猫背をなぞる、よく整えられた四角い爪。
「だからよォ、ここにばーって花とか悪魔とかどうだ?」
「……くどい柄って飽きンじゃん」
「お前はちまちまちまちま。トライバルだのとかばっかりでよォ」
やるならどんと行けよ! そんな声と同時に、男の拳が猫の背骨をくすぐる。
拳はすぐに開かれ、撫でるように擦り下ろされ、今度はまだ成長しきらない柳腰に両手がかかった。
男、プロシュートの殺風景なプライベートルームで、一際場所をとるキングサイズベッド。そこに仰向けで寝転がる彼は、目の前でレシピ集を読む猫、ロゼットにじゃれついている。いつもは人を威嚇するように開かれた瞳は半眼で口元には乾いたよだれ、寝乱れた髪と服は『外』でのプロシュートしか知らない人間にはそれなりの衝撃を与えるだろう。
「ここに羽とか。あ! イイだろソレ!」
彼は起きたばかりでうまく動かない舌を赴くまま動かす。
「はァ〜?」
「黒、いや、蜥蜴みてーなコバルトブルー」
「プロシュート……そんなに挿れてェなら自分にヤれよ」
むき出しの背を撫でられたまま、ロゼットはちらりと兄貴分へ視線をやり、それから大きく欠伸をした。
「ばぁか」
しかし煩わしそうな目さえ気にも止めず、プロシュートは気だるげに唸り、上体を起こし鍛えられた筋肉が覆う靭やかな背を反らした。そして猫の首の後ろに彫られた意味のない文字配列を、舌でゆっくりとなぞる。
「だから、おめーはミーチョなんだぜ」
「それヤメろ」
「ンなことしたら、堅気に紛れにくくて仕方ねーじゃあねえか」
それから反抗期の猫に、躾だとその薄い皮膚に歯を立てた。
痛みとむず痒さに身じろぐロゼットに、プロシュートの目は微かにだが甘くとろける。
男は体を完全に起こして、覆い被さるように抱きつく。
「たっく、かわいいにゃんにゃんだなァおい」
声は普段通りぶっきらぼうだが、後ろからロゼットを抱きしめる腕は視線と同じく甘ったるく、猫はますますむず痒さに首を振る。首元をくすぐる銀髪に、プロシュートは小さく笑いをこぼした。
ロゼットの体はこのチームに入った頃と比べていくら成長したとはいえ、まだまだプロシュートの腕にすっぽりと収まるサイズだ。
「ねぼけてんの?」
「ねぼけちゃいねえよ」
「ぼけたの?」
「ぼけてねえよ」
やっぱねぼけてる、とクスクス笑う度に、ロゼットの薄い肩と目立ってきた喉仏が上下する。
イタリアでは受けの悪い白い肌。それも箱入りの猫のようで、プロシュートは気に入っていた。だからこそロゼットの肌を蹂躙するように広がる蔦にも似た刺青を、少しだけ忌々しく思う。
「ぼけてんのはてめーだろ。アホみてぇに……親からもらった体なんだから、大事にしろよ」
「ノンノォ、昼ごはんならもう食べただろ〜〜」
柔らかく回されていた腕が、的確にロゼットの頸動脈を締める。
「ボケ老人扱いすんじゃあねえっての」
プロシュートの表情には笑みが浮かんでいたが、遠慮なしに首を締められているロゼットはたまったものではない。目を見開いて、己に巻き付く腕をペチペチと力なく叩いた。
血の気が引いて更に白くなった頬に満足気に唇を落として、男は猫を開放する。
「……だっ、てっ、アンタ、言ってること、支離、滅裂、だぜ。……大柄入れろって言ったり、入れんなって言ったり」
荒く息をして懸命に肺に酸素を送り込む姿は、生殖行為最中のものによく似ている。
「結局、どっちなワケ?」
ロゼットは父のようであり、兄のようであり、飼い主のようであり、また何人もいる恋人のようなものの一人である男の顔を、切れ長の三白眼で見上げるように睨みつけた。
「べ、つ、に。てめーの体なんだから好きにしろよ」
「ほらまた」
そして鼻先でせせら笑うプロシュートから目をそらさないまま、「テキトウだな」と唇だけで笑う。
生意気で高慢な表情。愛されていると疑わない傲慢な視線。
「ホルマジオは、なんか言わねえの? あいつこういうのウルサイだろ」
「アンタみたいに、思い出したように文句言ってきたりはしねえよ」
それが憎らしくも愛しくて、プロシュートは額をロゼットの肩に重ねた。
「刺青、どうしてこんなに入れんだよ」
「顔が潰されても、腕一本足一本でも、オレだって分かるだろ?」
プロシュートの夢には、いつでも生者は存在しない。
登場するのは様々な意匠の施された死体。犬の餌に混じる死体。ぶつ切りにされた死体。埋められ、捨てられ、沈められる死体。
それらの大半は自分が殺した相手の顔や、自分の顔――それから、『家族』の顔をしている。
「猫にあるまじきだな。あいつらって死ぬ直前にどっか行っちまうんだぜ」
「オレ、猫じゃないし」
「大体顔潰すくらいなら皮膚ドロドロに溶かしたり燃やし尽くしたり……それくらいの覚悟しておけよ」
「フハ、違いねえな」
今では別段嫌な夢とも悪夢とも思わなくなってきた。弊害といえば、何日か仕事がない日が続くと、いざ仕事となっても久しぶりに見る本当に赤い血が思うよりも色鮮やかで驚くことくらいだ。実際に流れる血は赤より暗く、真紅より赤い。脳の記憶というのは曖昧だ。
モノクロに無意識に色をつけた、死体まみれの喜劇。
「ま、それでも分かるけどな。ロゼット、オレ達はお前を、間違えない」
暗殺者は幸福を夢に見ない。
「……口説かれてる?」
「口説いてねえ」
「ねぼけてる?」
「……かもな」
FIN