栄華の花弁を散らし

 差し伸べられた白い手は死神の鎌だ。
 オペラはそれを拒む狂気も、受ける勇気も持ち合わせていなかった。屈折することなく育った彼は、純粋培養とは言えずとも、『激動』や『激情』とは無縁に生きてきたのだ。突然狂えと言われようが、受け入れられるものではない。しかし、もしかしたら、手を取れないことこそが、正気を失った証だったのかもしれない。
 結果、彼が選んだのは逃避だった。その先どうなろうとも、いまこの瞬間の、時の美しさを享受していたくなかった。

「おや」

 茫然自失とした体で涙を流していた青年は、立ち上がると同時に階段を走っていく。今度こそ、下り、下へ、下へ、下へ。吸血鬼は愉快そうに、くつりと笑った。

「シンデレラ、逃げないで」

 そして歌うように、空々しい言葉を紡ぐ。嗚呼、なんたることか!時の支配者には柱時計さえ従った。重苦しい振り子が揺れる。鐘は鳴ってしまった。
 届く呟きと鳴り渡る金音に、確かにこの館は童話の中のようだと、オペラは白む頭で考えた。絵本に描かれるパステルカラーのそれではなく、羊皮紙に羽根ペンが綴る残酷なセピア色の世界だ。日頃の運動不足がたたったのだろう。息は上がり、しかし中央階段はまだ半ばで、いつまでも終わらない気さえした。
 物語が、カンマの後も続くように。

(――ほら、あの神の手が伸ばされる。)

(青年よ、逃げなくては。絡め取られてしまうよ。
 人の体温や情なんかを犠牲に手に入る、めくるめく怠惰と欲望の世界に!)

(それは死の甘さよりも、よっぽど君の脳を蝕むことだろうね。)

 誰かが、誰かに、囁いた。

「そう泡食って走りだすことはないだろう、客人。ただ私は、きみと」

(今やかの帝王も、殺められるのは時と夢と、未来だけ。)

 青年の体は、いつの間にか黒檀の手摺に縫い付けられていた。『いつの間に』は、ここでは有り触れた言葉だ。
 時計は零と刹那の間に、吸血鬼、DIOだけの時を刻む。
 
「はなしがしたかった」

 逞しい両のかいなはオペラの華奢な手足でどうとすることも出来ない。青年は観念したように、吹き抜けの天井を見上げる。高くにある天窓に嵌めこまれたステンドグラスに月光は人工の色に汚されていた。晒される青年の白い喉元は浅い呼吸に何度も上下する。薄い皮膚の下に透ける青い静脈。赤い動脈管。頸動脈。
 DIOは誘われるがまま、指をそこに触れさせた。
 血糊に未だ濡れた爪は、青年の喉に沈む、筈、だった。吸血鬼は、眩しさに目をすくめる。

「人殺しと……話すことなんて、」

 拒絶。そう、拒絶だ。その光はそれを体現していると言っても過言ではないだろう。青年の震える喉からは震える声しか吐き出されない。それでも、それは確固たる拒絶だった。慈しむように、白く光り輝く骨の両羽で、彼を抱く精神体。生々しい『生の略奪』に触れて、オペラの中で眠っていた能力が目を覚ましたのだ。全てからオペラを守り、全てからオペラを遠ざけるもの。後に彼は、それを『ニルヴァーナ』と名付けた。
 己で己を抱き締める姿は滑稽で、憐れでちっぽけな命を前に、DIOは笑みを深める。

「おいで。きみは……そうだ。紅茶は好きか?」

 首に添えていた指をオペラの濡れた目元に滑らせて、それから吸血鬼は背を向けた。
 彼には確信があった。髪と同じく色の薄い理知的な眉。琥珀色の瞳には聡明さと小狡さを湛えた、愚かにも敏いこの青年は、これ以上逃げるだなんて馬鹿な真似はしないだろうと。その考えは半分は正答で、半分は的外れだった。吸血鬼に付き従って階段を登るオペラの頭には、あの人のコーヒーを無駄にしてしまったな。そんな考えてもしようのないことばかりが浮かんでいた。

 無言のまま歩みを進めて、青年が通された広間はどこまでも静謐だ。壁一面の窓は分厚いカーテンに覆われている。まるで閉幕した舞台のよう。部屋の中心には設えのよいカウチが二組、アンティークのローテーブルを挟んで置かれている。灯りはやはり蝋燭だけ。テーブルの上に置かれた燭台からは、三本の火が伸びている。壁に飾られた額縁を、その光が舐める。

「さぁ、どうぞ」

 DIOは悠然とカウチに身を預け、向かい側のそれを手で示した。勧められるがまま、オペラもそこに深く腰掛けた。すっかりと立ち直った――少なくとも常人が見たのならば。DIOは乾いた涙の代わりに滲む恐怖と嫌悪感を明確に感知していた。――様子で、真っ直ぐに吸血鬼を見据える。

「ここにたどり着くまでに息は整ったようだな。しかし、脈拍は早いし瞳孔は開き気味だ。ああ、恥じることはない、見事なポーカーフェイスだ。人間にしてはね。さて、テレンス。ご客人に紅茶を。上等なものを頼む。シュガーポットだけで構わない」

 その視線を掬い取るように目を細め、DIOは縷々とした口振りで言った。最後の一言二言は、隣の間から音もなく現れ、主の傍に立った執事に向けられたものだ。彼は胸に手を当てて、粛々と首を垂れた。
 まるで映画を見ているようだな。――青年はそう思いながら、薄朱色の唇で笑みを象る。

「ご丁寧な対応、痛みいるよ」

 それもすぐに苦笑に変わった。嘆息と共に零れた声は、DIOの声の持つ響きとは違えどいかにも耳に心地よい柔らかさと高さを保っていた。吸血鬼のそれが最上級のシルクの冷たい滑らかさなら、オペラはミルクの如き甘く優しい声音だ。みっともなく悲鳴を上げた喉と同じものとは思えない。
 「結構」。DIOは恭しく諸手を上げた。囀る鳥の歌が美しいなら、それに越したことはない。人間であることはやめようとも、彼は芸術を愛でる感性まで失ってはいなかった。

「馬鹿な質問だと笑わないでくれよ? さっきのは、『本物』?」
「さっきの、とは? 廊下にかかっていたラファエロの絵のことか。どうだったかな」
「からかうな。分かってるくせに」

 オペラは肩をすくめ、今度は困ったように笑う。「話すことはなかったんじゃあないのか」と返されてしまえば、彼に可能だったのは、笑みを消すことなく眉を悩ましげにひそめることだけ。

「君は人殺しなんかじゃない。人の振りをするのが上手い、ただの獣だ」

 それと、ちょっとした意趣返しくらいなものだ。勿論、館の主はそれを歯牙にもかけない。

「嫌われたものだな」

 運ばれてきたティーカップを受け取って、口元へ運ぶ。たったそれだけ仕草にも、気品と品格が満ちている。矜恃の裏付けがある限り、彼の微笑を剥がすことは出来ないだろう。
 オペラもまた、テーブルに置かれたカップを手に取る。口に含むと豊かな香りが彼の鼻をくすぐった。「美味しいよ」と形だけの謝辞を述べる。嗅覚は戻れど、味覚はまだ帰ってきていない。

「あまりにも、奇妙なことばかりが起きた。理解が追いつかない」
「ありのままを認めろ。きみがここに来るまでどこで誰と何をしていたのかは知らないが――先ほど目覚めた『謎の力』により死ぬことなく……今、きみはここにいる」

 そしてこれからも。DIOは足を組み直し、膝の上で両の手の指を絡めた。

「笑えないジョークだ」
「冗談のつもりはないが、きみは笑っているな」

 ははと乾いた笑い声が上がる。オペラは居住まいを崩し肘置きに頬杖をついて、こう言った。

「君がもし人間だったら、俺たちは友達になれたかもしれないね」

 視線の先は、血に汚れたカップとソーサー。
 それらを『大したことではない』、『ベジタリアンと同じだ』と割りきれてしまえば、オペラは言葉通り吸血鬼とも『友好関係』が築けたはずだ。たとえ一度殺されかけた相手だろうと――それがオペラという人間だった。

「人の振りをしているのは、貴様の方だろう」
「君って、占い師みたい。誰でも、一度くらいは思うんじゃあないかな。自分は人とは違う、他人は自分のことを分かってくれない……でもお生憎様。俺、そういうの言われ慣れてるんだよね。オペラ、あなたって冷たい人ね。オペラ、私あなたといても寂しくなるだけなの。オペラ、あなたは、誰のことも好きじゃあないのね、オペラ、あなたはやさしい人だけど、オペラ、オペラ――そういうのは、もう、たくさんだ」

 やわらかい笑みを浮かべ、ゆっくりと語る人間。吸血鬼はそれに黙って耳を傾けていた。
 オペラは話し終えると同時に、残りの紅茶を飲み干して腰を上げる。オペラは返事を必要としなかったし、DIOも返す言葉を持たなかった。

「ご馳走様。次来る時は、手土産くらい持ってくるよ」
「気にするな。これからここが君の、オペラというのが名前か? いい名前だ。オペラ。ここが君のホームだ。土産だなんて、おかしな話だろう」
「さよなら、えっと……DIO、だったかな。さよなら、ミスターヴァンパイア」

 振り返りもせず扉に向かう。しかし、件の執事が、行く手を阻む。正しくは扉の前に立っているだけなのだが、オペラの足を止めるのには十分だった。

「彼を部屋にご案内しろ」
「かしこまりました」

 続く会話は、どうしたことだろうか。誂われているのかとオペラは振り返る。案の定、DIOは楽しそうに青年を見つめていた。視線が、噛みあう。

「ちょっと待って、本気か?」
「オペラさま、どうぞこちらへ」
「待ってくれって。本当に、くどいジョークは嫌いだよ、DIO」
「君に好き嫌いがあるなんて意外だな」
「この数十分で、随分な印象を持たれてるみたいだね。……話を逸らすな」

 では逸らさずに応えよう。そう言って吸血鬼は、オペラの爪先から頭のてっぺんまで視線を這わせた。青年の背筋に、冷たいものが走る。

「『死』は本物だが、『死体』は幻だ。分かったら部屋へ行け。少しばかり、休息が必要だ。――互いにな」
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