次の日私は風邪をひいた。
身体の底からどっしりと重い熱が私の身体を覆い、指一本動かすのも辛かった。
「寒い中ずっと外にいたからよ」と彼女は笑った。
彼女の分だけでも朝食を作らねばと起き上がろうとすると、私の身体を無理矢理に布団に押し戻した。
「駄目よ!今日は私が作るからあなたは寝てなさい。お粥なら食べられる?」
私は布団から顔だけを出し、首を横に振った。
「何も食べたくないんです・・・」
「そうねぇ。でも、辛くても何か口にしないと。」
彼女は手で熱を計るように私の額に乗せた。その手はひんやりと冷たくて、まるで父母の手の様に優しかったので、私は無意識のうちに大袈裟に甘えてしまった。


「・・・このまま弱って死んでしまえば、彼に会えるかもしれませんね・・」
私が掠れた声で弱々しく言うと、彼女は困ったような、呆れたような声で私を見下ろした。
「馬鹿ね。そんなこと言ったら旦那様が悲しむわよ。」
「いいんです。・・・彼は、私にとって自分そのものなんです。彼を失って生きていたって私には何の意味もない・・・」
息切れしながら私は言った。そんな風に思っていたのかと、頭の片隅で自分自身が一番驚いていた。
こんな風に他人に甘え、弱音を吐いている自分が痛ましくて恥ずかしくて、大声で泣きたい衝動に駆られ顔を手で覆った。しかし熱に体力を奪われた私の体は涙を流す力すらなかった。
じっと黙って聞いていた彼女は子供をなだめるような口調で言った。
「何かを失った時って言うのはね、悲しみが身体中に巣食ってじわじわと蝕むのよ。風邪みたいにね。それなのにあなたはじっと我慢して溜め込んでいたから、だからこうやって寝込んで熱まで出して爆発してしまうのよ。」
そう言って冷水でしぼった手拭いを額に乗せてくれた。
「風邪の時はね、食べて、寝て、休む。そうすれば自然と良くなるのよ。大丈夫、今が一番辛いときだから、これ以上の辛さなんてないのよ。」
そう言って、冷水が入っていた桶を持ち、台所に向かった。





台所から聞こえる心地よい音を聞きながら、私は浅い眠りの中で夢を見た。
夢と現実の間でふと目を開けると心配そうな顔で総司さんが覗いていた。
――そこにいらしたんですか。
意識が朦朧としていた私は、特に驚きもせず尋ねると彼はいつものように口角をきゅっと上げて笑った。
――もう連れていってください。私は十分に耐えた・・・。あなたの居ない日々を生きるのはもう疲れました。
私が切実に懇願すると若葉色の瞳が何かを言いたげに揺れていた。
――どうして悲しい顔をするんですか。
・・・だって約束したでしょう。二度と離れないって。
彼は私に何か伝えようと口を開いた。
彼の唇が、言葉に合わせて動く―――



「どう、起き上がれる?」
ぼんやりと視界の端に彼女の顔が映り、私は瞬きをした。当然だが、そこに彼の姿はなかった。
今のは夢だったのだろうか――
私は何とか起き上がり、彼女からお椀を受け取った。顔を暖かな湯気に覆われ、少しだけ食欲が湧いた。
「・・・すみません、お客様にこんなことをさせてしまって・・。」
私が礼を言いうと、彼女は笑った。彼女はよく笑う人だ。
「いいのいいの。私だってお世話になってしまったんだから、これくらい手伝わせて頂戴。」
私はもう一度彼女に礼を言い一口分の粥をすくった。
じわっと暖かなものが、口から喉に流れ胃に落ちていくと、身体の中から込み上げてくる何かを感じた。
「美味しいでしょう。身体が辛いときは大根おろしの粥が一番効くのよ。」
彼女の問いに、私は声が詰まって上手く答えることが出来なかった。
「・・はい・・とても、優しい味です。」
ぽたぽたと涙を溢しながら切れ切れにようやく答えた。
彼女は驚いたように目を丸くしたが、何かを察してくれたらしく、それ以上は何も言わなかった。
ひとくち口に含む度に、あの頃の思い出が鮮明に目に浮かぶ。
私に始めて我儘を言ってくれた彼の顔。
優しい味だと、気だるげにはにかみながら言った彼の声。

大切だった・・・彼の何もかもが。

私は手を止めると、これまで堪えていたものが一気に溢れてきて、膝に顔を埋めて大声で泣いた。
吐き出しても吐き出しても、胸の奥につかえているしこりは取れてはくれなかった。
私は延々と泣き、彼女は何も言わず、ただ私の嗚咽が止むのを隣で待っていてくれた。






「明日、ここを出ようと思うのよ。」
私はその後二日ほど寝込み、三日目の朝になってようやく調子が戻ってきた。
その日の夕食の後片付けを並んでしていた時に唐突に彼女は言った。
「私の怪我も良くなったし、あなたの風邪も大分いいみたいだしね。」

「そう、ですか・・・」
私の顔に暗い影が落ちた。
たった三日しかこの家にいない筈の彼女との生活があまりにも馴染んでしまい、心の底から寂しさに襲われた。
彼との思い出が詰まったこの家で、また一人彼の面影を探す日々が始まる。それは恐怖にも近かった。
そんな私の様子を察したのか、彼女は先程より明るい声で言った。
「明日、夜が明けたらもう一度あの川に行きましょう。」
「川に・・ですか?」
「そう。最後にもう一度見ておきたいの。」
何故と聞こうとして、止めた。
覗いた彼女の横顔が明るい声とは裏腹にとても神妙に視線を落としていたからだ。
私達はそれ以上明日の別れについて言葉を交わすことなく、片付けを済ませ、交代で風呂に入り、最後の夜を静かに過ごすと、並んで眠りについた。





夜明け前に家を出て、私達はふもとの川に向かった。
空気は日に日に冷たくなり、足元の土には霜が降っていた。
転ぶと危ないからと彼女は私の手を取った。
私と総司さんがいつもそうしていたように、私達は手を繋ぎ、並んで山を降りた。
川原に着いた頃、辺りはまだ白い朝霧がかかりぼんやりと薄暗く、西の空には僅かに群青色が残っていた。
もしあの世と言うものがあるならこんな景色なんだろうかと考えながら、私はいつもの癖で彼の姿を探した。
「この川はね、」
私の隣で暫く黙って眺めていた彼女が静かに口を開いた。
「私の故郷の川によく似ている。川の広さも、流れの速さや音も・・・。」
私はきらきらと朝の光を反射させながら静かに流れる水の音を聞いた。
「彼も、同じことを言っていました。だからこの川がとても好きだと。私達は毎日二人でこの川を眺めていた・・」
私は水際にしゃがみ、さらさらと流れる水に触れた。
透明な水は、私の指に触れたかと思えば留まることなく次から次へと流れていく。
余韻すら残さない速さで私の手をすり抜けて行ってしまう。
まるで人の命のようだ、
「・・・残念だけれど、あなたがずっと探している人はもうここにはないのよ。」
彼女の声は表情なく私の耳に響いた。先程まで穏やかだった川の流れが、ごうごうと音を立て私の目の前を流れていく。
私の胸にざわめき立つ黒い波が押し寄せてきた。
「彼は・・・自分の身体が消えても私の傍にいるって約束してくれました・・・彼は私に嘘をついたりしない。」
私は立ち上がり、反論するように彼女の目を見返した。
悲みや苦しみを含んだ彼女の目が私の視線を黙って受け止めた。もしかしたら、彼女もこれまでに多くの人を亡くしたのかもしれないと、唐突に思った。
「・・・会いたい時にはね」
彼女は私の手を取ると、そのままそっと胸に乗せた。とくんとくんと、小さな脈を絶え間なく打つ私の胸。
「目閉じて。思い出はね、物や場所じゃない、心に宿るから。例え身体に触れることが出来なくたって、あなたの心の中で彼は生きている。あなたが笑えば一緒に笑って、あなたが泣けばそっと寄り添う。あなたが生きている限り、あなたの中で脈打ち、巡っている・・・思い出とはそういうものなのよ。」

彼女の言葉を聞きながら、私は胸の鼓動を掌で感じ、目を閉じた。
――千鶴。
あの頃と同じ陽だまりのような笑顔で総司さんが笑っている。
そうだ、彼はいつも私に笑顔を与えてくれたのだ。
思い出の中の彼の笑顔を奪ったのは、紛れもなく私自身の心。



私は自分の頬に温かなものが流れていることに気付いた。
これが、彼が言っていた優しい涙かもしれない。
横に目を向けると彼女が笑っていた。
その瞳には春の息吹を思わせる穏やかな若葉色が輝いていた。私は溢れ落ちる涙もそのままに言った。
「ありがとうございます・・・ミツさん。」
私の言葉に彼女は意を突かれたように一瞬目を瞬かせ、そして眉を下げた。
「なんだ。知ってたの、私のこと。」
その表情も、光の粒を弾かせたような心地よい話し方も、とてもよく総司さんと似ていたので、私はなんだか可笑しくなってクスクスと泣きながら笑った。
「だって、本当に似ていますから。表情も話し方も、仕草まで。」
私達は同じ人を思い浮かべながら笑った。
「あの子は・・・恨んでいたでしょうね、私のことを。」
「そんなこと・・確かに幼い頃に家族と離ればなれになってしまったことは、深く彼を傷つけたかもしれません。でも、あなたを恨んでなんかいませんでした。立派な姉だったと、私には話してくれました。」
私が言うと、彼女は少しだけ安心したように「そう・・・」と息を吐き、俯いた。
泣いているのだろうかと思ったが、すぐに顔をあげると、総司さんと同じ切れ長の目尻を少しだけ下がながら笑った。
「きっと、あの子はあなたに救われたのね。・・・ありがとう、千鶴ちゃん。あの子と出会ってくれて。あの子を愛してくれて。」

千鶴ちゃん、と彼と同じ瞳をした彼女が、同じような柔らかな声色で私の名を呼ぶ。
それはなんだか彼がくれた巡り合わせという贈り物に思えて、私は心の中の彼に、何度も何度もありがとうと感謝を伝えた。




「春になったら、また会いに来るわね。あなたも、困ったことがあったらいつでも江戸に来て。」
「はい、ありがとうございます。いつか必ず、江戸にも伺います。」
そう約束して私達は別れ、互いの姿が見えなくなるまで手を降った。
いつの間にか朝霧は消え、澄んだ冬の空には朝日が差していた。
一日の始まりを喜ぶように鳥はさえずり、光を反射させながらゆっくりと川は流れていく。
私は深呼吸をすると、もう一度目を閉じて胸に手を当てた。
掌の下に、私と彼が生きた日々の証を感じながら私は川原を後にした。

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