透明なビニール傘に雨音が反射して落ちる。袖の中に冷たい雫が入った。冷たい。
雨自体は好きだ。雨が纏う雰囲気とか、雨独特の空気の湿り気とか。
傘を差して忙しなく行き交う人間を見るのは特に面白いから好きだ。
けど、雨独特の臭いは嫌いだった。あのカビ臭いような、酸っぱいような。
だから雨は好きでもないし、嫌いでもなかったんだけど。

「………のみむし…」

俺は今、雨に…否、神様にとても感謝している。無神論者なんじゃないか、とかいうツッコミはここでは控えてほしい。
今の俺得な状況を説明すると、俺の目の前にはシズちゃんがいる。
只そのシズちゃんはいつもみたいに自販機を軽々と持ち上げてるだとか、こめかみに青筋立てて睨んでるだとか、そんな状況ではない。
何故か、本当に何故か、シズちゃんがミニマムサイズになっている。それも手乗り。
しかも、シズちゃんの頭からは、普通人には存在し得ないものが、存在していた。
試しにそれに触ろうとすると、手が大きな音を立てて払われる。やっぱりシズちゃんの怪力は小さくなっても健在らしい。

「…それ、本物?」
「本物、じゃねぇのか。なんか動かそうとしたら動くし……」

ピクピク、と小刻みにそれが動く。
それや普通人間に存在し得ないもの、とは兎の耳のことである。
シズちゃんの耳には立派な、長めの兎の耳がついていて、お尻の辺りにはご丁寧に尻尾までついてる。
小さく震える白い塊に興味が湧いた、けど触ったら指が捻り潰されそうだったからやめた。
それでこの小さくて可愛…げふんげふん、なシズちゃんが何故か俺のマンションの前にいて、三角座りをして寒空の下で雨に濡れながら震えていました、と。
抱き締めたくなる気持ちを抑えて、両手で包み込む程度にしておいた俺は偉いと思う。

「とりあえず中入ろう。寒いでしょ」
「…おう」

ミニマムなシズちゃんを両手に乗せて、傘を脇に抱えてエントランスへと入る。
今のシズちゃんには大きすぎるぐらいの小さめな椅子に座らせて、傘の雫を落とし畳んだ。
シズちゃんに視線を寄越してみると、その小さな体はずっと震えている。
よく見てみると、その金は濡れていて雫が次々と落ちているし、着ているバーテン服だってピッタリと体に貼りついている。
バーテン服がどうやって小さくなったのかとかいう愚問はおいといて、唇を真っ青にして寒そうにしているシズちゃんを両の拳でぎゅっと包み込んで、折り畳んだ傘は適当に傘立てに差した。
包み込んだ瞬間、シズちゃんの脆い視線が俺に向いているのに気付く。
その虚ろな目を見て、これはヤバいと俺も本気で危機感を感じた。

「シズちゃん生きてる!?ねぇ、シズちゃん!?」
「…寒ぃん、だよ…」

か細い声で、震えた声で喋るシズちゃんに、不安感が募るばかりで。
コートの中にシズちゃんを入れ込んで、出来るだけ温めようとした。手から伝わる振動に涙が出そうになる。
エレベーターのボタンを押してゆっくりと階を下がってくる箱に苛々した。
それからエレベーターに乗り込み、早々にエレベーターを出てロックを解き、家に入る。
家に入ってからは即、風呂場にいって洗面器にお湯を溜め、縮こまっているシズちゃんをその中にゆっくりと入れた。
暫く様子を見ていると温かく落ち着いてきたようで、血色も良好になって震えも止まっている。
今はもう、お湯の温かさに顔が仄かに赤く色付く程だった。その長い耳も気持ち良さそうに項垂れている。
ほっと溜息を吐いた。

「…手前、何で殺さなかったんだよ……」

洗面器に張った水の膜を見つめながらシズちゃんがポツリと呟いた。
その瞳は悲しそうに歪められていて。どうしてそんなに泣きそうなのか、こっちが聞きたいぐらいだ。

「愚問だね。これぐらいでシズちゃんを殺しちゃったら面白くないでしょ」

俺が。と後付けして頭からお湯をたっぷりかける。
小さいシズちゃんの体が小さく跳ねて、耳を一気に立たせた。
頭を大きく左右に振って余分なお湯を払う様は、本当の犬のようだ。

「とりあえず、礼は言っとく」

ノミ蟲に礼なんて天地がひっくり返っても言いたくなかったが。と後付けされた。
その応答に少し苛ついたから、その頭についている白いふわふわした耳の先を掴んで、ぎゅうと音がするほどに引っ張ってみる。

「ひぃっ!?」

とその瞬間に、シズちゃんは体を震わせ目を見開かせ、変な奇声を上げた。
奇声を発した直後に自らの口を自らの手で以て塞いだが、そんなに顔を真っ赤にしていたら意味を成していないと思う。
ああ成る程、耳が弱点か。
可愛い弱点を晒してくれた彼に自然と頬が緩んでしまう。
そこでやっとシズちゃんの怪訝な視線が俺に向いていることに気付いた。今にも噛みつきそうな視線だ。

「何ニヤニヤしてんだよ、気持ち悪ぃ」
「いや、耳が弱点だなんて純粋に可愛いなあと思って」
「手前っ、弱点じゃねぇよ!ちょっと、くすぐったかっただけ、だ…」
「嘘は吐かない方がいいよ。シズちゃん、嘘吐いたら顔に出やすいんだから」

視線を彷徨わせて気まずそうに俺から目を逸らすシズちゃんに、わかりやすすぎることを指摘したら彼は顔をより赤くさせた。
そんなにわかりやすい表情をされては、俺としてはもう何も言えなくなる。
どうしてこんなにシズちゃんを愛しく感じてしまうんだろう。
否、きっとあの規格外の異質な体に戻ったら、こんな愛着も手放すことになるだろう。
そう信じて、心の中に残るわだかまりには自ら目を背けた。
そして不意に水が跳ねる音がする。洗面器を見るとそこに俺を悩ませる元凶の姿はなかった。

「…シズちゃん?」
「何だよ」

声がしたのに驚いてそちらを見てみると、シズちゃんが脱衣所に向かってペタペタ足音を立てながら歩いている。
頭のてっぺんからつま先までびっしょびしょに濡れていて、ちょっと好奇心で。

「シズちゃん拭いてあげよっか?」
「はぁ?」

脱衣所付近に置いてあったハンドタオルを取って、シズちゃんをそのハンドタオルに包み込んだ。
その瞬間に嫌悪の視線を向けられる。その視線に心を痛めながら耳の付け根辺りを揉みこむように拭くと、シズちゃんの瞳が蕩けてきた。
その要領で髪の毛も拭いたらシズちゃんが気持ちよさそうに目を細めている。
わかりやすいシズちゃんも嫌いじゃないけど。
こんな風にあからさまに和まれたら俺の方が戸惑ってしまう。

「ん、のみむしぃ……」

そこは名前を呼ぶところだよ、というツッコミは心の中に留めておく。
それから後に続いた言葉は、意外と上手いな、という珍しいお褒めの言葉で。
あ、なんかちょっと嬉しい。
その後も力加減を調節しながら髪の毛を拭いて、体も拭かなきゃ駄目かなと思って服に手を伸ばすとその手を思いっきり叩かれる。

「痛っ、ちょっと何」
「そ、それぐらいは自分でできる!っつーかこっち見んな!」

シズちゃんは一気に顔を赤くさせてハンドタオルを体に巻いたまま俺の手から離れていった。
脱衣所の隅に立って、ゆっくりと服を脱いでいく様子がタオル越しにわかる。
シズちゃんは恥じらいがあるのか、乙女のように体を隠して服を脱いでいる。
まぁそんなに隅で縮こまっても上から覗きこめば終わりなんだけどね。

「男同士なんだから、別に恥ずかしがらなくてもいいじゃーん」
「俺が恥ずかしいんだよ、死ね」

短くそう返されて、シズちゃんはそのまま脱いだ服を全て床に落とした。
と、そこでふと気付く。
……替えの服は?
それにシズちゃんも気付いたようで、脱いだ後に慌てだした。

「シズちゃん、それは乾かすからいいとして、今着る服はどうするの?」
「……タオル巻いとく」

声の調子を低くしながら言うシズちゃんに、はあと溜め息を吐いた。
仕方ない、シズちゃんだからそこら辺を考えずに行動するのはわかるけど。
ああもう、これじゃ俺の方が目に毒だ。目のやり場に困る。
だからシズちゃんの耳を掴んで仕事場に連れて行った。確かまだ波江さんがいたはずだ。
耳を掴んだときにまた奇声が聞こえたような気がしたけど気にしない。

「波江さん、ちょっと仕事」

黒塗りの扉を開けて黒塗りの部屋へと入る。シズちゃんはきょろきょろと珍しいものを見るように視線をうろかせていた。
耳を掴んでタオルを巻きつけたまま、弱点の場所を掴まれて項垂れているシズちゃんを彼女の目の前に差しだすと、彼女の眼が丸く見開かれる。
そしてすぐに溜め息を吐き、怪訝な視線を寄越してくる。
ちょっと、そんな目で見ないで。俺がしたんじゃないから。

「で、何かしら」
「服作ってくれない?裁縫とか、できるでしょ」
「………」
「給料は上乗せするから」

そう言うとすぐに俺からシズちゃんを奪ってテキパキ仕事をこなす辺り、うん、助手としてはいいんじゃないかな。
シズちゃんの方も耳を掴まれていたからか、どこかボーっとしていて、波江さんの好きなようにさせられているよう。
服ができるまで仕事でもしていようかな、と思って携帯片手にパソコンの前に座った。
仕事、というか趣味の合間、シズちゃんの様子を窺ってみると、どうやら大人しく採寸されているところらしく。
……全裸だし。波江さんには見せて俺には見せないって……。
自分の日頃の行いを心から後悔した瞬間だった。

「今日中に作ればいいのね」
「…うん、よろしく」

いきなり液晶画面の前にシズちゃんが現れたかと思うと、頭上から声が降ってきた。
タオルを巻き付けたシズちゃんを受け取って軽く返事をすると、彼女はまた仕事へと戻っていく。
とりあえず服は作ってくれるようだ。その事実に安堵して、拳の中にいるシズちゃんを見た。
シズちゃんは何故か眠っているようで、静かに寝息を立てている。
黙ってれば可愛いのに。
耳に小さくキスをして、寝室に行き、俺のベッドに寝かせた。

「おやすみ、シズちゃん」

起きてもいない相手に手を振って、俺は静かに扉を閉めた。



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