それはもしかしたら初めて目があった瞬間から始まっていたのかも知れない。
初めて並んで歩いた日からかもしれない。彼の背に守られた日からかもしれない。
気が付いたら私は彼の背中を追い、傍にいたいと願うようになっていた。

私達の一番の共通点は家族の愛に飢えていたことだと思う。
「飢えていた」と言う言葉はやや語弊があるが、様々に絡み合った悲しい理由により私達はそれぞれ幼い頃に家族の繋がりを失った。
けれどその代わりに沢山の仲間に恵まれた。
父親のような優しさで包み込んでくれた人、厳しく見守ってくれる母のような人、優しい兄のような人。
そんなかけがえのない仲間たちに囲まれて、厳しく心身を削る日々であれどとても充実していた。

しかしまるで吹き荒れる嵐の様な時代の流れの中で、私達は一人、また一人と仲間を失った。
絶望の闇の中から手を差し伸べてくれたのは、やはり彼だった。
手探りでその手を掴み、私達は誓った。共に生きると。
私達は互いを手に入れる代償として、この世に二人ぼっちになったのだ。

時代は移ろい、私達は人里離れた山奥の小さな屋敷で幾度の季節を越えた。
幾つもの朝と夜、幾つもの出来事を共に過ごした。
二人の間に流れる全ての時間を共有し、全ての感情を分け合った。
いつだって側に付きまとう別れの予感から逃れるように、私達は互いの存在を確かめ合っていた。





目覚めの悪い夢を見て目を覚ますとまだ辺りは薄暗かった。
額にはじっとりと汗をかいている。
東の空は蒼白く空が交わっていた。間もなく夜が開ける時間だ。
総司さんが生きていた頃は、目が覚めるとすぐに隣に寝ている彼の胸に耳を当て鼓動を確認した。
その音を聞くことで私の一日は始まった。
しかし今はもう布団の左側は主を失い、彼の鼓動を確認することもない。



私は寝間着のまま肩掛けを羽織り表に出た。
朝の空気がしんと冷たく肺に突き刺す。
この里にも間もなく厳しく長い冬が訪れる兆しだ。
私は朝露で湿る草道を抜け、山小屋のふもとにあるこの村で一番大きな川に降りた。




「あぁ寒い。この川がなければこの土地はもう少し暖かかっただろうにね。」
彼は冬の間この川に来るたびにそんな事をぼやいていた。
そんな風に文句を言いつつも、彼はこの川がとても好きだった。
いつだか機嫌のいい日、故郷の川に似ているからだと教えてくれた。
私達は朝起きると手を繋ぎ川原までの道を歩いた。家の庭にも勿論井戸はあったが、この川から直接汲んだ方が身体に効いている気がすると彼が言ったからだ。
その日課は彼を失った今も私の身体に染み付いていた。
この景色を見てからでないと、その日一日を上手く乗りきる自信がないのだ。それは私にとって空気を吸うよりも必要なことだった。




ふもとに近づくといつの間にか群青色の空が徐々に赤く染まっていた。
今日もうんざりする位長い長い一日が始まる。
彼がいなくなってからは夜明けは苦しくて浅い悪夢の延長線上に過ぎない。
私は重い身体を引きずり何時もの道を進んだ。
川音が近付きふと顔をあげると川原に人影が見えた。
この辺の村では見たことのない女性だった。
その女性は背筋を伸ばし真っ直ぐ遠くを見つめていた。女性の回りの張りつめた空気に圧倒され私は立ちすくんでしまった。



「立派な川ね。」
ふいにかけられた声に私は肩を弾ませて驚いた。
いつ私の存在に気付いたのか、女性は切れ長の大きな目で、はっとする程真っ直ぐな視線を私に向けていた。私は思わず息を飲んだ。
「あなたはこの辺の人?」
私は慌てて答えた。
「あっ、はい!この山の上の・・」
「ねえ懐紙でも布でもいいんだけど、何か持ってないかしら?」

女性は袖口を捲って見せた。華奢で少々色黒い女性の肘は擦ったように傷ができ、血が滲んでいた。

「今この川原に降りるときに足を滑らせて転んじゃったのよ。」
澄んだ声で恥ずかしげに笑う彼女の声は何故か心地よく私の耳に響き、いつしか警戒心が消えていた。

「あ・・それでしたら、私の家が少し登った所にあるのでいらっしゃって下さい。手当しますから。」
「いいの?悪いわねえ。」
形のいい唇をきゅっと上げて彼女はまた笑った。
彼女もまた私に対して警戒している様子はなかったので、私は初対面の女を家に招いた。




先に彼女を室内に案内して私は手当て用の水を汲みに庭の井戸に向かった。

不思議な女性だなと思った。
彼女の語尾の力強さや物腰からして恐らく江戸の人間だろう。
彼女と話してなんとなく懐かしい気持ちになったのはそのせいかもしれない。
明るさの中に品のある佇まいも、雪村の里の女性達とは少し違った。
彼女みたいな人がこんな山深い里に一体何の用があってきたのだろうか。
様々な思いを巡らせながら屋敷に入ると、彼女は箪笥の上に置かれていた位牌に手を合わせていた。
「こちらは・・?」
彼女は私の存在に気づくと向き直りながら尋ねた。
「私の、夫です。今年の夏の終わりに・・」
死んだのです、と言う言葉を私は飲み込んだ。改めて口に出すという作業はひどく勇気のいることだった。
彼女はもう一度位牌に目を移し、その隣に置かれている小さな壺をじっと見つめた。その壺は彼の灰が入っているものだ。
「お若いのに苦労なさったのね。私は江戸の生まれだからご先祖様をとても大切にするの。・・・旦那様ちょっとだけお邪魔しますね」
奥深い瞳で言った彼女の言葉に私は少しだけ胸が熱くなった。



彼女は肘の擦り傷だけでなく、足も痛めていた。
「だってあんな所に窪みがあるなんてわからなかったのよ」
彼女は屈託なく笑った。彼女はどうやらこの辺りに住んでいる親戚に会いにはるばる江戸から来たらしい。
間もなくこの辺りは冬に向け寒さが厳しくなると言うのによく女一人で来たものだな、と思ったことを素直に言うと「急に会いたくなったから」と言った。
その気紛れさがまるで彼のようだなと思い私はふっと笑った。
「その足で山を降りるのは大変でしょう?良ければうちに泊まって行ってください。何日いてくださっても構いませんから。」
私はなんだか彼女を放っておけずそう提案すると、彼女は少し考える様な素振りを見せ、ありがとうと笑った。




夜中になると何時ものように総司さんの夢を見て目が覚めた。

夢の中で私は一人立っていた。
不安に駆られ私は彼の姿を必死に探した。
彼が気に入っていた縁側。身体が鈍るからと言って軽く素振りをしていた柿の木の下。家事をしている私をいつも後ろから抱き締めた台所。
何処を覗いても彼はいなかった。
私は走ってふもとの川原に向かった。
そこには何時ものように少しだけ猫背に背を曲げた彼が立っていて、私に気付くと何かを言いたげに笑った。
そんな夢だった

布団の中だと言うのに手足はしんしんと冷えていた。
あの頃はよく私より体温の高い彼が冷たっと笑って手を握り、身体ごと抱き締めてくれた。
彼に触れるたびに私は誰かを想うことの切なさを知った。
そして、自分でも、血を分けた家族でもない他人と近くにいることの不思議さに胸は暖かくなった。
けれどそんな彼はもういない。
一人越える夜の長さに私はいつも途方にくれた。
ふと横を見ると昨日出会ったばかりの彼女は規則正しい寝息を立てていた。
暗闇にぼんやりと映る彼女の顔は、どの部位をとっても品良く整っていてぞっとする程に美しかった。
色素の薄く細い髪がさらりと揺れ、彼女の閉じられた瞼に掛かった。



私は水を飲むために井戸に向かった。
からからに渇いていた喉が潤うと私の胸は少しだけ落ち着きを取り戻した。
ふと顔を上げると満天の星々が輝いていて私はしばらくその場で夜空を見上げていた。
空気の澄んでいる雪村の里の星空はとても美しく、私達はよく肩を並べて空を見上げた。


「とっても綺麗ねー。」
突然掛けられた声に驚き振り向くと寝間着に肩掛けを羽織り、白い息を吐きながら彼女が立っていた。
「この里は空気がとても綺麗ですから。」
彼女は私の隣に来ると大きく息を吐き出し、もう一度空を見上げた。
なんだか仕草がとてもよく総司さんに似ていたので、私はぎゅうっとつねられたように胸が痛んだ。
しばらく黙ったままそれぞれ星を見ていたが、少ししてから彼女は遠慮がちに口を開いた。
「答えたくなかったら言ってね?・・・私の予想ではあなたも江戸の方ではないかと思うんだけれど、どうしてこんな人里離れた場所で生活しているの?」
彼女は星を見上げながら尋ねてきた。
「・・・ここは、私の生まれ故郷なんです。この里の水と空気が夫の病にいいと父に教えられて私達はこの里に辿り着きました。」
彼女の聡明な瞳が私に向けられた。
冷やかしではなく真摯に私達の事情を知ろうとする瞳。
それは闇夜に星が輝くように、小さな明かりを灯していた。
「あなたの旦那様の病は・・・」
「労咳・・でした。」
私の口から出た不治の病の名にも彼女は特に驚く様子もなく、「そう・・」と受け入れるように目を瞑った。
「・・・こんな美しい場所で、あなたのような優しい方に看取っていただけたなら、旦那様はきっと幸福だったでしょうね」

その言葉に私はぼんやり宙を見つめた。
私は彼の最期を看取ってはいない。
彼は普段通りに最期の一日を過ごした。
朝起きると二人で川に行き、戻って来て向かい合って食事をした。昼に一通りの家事を終えると縁側に行き私の膝枕で少し眠った。夜は何時ものように美味しいと言って夕食を食べ、抱き合いながら眠りに落ちた。そして逝ってしまった。
朝起きると彼の姿は無く、僅かばかり残った灰だけが彼が最期の瞬間まで私の傍にいてくれたことを教えてくれた。


今でも私は気付くと彼の姿を探している。
「ただいま」と言って玄関から入ってくるのではないか。「冗談だよ」と何時もの悪戯な笑顔でひょっこり現れるのではないかと。

「―・・幽霊でも、いいんです。」
唐突に私が呟くと、彼女は黙ったままこちらを向いた。
「幻でも、夢でも構わない。もう一度でいいから・・・」

その後の言葉は冷たい風に掻き消された。いつの間にか重い雲が星を隠してしまった。
彼女は私の言葉を待っていたが、暫くすると「戻りましょうか」と言って私の肩に手を乗せた。
名残惜しく雲の隙間に星を探していた私は、彼女の柔らかな暖かさに誘われてその場を後にした。

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