ガーネットとエメラルド
息をしてはならない。
この場に充満する空気を一口でも肺に入れてしまえば、『館』の毒が全身に染み渡ってしまう。そんな風に思わせる澱みと、抗い難い蠱惑さが、この館には充満していた。
ジョルノは父親を知らない。母親が唯一所持していた写真から、姿だけは知っていたがそれだけだ。家から出る時にそれを持ち出したのは、父への感傷よりも母親への最後の抵抗という気持ちの方が大きかった。
重苦しい扉が閉まると館は外光を一切取り入れなくなる。外はまだ太陽が真上に輝いていると言うのに、ここだけ夜を刳りぬいたようだ。
薄闇に目が慣れるまで、ジョルノは呼吸を抑えながら辺りを見渡した。しかし正面に階段があること以外、足元の色さえまともにわからなかった。得体のしれない恐怖には慣れたものだったが、それでも味わったことのない薄気味悪さを感じながら一歩を踏み出す。
「オペラ」
重苦しいカーテンが壁一面の窓を覆う、薄暗い書室。
DIOの呼びかけにぴくりともせず、蟻の密集したような印の配列を追う横顔は、蝋燭の揺らぐ光に照らされて情緒的に色を変えた。表紙には、『Dracula's Daughter』という文字。
小さな顎を掴み、吸血鬼は青年の顔を無理やり自身に向けさせる。
オペラの唇が、笑みに似た形をとった。
「私が呼んだら、三秒以内にこちらに来いと言ったはずだ」
ジョルノがこの『館』を訪れることになったのはほんの偶然からだった。
たまの生き抜きにと、バールでミスタとフーゴと慣れない酒を酌み交わしていた時のことだ。普段ではありえないことだが、その時は少し酔っていたのだろう。
財布から、写真が落ちた。
拾い上げたのはそこで働く二十歳程のブリュネットの女性だった。彼女は接客用の笑みを浮かべて写真をジョルノに手渡した。瞬間、女の顔から血の気が引く。
謝辞を述べたばかりのジョルノの唇が、驚愕と共に言葉を零した。
しかしそれは反射にすぎない。
低く唸るような声に、青年の薄い肩が僅かに弾む。
「忘れたのか?」
そしてようやく、オペラの瞳はDIOを映した。
「DIO。口の周り、ベタベタだよ」
そして、息を飲む。
オペラは琥珀色の目から静かに涙を流して、DIOの口をシャツの袖で拭った。ルージュ替わりの血液が刷り込まれる感触に、吸血鬼は鈍い快感を覚える。
――表情と口ぶりがまるで噛み合っていない、と。
怯える子羊の瞳に、保護者を気取る声音。
「何を泣く?」
「君が、嫌いで」
音もなく泣く人間はそう呟くと、涙を床に落とした。震える体に痛みのない上質なチェスナット・ブラウンの髪が揺れる。見据える目が、どうしてそんなことが出来るのかと問いかけてきた。
「この男を、知っているんですね」
女の話はこうだ。
バールでの仕事は帰りが遅く、普段は親しくしているキッチン担当の男に送ってもらっていたらしいのだが、その夜は次の日の仕込みだがで帰宅時間がずれてしまったらしい。
一人、ナポリの暗闇を歩く彼女の下に――それは訪れた。
うつくしい人だったそうだ。暗闇でも分かるほど赤い唇には、どんな芸術品よりも慈愛深き笑みがたたえられ、街灯の灯りを拒むような赤い赤い瞳は、人のものではありえなかった。
「貴様らが豚や牛を食うのと同じだ」
「それを家畜が、悲しまないとでも思うのか」
うつくしい人外は一言、「わたしのものになってくれないか?」。そう言って、手を差し伸べただけ。
ただそれだけで、女は彼のものになってしまった。
連れて行かれた先は、豪奢な洋館。見たこともないほど精巧に作られた女神像を一瞥する誘惑者は、彼女をそれは丁重に扱った。
通された寝室の柔らかなスプリングを感じ、そして、――そこで彼女は死んだ。殺されたはずなのだと、言った。
か細い声ながら諭すような口ぶりは、まるで王か兄のようだ。どんなに儚く見えてもこの人間は力に屈さない。
あまりにも馬鹿げた話だと笑い飛ばすには、ジョルノにとって『父親』というのは特別な存在だった。正しくは、今のジョルノにとって。
ようやく目が慣れはじめた彼は、手探りで階段の手摺を掴む。
「ここは、どこなんだ」
抑えた吐息と微かな声が時の止まった空間を震わせた。
いくら一蹴で済ませられなくとも、わざわざ自分が出向くつもりもなかった。しかし、彼は気付けば『館』にたどり着いていたのだ。
一歩一歩と階段をのぼる度に、ジョルノのいまだ子どもめいた薄く透き通った皮膚から、毒が染みこんでいく。この館の毒は遅効性で、酷く甘い。
「その思想も含めて、貴様は私のものなんだよ。オペラ」
どれだけ登ったのかわからないが、ようやく平らな場所にたどり着く。暗く果てが見えない長い廊下と、並ぶいくつもの扉。
その一つから、微かな灯りが漏れていた。
雨に濡れた百合の花弁のように白く冷たい頬を、吸血鬼が撫でる。
ジョルノは物音を殺しながらも、堂々たる足取りでそこへ向かう。
手つきは優しいが、結局はそれも壊れやすい玩具を扱うからこそだ。
「俺は、一欠片も君を好きになれない」
真鍮のドアノブに手を掛ける。それは、ひっそりと冷たい。
オペラは甘い色の瞳を、微かに歪めた。頬に重ねた手のひらに爪を突き立てられる。
食い込んだそれは、DIOの脳に感じ無いはずの情緒過多な痛みを伝えた。
「それでもわたしは――」
きぃと、音を立てて扉が開く。
薄暗い部屋で真っ先にジョルノの目に飛び込んできたのは、輝ける金色の髪。
何かを乞うように青年を抱きしめる吸血鬼の姿は、まるで出来の悪い電影のよう。
「あなたは誰も、殺してなんかいやしないじゃないですか」
幻の神は薄く笑って、来訪者の元へと近づく。そして彼の腹を、腕で貫いた。
誰も殺せやしないのに滑稽な話だ。
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