お父様の具合が悪いんですか!?」
自分でも何を言っているんだろうと思ったが、女性は意外にも優しい表情で答えてくれた。



「ええ、実は。元々心臓に持病を持っていたんだけど、さっき倒れて運ばれたの。この2、3日が山らしくて。急だったから一度家に戻って荷物を持ってこようと思って。」
「そ、そんな……。あの、どなたか他にご家族はいらっしゃってないんですか?」
「母はわたしが幼い頃に亡くなっていてずっと父と二人暮らしなので。」
彼女は千鶴の問いに、悲しみに耐えるように答えてくれた。



千鶴には他人事とは思えないような話だった。
千鶴も幼い頃に母を亡くし父が男手一つで育ててくれた。
もし今父を失うようなことがあれば、千鶴は立ってさえいれないだろう。
「あの、どなたか支えになって下さる方を呼ばれないんですか?こ、恋人とか。」
「ああそうね。…でも彼は最近ずっと仕事が忙しくて。明日は久々の休みで大事な用があるって言ってたから呼べないかな。」



そう言う彼女はひどく優しい表情をしていて、そんな彼女を見て千鶴は胸が痛くて痛くて堪らなかった。
そして急ぐからと、彼女は走りながら去っていった。
彼女の沖田への思いやりに満ちた表情が焼き付いて離れない。



千鶴はしばらくまともに頭が働かず、ふらふらと家に帰っていった
千鶴の部屋のカレンダーには、明日の日付の上に大きな二重まるが書かれたままだった。




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