「起きろ千鶴。着いたぞ」 車を停め、隣で眠る千鶴に声をかけると、千鶴は目を擦りながら、寝ぼけているようにきょろきょろと辺りを探った。 「あれ、私ずっと寝てたんだ」 「ああ。よだれ垂れてたぞ」 「嘘?!」 「嘘だよ」 俺が笑うと、千鶴は真っ赤になって頬を膨らませた。 「ほら、行くぞ。もうすぐ、夜が明ける」 千鶴を促して、外に出た。長い時間座っていたので体中が痛い。けれどひんやりと頬をなぞる風が冷たくて、気分はよかった。 俺たちは車を停めた駐車場の奥に見える、小高い丘に向かって足を進めた。 「薫、ここって・・」 「思い出の場所だよ」 遠い昔のな、と誰にも聞こえない声で俺は呟いた。 丘の上に続く階段を上る。あの頃は、こんな階段はなかったなと、当たり前のことを考えながら、ささやかに舗装された階段を一段一段踏みしめながら上った。 千鶴は、落ち着きなく辺りを見回した。そして時折、どこか遠くを見つめるような、何かに思いを馳せるような目でじっと見つめた。 危なっかしいので俺が手を差し出すと、「ありがとう」と言って手を握った。 「ここは星がよく見えるらしくてさ、地元じゃ有名な穴場らしいよ」 長い階段を上りきると眼前に空が広がった。 頂上は小さな公園のようになっていて、周囲には展望できるようにフェンスや、ベンチが設置されていた。 この場所も随分変わったなと、時の流れを実感する。 公園の奥には大きな桜の木が立っていた。確か、あの時もこの桜の木を見た気がするが、はっきりとは覚えていない。 「朝日には間に合ったみたいだな」 辺りは薄暗く、空にはまだ星がくっきりと輝いていた。 階段を上ったせいで、額にじんわりと汗がでた。それを朝の風が、冷やしていく。 千鶴はあがった息を整えながらフェンスに手をかけ、空を仰いだ。 大きく胸をはり、吐き出された千鶴の息が、宙に浮かんで消えていった。 「どうしてかな。この場所を今まで知らなかったのに、覚えている気がするの」 その目には涙が浮かんでいて、きらきらと光っていた。千鶴は胸に手をあてて、記憶の中の何かを探しているようだった。 「いつか、どこかで見たんじゃないかな。そういうことってたまにあるだろ?」 千鶴は小さくうなづき、目を閉じた。涙がぽろりと落ちた。 俺は千鶴の隣に立ち、同じようにフェンスに手をついた。 あの頃とは確かに違う、けれど同じ場所に立って二人で空を見上げている。 今にも落ちてきそうなほどにまばゆく輝く星が、俺を見下ろしている。 右手を空に向かって伸ばしてみた。けれどどんなに伸ばしても決して、星には届かなかった。空の遠さに愕然とする。 そんな俺の左手を、千鶴が強く握った。 小さくて頼りなくて、それでいて優しい千鶴の手の温もりが、皮膚を通して俺に教えてくれている。 本当に欲しいものは、いつだって近くにあるのだと。 あの頃の俺は、そんなことも知らなかった。 「あの時は、悪かった」 ひとしきり空を眺めたあと、東の空から流れてきた白いベールに頭上が覆われた頃、俺は覚悟を決めたように深呼吸して言った。 千鶴は俺の方に向き直り「何が?」と小さく呟いた。 ずっと言いたかった言葉を口にして、自分の鼓動が早くなるのを感じた。唇が震えた。けれど、不思議なことに、頭の中は落ち着いていた。 (やっと言えたな、随分時間がかかったじゃないか) 俺の中にいる、もう一人の俺の声が聞こえた気がした。 「・・・小3の時、千鶴が集めてたアニメのシール、無くして泣いたことがあったろ。あの時言わなかったけどさ、あれ実は俺が間違って捨てちゃったんだ」 一息でそこまで言いきると、千鶴はきょとんと目を丸くして、肩透かしにあったような表情で俺を見つめた。 俺は続けた。 「あとさ、こないだ千鶴が買ってきた限定のアイス、千鶴の分まで食べちゃったのも俺。あの時は親父のせいにしたけどさ。あ、あと高校生の頃、家に来た沖田を何度か追い返したこともあったな。千鶴はいませんて言ってさ」 早口に言い終えると、俺と千鶴は向かい合った。二人とも気の抜けた顔をしていた。 そして遠くに聞こえる鳥のさえずりを合図にしたように、どちらからともなく、噴出して笑った。 「信じられない!あのシール、すごく大事にしてたのに」 千鶴が涙を滲ませながら笑う。 「だから、こうしてこんな場所まで来て、懺悔してるんだろ」 「あの限定のアイスも、ずっと楽しみにしてたんだから」 「悪かったよ」 「駄目、絶対許さないから」 千鶴は俺の手を振り払い、ぷいと顔を背けて言った。 俺の心臓が、ずきんと痛んだ。 唇を噛み締めて、痺れるように震える手を伸ばすと、千鶴はふふっと笑った。 「嘘、許すよ。当たり前じゃない、兄妹なんだから」 いつの間にか、遠くの空から朝日がのぼり、光の線が、差し込むように俺たちの頬を照らした。 (もう、自分を責めなくていいんだよ) 一瞬、あの頃の千鶴が見えた気がして俺は息をのんだ。 それは朝焼けに目が眩んだ俺の錯覚かもしれないけれど、確かにあの時の千鶴が笑ってくれた。 「そうだよな。俺たちは、双子の兄妹だもんな」 急に肩の力が抜けた。そしたらなんだか目の前が霞んで、千鶴の顔が歪んで見えた。 なんだこれ、と思った瞬間ぽろりと涙がこぼれて、ああ俺は泣いているのかと思った。 俺は慌てて手のひらで涙を隠した。 けれど次々と目から水滴がこぼれ落ちてきて止まらなかった。 誰が泣いてるんだよ。 俺だろうか。それともあの頃の俺だろうか。 困惑する俺を、千鶴の小さな身体が包んだ。 この柔らかくて暖かな身体の中に、俺と同じ血が流れているのかと、誇らしくて、優しい感情が、つま先からこみ上げてくるのを感じた。 千鶴、俺は時々思う。 俺たちがこうしてまた、ひとつの体を分け合うようにして生まれた意味を。 俺はいつだってお前を探していたんだ。そしてお前はいつだって俺を見つけて手を差しのべてくれた。 春の朝の柔らかな風が、俺たちの髪をなびかせた。 藍色の空は薄らいで、星の粒が、空に融けていった。 幸せになってくれよ、今度こそ。 震える千鶴の肩を抱きながら、強く願う。 照れ臭くて絶対に口には出せない言葉を、俺は心の中で繰り返した。 俺の声は唇からは漏れなかったけれど、きっと届いていると確信している。 この体温を通じて、千鶴の胸に。きっと。 fin. ← top next |