名前を聞くだけの話

「おかえり、プロシュート」

 バスルームから出てきた子供はそう言って、鋭い目付きを和らげた。頬から鎖骨を伝う水滴。
 シャンプーとボディソープ、幼さ特有のよくわからん匂い。それと血の鈍い香りが、太陽がギラつく外と大差ないほど暑苦しい空気に混じる。否でも、自分からする硝煙の匂いが鼻についた。

「もう仕事に行ったのか?」

 上着を脱ぎながら尋ねれば、こくりと頷く。
 今まで『ターゲット』としてでしか関わらなかった生き物が、帰る場所にいる。妙な気分だ。そう言えば、こいつの名前さえおれは知らない。

「リゾットと一緒に」

 横を歩く、濡れた銀の髪。おれの目線より大分低い位置にあるそれは、よく手入れされた刃のよう。
 足を止めずに、おれと子供は会話を続ける。

「やつは?」
「報告書出しに行った。あんたも仕事帰り?」
「見ればわかるだろ」
「わかんねえ」

 服とか綺麗だし、と子供は屈託なく笑った。
 ガラス張りの扉を開く。篭った熱気に、今年こそクーラーの取り入れを考えるべきだと思う。

「前もこんなこと言った気がする。誰にだっけな」

 おれはそれ以上会話を続けることはしないで、冷蔵庫からエールを取り出した。一気に流しこめば、真っ青な空に持って行かれていった水分が戻ってくる。

「なあプロシュート」
「マンモーニ。髪はちゃんと拭けよ。それとも自分じゃあ出来ねえか?」

 汗にべたつくシャツを脱いで、ソファに寝転んだ子供の横に腰を落ち着ける。

「出来ないかも」

 少しだけ眠たそうな声音。要領を得ない発音は、たしかに子猫の鳴き声に似ている。子供はとろとろと体を起こすと、首に巻いていたタオルをこちらに投げた。

「頼むよ、ムッティ」

 このおれに、拭けって言うのか……?
 じろりと睨んでも、なんて事のないように目を合わせてくる。白目部分は、仄青いほど濁りない。

「ドイツ語圏なんだな」
「癖」
「ハン」

 鼻で笑うおれの膝の上に、子供は頭をのせた。濡れるスラックス。

「はやくー」
「つめてェ。甘えるんじゃねーよ」

 口ではそう言いながらも、どこか満更じゃあない。
 適当な手付きで、髪の水分を取ってやる。くすぐったそうな声がむずがゆい。

「なんだかんだ面倒見いいよね」

 あんたらって。
 それはきっと償い。それはきっと、似たような境遇の人間への同情。下らない仲間意識。きっと――気まぐれ。

「癖みたいなもんだ」
「そっか」

 もう一度、子供が笑った。    
 首をのけぞると、無防備に晒される白い顎元。これを折るのに、力なんていらない。

「お前、名前は?」

 ならもう少しの間。膝を預けているのも、悪くない。 

fine
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