現の夢として待つ。

 一方、青年はもう少し現実的であった。
 誰かの読みさしであった洋書を捲りながら、己と軟禁者の言動を振り返る。まずは「『死』は本物だが、『死体』は幻だ」という吸血鬼の言葉だ。深い意味はないと言ってしまえばそれまでだが、言葉遊びにしては少しばかり趣味が悪い。『死』というワードから誘発されるのは、網膜に焼き付けられた死体。オペラは身震いをした。

「一体、なんだって言うんだ……」

 思い出すだけで体液という体液が凍てつく。
 抵抗なく倒れこむ音と震える空気。記憶の糸を辿る気がなくともあの一瞬は、映画のワンシーンの如く狂ったように頭で繰り返し繰り返し、映し出された。
 あれは、決して人が見てはいけないものだ。踏み入れてはならない領域だ。青年はそう、本能的に感じとっていた。
 額に手を当てて、落ち着こうと深く息を吐く。部屋の倦むような空気は肺へと吸い込まれ、毒のようにオペラの体に馴染んでいく。
 悲しいことに時間はいくらでもある。一つ一つ、整理していくべきだろう。考えるべきことも、いくらでもあるのだから。
 説明されることなく、ここの主を自分が『吸血鬼』と呼んだこと。その吸血鬼がこちらの喉に触れた瞬間まで、確かに殺意を持たれていたこと。殺意に呼応するように己を抱きしめた白い何かのこと。その御蔭で生きている今も、いつ殺されてもおかしくないこと。そもそも、なぜ自分が『ここ』にいるのかということ。
 並べるあげるだけで頭が痛んだ。しかしそれも長くは続かない。書痴寸前の青年は、手慰みに捲っていた物語に引き寄せられてしまったのだ。逃避と言ってしまえば簡単だ。けれど、彼の書架への執着はそんな生やさしいものではない。愛撫するように文字列を追う視線は、どんな人間に向けるものよりも甘い。

「オペラ様。あの方が、お呼びです。ご加減はいかがですか」

 忠実なる執事が声を掛けるまで、彼は部屋中の文字という文字を読み漁っていた。

「活字不足で倒れそうだよ。ああ、ここにあるものはソープの裏から花束の包みのペーパーバックまで読んでしまったから。空んじてみようか?」

 否、読み終えて、いた。一度火がついてしまった欲望は一冊で消えるはずもない。この館で時間の単位は酷く曖昧で確実性に掛けるが、三時間も経っていないはずだ。それでもベッドの上は青年の言葉通り、隣接する浴室から持ってきた石鹸や古新聞、どこから見つけてきたのか電子機器のカタログなどが広げられていた。
 退屈そうに太ももの上で頬杖をついたオペラは、随分と子供じみた表情をしていて、テレンスはもう一度驚かされることになった。先程までの落ち着き払った姿と、まるで真反対だ。

「……ご自分で、それをお伝えすればよろしいかと。あの方なら、どうとでもなりとも、してくださいますよ」
「……そう。それじゃあ、行こうか」

 やけにあっさりと立ち上がる。余程暇を持て余していたのだろう。
 青年を囚えるのには、鎖も甘い囁きも必要ない。ただ、山ほどの書物を。そう進言してみせようか。テレンスはそう考える自分が可笑しくなった。しかしきっと、効果は絶大なはずだ。

「ご案内いたします」

 薄暗い回廊。主の待つ食堂までの道は長い。はじめこそ黙ったまま横をついてきていたオペラも、中程まで来たところで口を開いた。

「テレンス、くん、だよね」
「ええ。名乗るのが遅れましたが、私、テレンス・D・ダービーと申します。オペラ様で、よろしかったですか」
「呼び捨てでいいよ。様なんて、柄じゃあない」
「大切な訪客ですので」

 堅苦しく突き放すような口調も年下扱いするような口ぶりも、二人は互いに気を害した様子もなく、世間話は続く。

「君は彼に仕えて長いのか?」
「どうでしたか……もう長い間のような、昨晩のことのような」
「それって、どういう意味?」

 言葉通りでございます。テレンスはそうとだけ言って、重苦しい扉を開いた。

「友人よ。よく眠れたか?」

 食卓と呼ぶのも憚られる二十人はゆうに座ることの出来る机を、オペラはまるで最後の晩餐のようだなと思う。白いテーブルクロスにはシミもシワもひとつとしてなく、余すところなく乗せられた食事は目も眩むほど豪盛だ。
 しかし吸血鬼の目の前にはフォークやナイフはなく、ワイングラスの中に赤い液体が揺れているだけだった。
 もしかして、これは俺一人で食べるのか?口を付ける前からオペラの胃は膨れ上がる。

「君、本当に寝てたの?」

 DIOの丁度向かい側、一番遠くの席に腰を下ろして青年は言った。

「夢の中のきみは、中々可愛らしかったぞ」
「怖いことを言うね、とんだ悪夢だ。俺は、退屈でしょうがなかったよ」
「なにがお好きだ? 今あるものはビリヤードと、チェスと……そうだな、」

 距離はあるといっても、この館はどこもおぞましい程の静寂に包まれている。声は張り上げずとも互いに届き、会話はそつなく交わされいく。

「ああそうだ、口にはあったか?」

 ハーブをふんだんに使ったソースの掛かった酒蒸しにされたオマール海老を飲み込み、オペラは口元をナプキンで拭う。

「とても美味しいよ。……量を、考えなければ」
「テレビゲームでよろしければ私がお相手いたしますよ。ですがオペラ様には、それよりお好きなものがあるようです」

 いつの間にか執事は給仕の真似事をしていて、オペラの前に置かれたグラスにも真紅のワインを注いだ。自分があまりアルコールに強い質ではないことを知っていった青年は、一舐めして、それからはグラスに手をつけなかった。

「随分と仲睦まじいようだな。言ってみろ」

 吸血鬼は鼻先でふと笑って水を向ける。

「……本。この際、パソコンのマニュアル本でも出来る男の話し方とかでもいいよ」

 返される答えに、DIOはまたおかしそうに笑った。

「生憎、そういうものはない。望むのなら取り寄せよう」
「別に、それが読みたいわけじゃ、」
「ただし、ただの小説でいいのなら、オペラ、きみを飽きさせないだけの蔵書があると約束するがな」

 妄言やハッタリでは、あり得ないだろう。青年の瞳に、静かな火が灯る。

「まずは食事だ。終えたら、向かうことにしよう」
「楽しみに、してていいの?」
「勿論だ」

 それを聞いた途端、青年の表情がにわかに精彩を増す。
 膨大でどれも希少な書籍ばかりが所狭しと並べられた書斎に、オペラが囚えられるまであと少し。
 ――文字が詰め込まれた場所特有のひんやりした空気には埃と古びたインクの香りが染みこみ、金飾りの施された飴色の書架は天井近くまで伸びている。これまた設えのよさそうな脚立と、どれだけ腰を落ち着かせても心地良さそうな長椅子。壁一面の窓からは満点の星空が。灯りは手持ちのランプで十分。なにより、一生を賭しても読み切れないほどの蔵書の数々。一介の学生が喉から手が出るほど欲しがっても手に入るのはずのない、絶版本やそもそも文庫本にすらなっていない文学雑誌。『真夏の夜の夢』の原本。活版印刷の『ファウスト』。そこは、読書家ならば一度は夢見た楽園。
 執事の読みは当たり、吸血鬼は満足そうに笑った。 
 書斎に迎え入れた瞬間、オペラは満面の笑みでこう言った。「ありがとう、DIO」。ありがとう。言うことにおいてこれだ。このシーンだけを刳り貫けば相応なのだろうが、全体で見れば、どう考えても己の自由を剥奪した相手に向ける言葉と表情ではない。それでも、この館の外にここ以上に彼を喜ばせるものは少ないのだろう。奇しくも青年の『美女と野獣』の喩えは的を射ていたようだ。野獣の心からの贈り物と、吸血鬼の戯れは、大分意味が異なるのだが――。

「好きに寛いでくれて構わない。きみの部屋だと思ってくれ。ただ、これでもまだ……帰りたいと言うのかい?」

 かくして、青年はここをひとまずの住処とした。
 正気とは思えない選択だ。死への恐怖をも上回る愛と欲。――吸血鬼の手を取れなかった理由は、やはり狂気だったのだろうか。
 
「勿論、帰りたいよ。帰してくれる?」

 そう言いながらもオペラの瞳は恋の熱に浮かされ、愛しいものから逸らされない。逸らせない。逃れ、られない。
[ 5/37 ]
[*prev] [next#]
[ back to top ]
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -