空の下に薄氷は流れる



「桜も咲いたことだし、酒でも呑むか」
と永倉と原田が言い出したのはつい先刻のことだ。
「桜も何も、酒なら毎日呑んでるじゃないですか」と沖田が言えば、
「桜を肴に呑むなんて、一年に一度しかできねえんだぜ」
これを逃す馬鹿があるかよ、と永倉が歯を見せて笑った。
そんな成り行きで、西本願寺の屯所の中庭で、非番の者を集めて小さな宴会が執り行われた。

日ごろの疲れを晴らすように、皆酒を呑んだ。
なにせ、局長公認の宴会なのだ。
屯所内での酒盛りは、特別な行事を除いて基本的に禁止されていた。
新選組を敵視している西本願寺側に、隙を見せてはならぬと、鬼の副長が決めたことだ。
それが今回は珍しく、局長から直々に許しが出た。局長が許した、と言うことは、副長である土方が許可したと言うことでもある。
隊士たちへの労いか、西本願寺の連中にあえて隙を見せるための計算か。はたまた試衛館時代からの古株である幹部連中に「昔みたいに花見をしようぜ」と泣きつかれたからか。
いずれにしろ、またとない宴会の機会に隊士たちは喜びの声をあげた。

酔って歌う者。語る者。思い思いに、皆つかの間の休息を楽しんだ。
原田などは、得意の腹踊りを早速始め、永倉が手拍子で煽っている。
そんな様子を、少し離れた縁側の階段に腰掛け、楽しそうに眺めている沖田が居た。
「こんなとこに座ってねえで、お前も混ざってくればいいじゃねえか」
土方が杯を手に持ち、沖田の下へ来た。
「冗談。あんな騒がしいところじゃ、おちおち酒も楽しめませんよ」
そう言って、酒を口に運んだ。文句を言いながらも、機嫌は良い。体調も良いのか、けらけらと笑っている。
土方は沖田の横に座った。顔をかすめる風が冷たくて心地よい。がはは、と男たちのがさつな笑い声が聞こえる。随分平和じゃねえか、と土方は不思議な気持ちになる。
「お前が静かに花見を楽しむような風流な人物だとは知らなかったよ」
「別に風流なんかじゃないですよ。僕は土方さんとは違うんで」
一輪咲いても桜は桜だし、と沖田が笑う。うるせえよ、と土方は小突く真似をする。
にやにやと笑っていた沖田が、空を仰いだ。つられて土方も顔をあげた。
真っ青な春の空に、風にあおられた小さな花弁が舞う。
陽の光に当てられて、きらきらと舞い落ちる春の雪のようだ。
綺麗だな、と土方は思う。
「綺麗だなあ」
聞こえてきた沖田の言葉に驚き横を向くと、穏やかに目じりを緩ませた沖田が、その若葉色の瞳に花弁を映していた。
土方の視線に気づくと、
眉を下げて、くっと笑った。
「綺麗だな、だって」
思いがけず出てきた自分の言葉に、戸惑うように言った。
「お前にもそんな殊勝な感情があったとは驚きだ」
「そんなの、僕だって驚きですよ」


言うなれば、沖田は獣に近いと、誰かが言っていた。
群れず、馴れ合わない、しなやかに生き延びる野生の獣。己の牙だけで戦い生きる孤高の狼のようだと。
幼い頃の鮮烈なまでの孤独な傷が、これまで沖田から他人を遠ざけて来たことを土方は知っている。
心を閉ざし、誰彼かまわず剥き出しの牙を向ける沖田に、初めて人の優しさを教えたのは近藤だ。
傷だらけの獣を抱きしめ、暖かな血を注いだ人。沖田にとって唯一の人。
近藤のために生きたい。沖田とって、生きていくうえでそれ以外の欲がない。生きていくための理由を、それ以外に持ち合わせていない。
「感情が欠落しているのだ」と、沖田をよく知りもしない隊士が陰口を叩くこともある。
そういうんじゃねえよ、と土方はその度に思った。
知らないのだ、沖田は。
愛を知らないから、他人を望まない。人の温もりを知らないから、近づかない。与えられるものがあまりに少なかったから、欲がない。期待しない。執着や興味と言った感情を周りに向ける術を、知らない。
自分は自分。他人は他人。花は花でしかないのだ。
そこに「美しい」だとか「愛おしい」だとか、情は介入されない。
自分と、近藤と、それ以外。
沖田の世界は、ひどく単純な図で成り立っている。
己の感情を表す術をしらない、孤独な狼。
その狼に、鋭い刃を与え、鬼にしたのは自分だ。土方はそう思っている。
人を愛したことがないから、人を斬れる。温もりを知らないから、生ぬるい返り血を浴びても笑っていられる。
沖田の持つ、近藤へ向けられた僅かばかりの情愛の念を利用した。
一生をもってしても償うことなど出来ない、己の罪。




「いいことじゃねえか。お前もちったあ大人になったってことだろ」
お前が思っているより、この世の中には美しいものが溢れてるんだよ、と。感慨にふけりながら、土方は言った。
沖田は首を傾げながら、不可解と言った顔をする。
「前は桜なんて見てもなんとも思わなかったのに。何か、最近変なんですよね」
「変て、何が」
温くなった酒を口に含むと、沖田はうーんと唸るような声を出して、続けた。
「花を見て、ああ、綺麗だなあとか思ったり。空を見て、天気がいいと、気持ちが良いなとか。雨だと、ちょっと残念だなとか。仕事の後のご飯や酒がおいしいとか。何なんですかね、こういうの」
まるで、無知な子供のような沖田の言葉を、肩をすかされたように目を丸くして聞いていた。沖田は構わず続ける。
「たぶんこれって、千鶴ちゃんのせいだと思うんですよね」
「何で、それが雪村のせいなんだよ」
「だって、千鶴ちゃんと会うまではこんな感情湧いてこなかったんですよ。あの子が僕の横で、やれ花が綺麗だとか、やれ今日は天気がいいだとか、ご飯が美味しいとか、嬉しいだ悲しいだってやかましくするから、僕にも伝染したんだと思います」
心外だ、と言わんばかりに腕を組んでため息をつく沖田を見て、土方は思わず噴出した。
「まったく、その通りだな。そりゃあ、雪村のせいだ」土方が笑う。
「何笑ってんですか」と沖田が不快そうにじろりと睨むと、背後から叫び声と忙しない足音が聞こえてきた。


「ずっりーよー!!俺たちを仲間はずれにして、何勝手に宴会おっ始めてんだよ!」
巡察から戻った藤堂と、隊士たちがやって来た。藤堂の後ろには、巡察に付いて出ていた千鶴の姿もあった。
宴会は更に賑やかになる。男たちの歌や、笑い声が聞こえてくる。
沖田と土方の姿を見つけると、にこにこと笑いながら千鶴が来た。
「お二人は混ざらないんですか」
「僕たちは団子より花がいいからね。風流だから」
沖田の軽口に千鶴はくすくすと楽しそうに笑った。鈴を鳴らすような心地よい笑い声を響かせながら、沖田の傍に座る。ごく自然に。ここが自分の場所だと、無意識に知っているように。
先程沖田と土方がしたように、千鶴も空を仰いだ。大きく息を吸い込み、眼を細める。
「・・うわあ。綺麗ですねー」
「でしょ?千鶴ちゃんも絶対そう言うと思った」
沖田と千鶴が顔を見合わせて笑った。土方も、つられて笑った。
「こういう時、風流な土方さんはなんて表現するんです?」
手にしていた杯をくいっとあおり、沖田は悪戯な顔を浮かべて聞いた。
「ばあか。人間、本当に美しいもんを見たときは言葉なんていらねえんだよ」
フンと息を荒げて土方が答えると、千鶴は感心したように目を瞬かせ、沖田は「確かに土方さんの俳句じゃこの桜も台無しだ」とげらげらと笑った。

残りの酒を流し込み、土方は立ち上ると、宴会の輪に向かって言った。
後から来たはずの藤堂も、いつの間にか顔を赤く染めて腹踊りを披露している。
「おいお前ら。適当な所で切り上げろよ。夜勤がある奴らは飲みすぎるんじゃねえぞ」
隊士たちの返事を背で聞き、自室に戻るために廊下の板を踏みしめる。
全く昼間から飲んでる場合じゃねえんだよ、俺ぁ、と心の中で悪態を吐く。
廊下の曲がり角に差し掛かったとき、ふと縁側に座る二人に目をやった。
一瞬強まった風が吹き抜ける。桜の花弁が空に舞い上がる。
風がやむと、千鶴は沖田の前髪に乗った花弁を一枚、とった。
二人は何か言葉を交わし、笑った。
その姿は、孤独な狼が、穏やかな陽だまりに身を寄せてまどろんでいるようにも見える。―――いや、違うか。
土方は思う。
沖田は獣ではないし、千鶴は陽だまりでもない。血の通った、人なのだ。
千鶴の与える温もりが、身を守るようにしてがちがちの氷のように固まった心を、暖めて、溶かしているのだ。
この殺伐とした人の世で、沖田が、ささやかで、それでいて優しい誰かの温もりに触れてくれれば。
あられもない祈りを、土方は飲み込んだ。
男たちの陽気な囃しが聞こえてくる。春風に乗って、桜の香りが土方の元へ届いた。
この春の情景を、一句たしなめたいと言葉を選んだが、辞めた。
「桜は桜だろ」どれだけ言葉で紡ごうが、その美しさに変わりはない。
土方は目を瞑り、花の香りでじんと痺れる鼻の痛みをやり過ごした。

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