その日の彼は最高の気分で花を買って、最上の気分で恋人の細い腰を引き寄せた。なにもかもうまくいきそうな、空気の粒子一つ一つさえ拡大して見たらハートの形をしているような、そんな冬の日だった。
けれどどうしたことか、彼の頬には華奢な指をいっぱいに開いた手形がくっきりとはりついているではないか!
「愛の日なんてクソ食らえッ!」
花束を振り乱しながら、フられ猫のご帰還だ。
勢い良く開け放たれた扉に視線は集中し、飼い主たちはてんでバラバラに、それでも目的は一つとばかりに彼の傷口を抉る。
「ハンッ! またピンクヘアのあの娘か? コリねぇなァ」
扉の真横で就寝前の――彼は先ほど仕事を終えたばかりだった。――スコッチを舐めていたプロシュートは、鼻先でせせら笑う。そしてロゼットの肩を抱いて、腫れた頬にその形良い唇を寄せた。
「ったく、お前をフるなんて見る目ない女に惚れちまったな。しょうがねえヤツめ」
次いでホルマジオが。カウンターにもたれ掛かりながら言う。投げキスを一つ飛ばせば、逆の頬をも殴られたかのようにロゼットの顔は歪んだ。「2月14日のイタリアーノが、ンな顔するもんじゃあないぜ」ともう一人の金髪、メローネは喉をぐるぐるといわせる。どれもこれも意地悪くひずめられていたが、それが彼なりの愛情表現と、ちょっとした独占欲の発露だった。
2月14日は
Festa degli innamorati。恋人同士が愛を確かめ合う日。というのが、ここイタリアでの通説だ。不特定多数の『恋人』を持つロゼットも例外ではなく、彼にしては早くからめかし込んで意気揚々とアジトを出て行った。今はそれから一時間も経っていない。
「『オニーチャン』たち、ちょっと冷たいんじゃあねえの? オレってばかァなァり、傷ついてんだぜ。付け入る隙はここしかねえかもよ?」
受け取り主を失った赤い薔薇をプロシュートに押し付けて、ロゼットは上目遣い気味に彼を見る。鋭い目つきの所為で、どう見ても眼を付けているようにしか見えない。プロシュートはその可愛げのない可愛らしい甘え方に、もう一度鼻を鳴らす。
「ハイハイ。にゃんにゃんはほっぺがいたいいたいでちゅかー?」
「ぶっ殺した。三度アンタはオレの脳内で死んだ」
ロゼットは冷えきった低い声――彼が声変わりした時のメンバーの一喜一憂は、酷く喜劇じみていたことを報告する。――で呟く。
そして馬鹿にしながら喉元をくすぐった兄貴分を突き飛ばし、どっかりとソファに腰を下ろした。何もかもが面白くない。デート相手から降り注いだ突然の平手打ちと、浮かれた恋人たちが蔓延る街並は思い出すだけで腹が立ったし、やけに暖房の効いたこの部屋、『同僚』たちの生ぬるい視線、「おいおい、今回は随分マジじゃあねえか」「イかれちまってる横顔もソソるぜ」「まだまだお子様、だな」飛び交う揶揄、なにもかもがロゼットの気を逆立たせてしょうがなかった。苛立ちを隠すことなく、猫は自身の銀髪をかき乱す。
「あ゛ーッ、もうだっせぇ! 女一人にフラレたくらいで、このオレ、が……?」
ふわりと香る、甘い香り。
顔を上げれば、常の無表情ながらどこか心配気な光を瞳に灯すリゾットが立っていた。その手に持つマグカップが、香りの元だ。
「……冷えただろう」
ロゼットは複雑そうに顔を歪め、眉を寄せたまま笑顔を作った。
「リーダーったら、癒しキャラ」
カップを受け取り、リゾットの頭を引き寄せて感謝のキスをする。彼とて、他のメンバー達がただからかっているだけではないことくらい分かっていた。どうしたって甘えきっているのだろう。十六にもなって恥ずかしいねェ、とカップに口をつける。広がる、香ばしいカカオの味わい。
「またココアかよ! アンタそればっかだな!」
ああ、愛すべき我らがリゾット・ネエロ!
ギャハハハとプロシュートの豪快な笑い声が響いた。その笑い上戸の背をホルマジオが叩く音。ロゼットの真横で寝転がるメローネはクッションに顔を突っ伏している。
「嫌いになったのか?」
「苦手なんだよ甘いもん! こないだ言ったばっかじゃねーか!」
こないだ――、つい一昨日の話だ。
悪魔から太陽に頭が変わったパッショーネ、最近では胸くそ悪い仕事は減ったが血なまぐささは未だ健在だ。それでも太陽は照っているから。ドブネズミはドブネズミなりに、相応の収入を貰って職務を全うしている。その日もロゼットはソルベとジェラートと「『穏健派』として。『穏便』に、先日発見された麻薬ルートを解散させてほしい」という命を受けた。受けて、潰して、帰り道だ。
はじめはきちんとした話し合いだったのだ。しかし――ジョルノがトップに就任して二年、彼は実によくやっている。莫大な人数の海千山千の翁からチンピラまで、彼のやり方に反発するものはあれど『反逆の狼煙』を上げるものはいない。それは的確に配下達の心を把握しているからに他ならないだろう。いまだうら若き青年だというのに恐ろしい話だ。しかし今回は、少しばかり人選を間違えた。話術に長けたジェラートとロゼットを向かわせたのはあながち間違いではないが、『解散』が『叩き潰す』のアナグラムであるなら、ジョルノという男はまさに適任を放ったのだ。
『交渉』はあっという間に『殺戮』に変わった。ソルベに拳銃を向けた男を、ジェラートが目にも留まらぬ速さで仕留めたのが開幕だった。
「これを狙ってたんだとしたら
アイツは君子の皮を被った策士だけど……狙ってなかったらどうすんだよ!」
「あいつらが悪いんだぜ! なァ、ソルベー」
「ああ……腹減らねえか、ジェラート」
「ロゼット、あそこのバールのシャッターをぶっ壊してこい」
「おかしいだろ!」
「おかしいのは空腹のソルベがここに居るっていうのにノンキに店を休んでるあいつらだろうが!」
「バーカ! アンタバカだ、マキシマバーカ!」
お前がやらないなら俺が、と今にも店を襲撃しようとするジェラートを、ロゼットは後ろから羽交い締めにした。普段はネジは外れていながらも頼りになるジェラートだが、ソルベのこととなるとてんで駄目だ。アクセルを力一杯踏んだ軍用戦車と言ったところか。更に難儀なのは、唯一指揮をとれるソルベが、
「そうだな。おれは、ジェラートが食いてえ」
この調子であること。
「やだもうソルベったら。アジトまで我慢できねえって? 仕方ねーなぁ」
「やだもう疲れた、もうこいつらやだ、ホントやだ……オレってばこういう役回りだっけェ? もっとこう自由でさあ、クールでゴージャスな感じの――」
「うるせえッ! メローネ、お前本気で黙ってくれ! 頼むから黙れ!」
ロゼットは深い溜息をついた。
疲れた体で、町中でも気にせず引っ付く同性愛者供を引き連れて――更には向かいから聞き慣れた声が、罵声が飛んでくるのだ。幸せが逃げようとも眉間に皺が寄るのを誰が責められるだろうか。
「だからさァ、好きなんだろあんた。好きなら好きって素直に言えばいい」
「好きじゃあねえ」
「すごい見てたじゃあないか。ああいうの、好きなんだろ」
「何度言えば分かるんだァ、てめーはよォ……ッ!」
「だから――」
「一体、何を照れてるっていうんだ」
「照れてねーって、好きじゃねーって……」
「照れてるっていう事実の方が、オレは恥ずかしいと思うぜ」
今にもスタンドを発動してしまいそうなギアッチョと、からかいさえ含まず本当に不思議そうに真顔で質問を投げ続けるメローネ。ソルベとジェラートは変わらず、愛を囁き合い、
「ああ好きだよ! 悪ィかよ! オレは猫の形のチョコに見蕩れてましたーッ! これで満足かドちんぽ野郎ッ!」
「ベネ、ギアッチョ! オレはあんたのそういうとこがすげえ好きなんだ! あ、ロゼット! 聞いたか? ちゃんと今の告白を!」
「話しかけるなァーーー」
ロゼットは涙を振り絞るように声を吐き出し、うんざりと頭を抱えた
集ってしまった暴走組。アジトまでは、あと一キロメートル。
「ジェラート、民間人に威嚇すんなッ! すまねえなちびっ子……ああもうソルベ、アンタはもう一言も話すな息もするな! メローネ、ギアッチョをいじって遊ぶのはやめろ! ギアッチョも一々反応すんじゃあ、あ、まじで息止めてんなよソルベ、ジェラートも止めろよ。こっち睨んでるだけじゃなくて止めろよ! 違う、ソルベ、息じゃあねえッ! メローネ! ギアッチョじゃなくてオレでもダメだ! 頭に花を刺すな! ギアッチョも対抗するんじゃあねェッ! ちょ、お前、ジェラーーートッ!!」
そして帰宅した彼を待っていたのが、今日と同じくリゾットが手付から差し出したココア。「リーダァ……オレさァ、甘いもん苦手なのよね……」そういった声はこの上なく疲弊しきっていたし、次の日、猫は一日ふて寝を決め込んだ。
「――思い出したか?」
「それは、すまなかった」
上着を脱ぎながら、ロゼットは滔々と語った。前半どころか八割は今回の件に関係ないのだけれど、それにつっこむ者は誰もいなかった。
そんな八つ当たりにも似た説明に、目を伏せるリゾット。あまりにも申し訳なさそうにそうするものだから、湧き上がった怒気も拍子抜けしてしまう。
「……いいんだよ、アンタに罪はねえ」
胸に抱え込んだ彼の頭をかき回すように撫でて、ロゼットは深く深く息を吐いた。誰も彼も性格に問題はないのだ。人格に多大な問題があるだけだ。そう、猫は年に不似合いな表情で達観した。
「誰に罪があるんだろうなァ」とはメローネ。
「……」
ロゼットはここで暮らしていると、自分はもしかしたら普通の人間なのではないかという錯覚に何度も陥る。
「終わった」
「一応、上場っす。――あれ? ロゼット、今日はトリッシュとデートじゃあなかったのか?」
ロゼットがリゾットから腕を離し、メローネの頬を引っ張っていると、立てかけられた全身鏡の中からイルーゾォとペッシが帰ってきた。年上の友人の発言に、少年の顔は再び苦々しく歪む。やらかしたと口を引き締めるペッシの肩を、イルーゾォはぽんと叩いた。
「知らねーよ。待ち合わせして、幹部様に渡すプレゼントを探してたら……いつも世話になってる礼っつってたけど、くそ、なんでオレが恋敵への贈り物を選ばなくっちゃあなんねえんだよ! ……そしたらいきなり、『チョコは好きか』って聞かれたから、そんなもんよりお前の唇が欲しいって顔近づけたら引っ叩かれた。オレが悪いのかよ、なァ! おい、ペッシ! 聞け!」
「ほとんど絡み酒だな」
「メローネ、またひっかかれるぞ。それにしても、チョコ?」
話を聞きながらも煙草をふかしていたホルマジオは、卓に置かれたバーチを見やる。今日という日が近くなると、街中どこででも見られる占い入りのチョコレートだ。案外キスしてくれって意味だったりしてな。ホルマジオの脳裏に甘ったるい発想が浮かぶ。けれど浮かべただけで、口にはしないでおいた。あまり面白い結果にはならなそうだからだ。代わりに、ふうと紫煙だけを吐いた。
イルーゾォはコートを掛けながら、そんなホルマジオの横顔とバーチを見比べ、
「その娘って、アジア系だっけか」
「元ボスの娘の名前くらい覚えておけよ。生粋のイタリアーナだよ」
「確か、ボスは半分アジアとか言ってなかったか?」
「ジョルノ? えっとな、ジャポーネって言ってたぜ」
「ああ……ボスとは知り合いなんだっけ。それでか」
合点がいったように頷き、イルーゾォは意地悪く口角を歪めた。「それがなんだっつーんだよ」と睨むロゼットを見つめ返して、その笑みは更に深いものになる。
「教えて欲しいかァ?」
まったくもってこのチームは、本気に誰も彼もイイ性格をしている。
「……教えてクダサイ、イルーゾォさん……ッ!」
「ははっ! いい様だぜ。しょうがねえから教えてやる。感謝しろよな」
曰く、彼の国ジャポーネでは、2月14日というのは『好きな相手』に『チョコレート』を渡して『愛の告白』をする日らしい。
「あ、それならおれも見たことあるぜ! この間、兄貴と見てたTVでやってた。な、兄貴ッ!」
「そうだったか? まあ、そういうことだとしたら――」
「やっちまったね、ロゼット」
「アッハ……マジかよ」
知らなかったとは言え、乙女になんたる所業。純情を踏み躙ったも同然だ。大袈裟に言えば――イタリアーノとして絶対に許されない行いだろう。
ロゼットは顔をすっと青ざめさせ、乱れた髪を梳く。それから脱いだばかりの上着に袖を通した。マグカップをリーダーに押し付けて、慌ただしく扉に手を伸ばす。
「お、謝りに行くのか? 花束、返してやろうか」
「いいよ、ボロボロじゃあねえか。買い直す。それに、次のヤツは、」
薔薇は嫌いなんだ
錯覚は錯覚。リゾットチームのストッパー、それでもやっぱりリゾットチーム。
「次? 謝りに行かねえのか? 本気なんだろ? 本気で馬鹿なのか?」
さしものプロシュートも呆れ、イルーゾォはあまりのロゼットらしさに珍しく楽しそうに笑った。リゾットは飲みかけのココアをどうするか悩み、メローネはそれに手を伸ばした。ペッシは年下の友達の行動力を一周して尊敬したし、ホルマジオは今度こそ逆の頬にも手形をはりつけて帰ってくるロゼットの為に赤ワインを冷やしておくことにした。
ギアッチョとソルベとジェラートはストッパーがいないので――別の場所で惨状を作りだしていた。