ある死んだ男の話



ディエゴが死んで(表向きには行方不明になって)から、早くも1ヵ月が経とうとしていた。




居間のよく目に付くところに飾っている写真立てに、そっと指先で触れる。彼が何処に住み、どんな生活をしていたのかすら知らない私に残されたのは、この写真1枚と、彼の馬だけだった。

レース中に私と2人で撮った写真。私が何度もお願いして、やっと一緒に撮ってもらったものだ。私がどうお願いしたのかは自分でもよく覚えていない。私の隣で渋々、仕方がなく、という内心をありありと感じさせる表情をしている彼に、小さく笑いが漏れた。

この時は彼が死ぬだなんて微塵も考えていなかった。彼は強かったのだ。人間というものは案外丈夫に作られているが、其の実あっけなく死んでしまう。それを忘れてしまうくらいには…。

ふと外に目をやると、緑の大地に2頭の馬が戯れているのが目に映った。駆け回る白と黒。…今日は随分元気だな。何か嬉しいことでもあったのだろうか。シルバー・バレットがあんなに嬉々としているのは、彼が死んでから一度も見たことがなかった。

いとも容易く私の馬とも心を通わせてみせた彼ならば、何を思っているのか一瞬で分かったのかもしれない…。


…もしあの時、私が彼を守れていれば。こんな未来も変えられたのだろうか。私のスタンドがあれば、彼を助けられたはずだ。…今更考えたってどうしようもないのだが、自分を責めずにはいられない。


「……もう、会えないのか」


彼の顔のあたりをなぞっていた指が、震えた。その時。


ガチャン!


誰もいないはずのキッチンに、食器の音が響いた。驚いてパッと振り返るが、誰の姿も見当たらない。心臓がどくどくと脈打つ。


「な、何…?」


恐る恐る近付いてみる。しかしそこにあるのは食器だけだった。一つ不思議だとすると、それが宙に浮いているということ……… …?


「は、」


……あれは何?怪奇現象 幽霊 超能力 …スタンド?敵に攻撃されている?もしくは実は見えにくい糸で吊るされているとか…何の為に?驚かす為?私にそんなことをする知り合いはいない。やっぱりスタンド攻撃か?しかしレースが終わった今、襲撃する理由はないはず。大統領は死んだ。刺客が来るはずない。ジョニィ・ジョースターとは既に和解した。スタンド攻撃ではないのか?じゃあこれは一体なんなんだ!

脳内で瞬間的に自問自答を繰り返す。しかし答えは見えない。


「なんなの、これは…」


私が混乱しているのをよそに、その皿はその場に留まって浮いている。洗い終わって自然乾燥させていた皿だ。飛んでくるのではと思ったが、そんな気配はない。……触っても大丈夫か?

勝手に落ちて割れては困るので、皿の下に両手をやる。すると、浮いていたのは嘘だと言うかのようにストンと落ちてきた。触れた瞬間に電気でも走るかと警戒していたが、そんなこともない。何の変哲もない普通の皿だ。少しも浮力は感じられない。

…白昼夢でも見ていたのだろうか。


あれこれ考えながら食器棚に仕舞う。誰の仕業でもないとすると、私はそろそろ病院に行った方がいいのかも…。もちろん、そんなお金はないから行かない。







その日を境にして、よく分からない不思議現象が度々起きるようになった。シルバー・バレットが知らぬ間に馬具を身に付けて走っていたり、突然蓄音機が鳴り出したり、読んだ覚えのない本が机に置いてあったり…。思い出したらキリがない。私の家にイタズラ好きな妖精でも住み着いたのだろうか?まだ面倒な事は起きていないので、深く気にしないようにはしている。しかし目に見えないとどうしても不安になるもので、何も起きていなくてもつい周りを見回してしまう。

…頭に乗せると妖精が見えるという四葉のクローバー、試してみようか。栞にしようと思っていたものが本に挟んであるはずだ。摘んだばかりでなくても効果があるのかは、試してみないと分からない。あまり詳しくは知らないから。


思い立ったところで、すぐに私室の本棚へ向かう。ただの迷信かもしれないが、試して損はない…と思う。ほんのちょっぴりの期待と共に。


「…あった」


パラパラと捲れていく頁の隙間に、すっかり色褪せてしまったクローバーを見つけた。遠い記憶を頼りに探していたが、思ったより早く見つかってよかった。…傍の机には何も挟んでいなかった本で小さな山ができている。さっそく!頭にクローバーを乗せてみよう。

白い布の間からつまみ上げ、頭にそっと乗せる。部屋を見回すとそこには…。


「………」


案の定誰もいなかった。…今この部屋にいないだけなのか、それとも効果がないのか…。分からないから、とりあえず1日乗せておこう。

葉っぱが取れないようにしつつ慎重にクローバーを髪に絡め、居間へ戻る。落としたりしないように気をつけて。

ドアを開けると、いつもの風景に違和感がひとつあった。ソファの近くに人影が見える。…誰だ?座って寛いでいるように見えるが、友人を呼んだ覚えはない。

警戒しつつ忍び寄る。こちらに背を向けているせいか、相手は私に気付いていないようだった。

あと1歩で手が届くというところで、突然その人はこちらを振り向いた。見たことのない服装だったが、その顔はとても見覚えがあるもので。


「…………ディエ、ゴ…?」


名前を呼ぶと、彼は澄んだ碧の瞳を大きくした。固まったまま、10秒、1分、1時間?時間がわからなくなったまま見つめあう。一瞬の出来事だったかもしれない。


「どうして、……あの時死んだはずじゃ…」


先に沈黙を破ったのは私だった。嬉しさや驚きが入り混じる震えた声で、小さく言葉を紡ぐ。私は確かに彼の遺体を燃やしたはずだ。触れた冷たい手の感触も、重いようで軽かった彼の身体も、決して忘れていない。あれはとてもリアルな夢だったとでもいうのだろうか。

彼には状況が把握できたのか、驚いた顔が無表情に戻る。読んでいたと思われる本をパタンと閉じるとこちらに歩み寄ってきた。


「……やはりオレの知り合いだったか」
「…え、……」
「そしてオレが見えている」
「見えている、って……ゆ、幽霊だとでも言うの?」
「ご名答!その通りさ」
「……ちょっと、待って…」


彼がたまに見せたおちゃらけているような表情と言葉。深い記憶の中の彼とぴったり一致した。あり得ない状況に、思わず頭を手で押さえる。仮に幽霊になったというのを信じるとして…彼、もしかして私のことを覚えていないのか…?


「…これは?」
「え、な、何?……あっそれはッ!」

「…あれ?」


彼が私の頭から何かを取ったかと思えば、瞬間彼の姿が掻き消えた。あるのは目の前に浮いている干からびたクローバーだけ。…嘘だろ。部屋のどこを見ても彼の姿はない。

ええとつまり、彼が見えるのはクローバーのおかげで、…消えたということは本当に幽霊なのか。そっくりさんか、そういうスタンドかもしれないと一瞬考えたけど。妖精だけじゃあなくて幽霊まで見えるようになるとは思ってもみなかった…。


「…とすると、今までの怪奇現象は全部ディエゴの仕業だったのね…」


頭にクローバーを戻すと、彼が目の前に戻ってきた。きょとんとした表情で私を見つめる。私は面倒くさくなってきたな、と小さく溜息をついた。それでも、見えない心は再会した喜びに溺れてゆく。






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