「全く、聞き分けのない人ですね。これだから躾のなっていない貧乏人は…。申し訳ありません、定々殿」

「いや、いいんだ。これも下っ端の人間の仕事だろうからな」


警察官僚で優秀、そのくせ野心家で、政治にも長けているこの佐々木とは、今の仕事に就いてから顔を合わせるようになった。

この男は、今の立場に立ってから会ってきた多くの人間とは違う。

私と必要以上に喋らない。ゴマを摺ってくる事もない。そもそもそんな気すらないだろう。

だが、佐々木に抱く感情がプラスになる事はなかった。ぶれる事もない。

私はこの男とは合わない。何度会おうと好きになれそうにない。


その佐々木と睨み合いが続く。

お陰で、扉を締め切っていないのに、辺りから一切の音が引いた。だが、針をつつけば何かが弾けそうな空気でもある。

すると、その空気を縫うようにして、女が割り込んできた。

長い髪を束ねないまま、ミニスカートにスパッツ、足元はロングブーツで固めているその女は、ここでは明らかに異質だった。

ただし、この格好は今に限った事ではない。

名前は今井信女。

佐々木自身が彼女を指名して側に置いていると聞く。が、表立った活躍を聞く限りじゃ、優秀な補佐である事には疑いようが無い。

だが、信女の目は、警察官のとも、官僚のとも、普通の女のものでもない。明らかに違う。

私が昔散々見た裏の世界の住人の目、そのものだ。


「このまま引き下がった方がいい。その方が、あなたの為」

「本心じゃないくせに」


信女は否定も肯定もしなかった。

その代り、突然、空気を切り裂いた。

それを肌で感じると、目の前に突然掌が現れた。信女のだ。

それを寸でのところでかわし、払いのけた手を反転させ、手首を掴む。

だが、信女はそれで諦める様な女ではないようで、反対の手が直ぐに首元へ伸びてきた。触れさせる前に肘を思い切り頬に当てる。衝撃が手首の骨に伝わる。

直ぐに蹴りを入れようとしたが、片手でガードされた。しかも指が二本、目に向かって伸びてきた。

それを背中を反らしてかわそうとしたところ、今度は背中に重い衝撃が走る。蹴られた。しかも脇を。

体勢を崩すと、今度はがつんと頬に重い痛みが走った。

頭の骨が軋む。目の前が一瞬揺れる。口の中に血の味が広がる。

信女の動きは早い。しかも無駄が無い。本気で目や首元を狙いに来る。

それに此方が手を伸ばせば悠々とかわし、てこの原理を使って反撃に転じる。

合気道に似てはいるが、攻撃は積極的。しかも遠慮がない。

私を殺したところで、きっと何も思わない。


「…SAS、ネイビーシールズ…」

「……?」

「警視庁や、アメリカの連邦捜査局の訓練で覚えられるものじゃない。あなた、それ、どこで覚えたの」

「…あんたこそ。ロシアの軍人にでも習った?」

「………」


自慢ではないが、格闘の場数はその辺りに居る警察官や特殊警備隊よりも踏んでいる。自信を持ってそう言える。

それに服部に鍛えてもらってもいる。向こうの施設でも教官を呆れさせた程だ。

それでも信女の動きや戦い方に体が付いていくのがやっとだ。しかも持久戦になれば、私より若いこの女の方に分がある。

伸びてきた相手の手首を掴んで肘を取った。これを捻じれば、最悪、骨折。

視界の端から信女の膝が飛んできたが、相手は腕を、私は脇腹を痛めればそれで終わる。

呼吸を整えて衝撃に備えようとした時、


「二人とも、いい加減、お辞めなさい」


佐々木がそう言うと、信女はぴたりと動きを止めた。

まるで電池が切れた人形のようだ。

殺意がないだけ、人形の方が可愛げがあるが。


そんな人形を見ながら、口の中に溜まっている血を吐き出した。敷き詰められた絨毯の上に赤黒い模様がぱっと散らばる。

信女は鼻血をぐいと服の袖で拭った。

ハンカチを持ってないからというより、戻って着替える迄の事を全く気にしちゃいないのだろう。

他人の目は気にせず、欲望に忠実。

印象通りの相手なら、この女とはいずれまたこうした事がある。そんな予感がする。


近い未来を想像してから、帰る為に体を反転させた、その時。

目の前にいる男が一人、満足気な声をあげた。


「現場から離れてるとはいえ、体も勘も全く鈍っちゃいねぇとは…。今度手合わせしてもらえませんか」

「手加減させないでくれるなら」

「楽しみにしてます」


腕を組みながら、沖田君は口の端だけで笑った。

その沖田君の後ろには、近藤さんがいた。救急車を呼ぼうか、オロオロと焦っている。


…ったく。呆れた


近藤さんくらいだ。私を未だに女として扱ってくれるのは。

苦笑いすら浮かべられずにいると、視線の向こうにいる土方君に気が付いた。

ただし、土方君は全くの無表情。一瞬だけ視線が合おうと、それは変わらない。

冷めているのか、呆れているのか。

近藤さんのようにしない慌てふためかないのは何時もの事といえば何時もの事、だが。


「お疲れ様」

「…ああ」


土方君は無表情のまま、それだけを漏らした。

有り難い事に、煙草を吐き出すついでに。





何か怒ってた…?


定々の家を出て数分も経つと、流石にマスコミの姿はなく、辺りはすっかり静かになっていた。

サラリーマンの帰宅時間を過ぎたからだろう、歩行者すら見かけない。

ボタンはポケットの中に入ったままだ。ちゃんとある。後はこれを早く確認すればいい。自然と足にスピードが乗る。

そのせいもあって、家を出てから考える事はそればかり。思い出すのも土方君のあの態度ばかりだ。

だが幾ら考えたって無駄だった。

土方君とは普段連絡を取り合っていない。

二人とも忙しい。それに意味のないメールや電話をする方でもない。

今まではそれで良かった。そもそも土方君の近況を気にも留めていなかった。

だから土方君が置かれている今の状況が分からない。何を考えているのかさえ推測出来る材料がない。

それでも気にしてしまうのは、私が変わったのか。土方君に何かあったのか。

そうしてまた同じ事をぐるぐると考える。上手くまとまらないままに。


家から遠ざかっても頭の中を整理出来ず、ついには休みたくなった。思わず壁に寄りかかる。

すると、意識が急激に重くなった。次第にその重量が増す。目の前がさっきより暗い。体が思う様に動かない。

信女とのやり取りで、少し内臓を痛めたかもしれない。

原因は分かったが、今度は呼吸が苦しくなってきた。

誰かに出会うとしたら何分後になるのか。喘いでも逃れられない苦しさのせいで、思わず他人を頼りたくなる。

体が痛い。色々面倒臭い。何も考えたくない。

もう歩けない。

早く帰らないと。


重くのしかかってくる意識を必至で繋ぎ留めようとしていると、急に体が浮いた。

意識が遠のきかかっているから、そういう気になったのではない。何故なら足がぶらついている。

押し付けられた服からは煙草の匂いがした。そのせいで意識を失う寸前にやっと分かった事がある。

これでは地獄にいる方がまだマシだ。



着火


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