優雅なる死の象徴は

 2001年、アメリカ某大学。季節は冬を越したばかりで、まだ抜けきらない寒気と陽だまりが混ざり合う曖昧で停滞した空気が、外と同じようにその研究室を満たしていた。水温管理を第一とするこの部屋は、暖房と言えば水槽用のヒーターだったし、換気といえばポンプの循環音であった。こぽりこぽりと酸素の気泡が浮上する音だけが鳴りわたる部屋には、二人の男がいた。
 片や大学の特別講師、片や学生。なんの不思議もない組み合わせだが、片や海洋学専門、片や日がな数式とにらめっこを繰り広げる理学生であった。いかにしてそんな二人が一つの水槽を肩を寄あい観察しているのか。問われれば、人種が同じであったと説明するしかないだろう。講師、空条承太郎はイギリスとイタリアのクオーターにして日本のハーフ。学生、オペラはイギリスと日本のハーフ。四分の三を同じ国の血とする二人は、二年前、同時期に故郷日本に戻ることになった。そこであった色々は、今回はあまり関係がないことなので割愛させていただく。
 そんなわけで、奇妙な共同生活を終えた二人は今、青いザリガニを熱心に見つめているのだ。
 しかしあと二分もすれば学生は飽きて読みかけの本を開くだろうし、それさえも教授は気にかけず観察を続けるのだろう。

「承太郎さん」

 十以上年の離れた男性に、青年は落ち着き払った穏やかな声で話しかける。承太郎は視線を移す。緑がかった黒色をした瞳は、水槽のゆらめきに色を変えた。オペラの笑みが、聡明さと野性味を湛えるその目に映り込む。

「そういえば、五号館に荷物を置いてきたんでした。ついでに購買によってくるんで、何か必要なものがあれば」
「……すまないな。悪いが、牛乳を買ってきてもらえるだろうか」
「わかりました。すぐ戻ります。コーヒー、淹れておいてもらえますか?」
「ああ」

 お願いします、そう言って、オペラはくるりと踵を返した。承太郎は部屋を出て行く背中を一瞬だけ目で追って、卓上の資料に手を伸ばした。
 黒の革靴が、磨かれたタラップを弾む。硬質の足音は控えめで、音の主の性格を表しているようだった。彼は指折り、買うべきものを整理しながら階段を下っていた。
 下って、いた。
 ふと照明が暗くなる。白熱灯の名の通り白く清廉な灯りから、刻一刻と舌に似た動きで形を変える蝋燭の灯りに。確かに地面に近づいていた筈の体は、いつの間にか上を目指していた。足音さえ、カツカツという小気味良いものから、柔らかな絨毯に沈む微かな音に変わった。

「え?」

 そして赤い絨毯の引かれた階段の先には、世界に寵愛された、悪夢のように麗しい『化け物』が立っている。
 それの腕の中の命が、今、

「そんな……」

 こと絶える。
 体を貫く指が抜き取られた瞬間、人だったものははたりと床に伏した。

「う、あ、ああああああああ!」

 絶叫。振り絞るような、悲痛な叫びが、心地良く吸血鬼の鼓膜を揺らす。
 色素の薄い瞳からは、まるで宝石のような涙が止めどなく流れ出た。見開かれた瞳と血の気のない頬。信じられないと髪を握り締める両の手はそれこそ蝋のよう白く、まるで彼こそが死に向かっているようだ。
 作り物とは思えない、嗅いだことがなくとも本能が恐怖する濃厚な死の香りが、この場には満ちていた。

「しんじ、られない……」

 喘ぐような糾弾に、赤い唇が艶かしい孤を描く。

「君は……人間じゃない……!」

 人ならざる、人であったはずの彼は死体に目もくれず、突然の来訪者の元へ優雅に降りていく。彼はたった一人でも演技をやめない。彼は、退屈と狂気に苛まれていた。
 薄闇に金の髪が靡く。永劫を生きるライオンの威厳と何百人ものの血を凝縮したような赤い瞳は、オペラの心を凍らせるのに十分過ぎるほど冷たい。

「やあ、ご客人」

 けれど声は上質な絹のように滑らかで――吸血鬼は足を止めた。――伸ばされた手は、誰もが縋り付きたくなるほど魅惑的だった。
 青年は己に降りかかった奇妙な事実よりも、目の前で艶然と笑みを浮かべる『それ』が恐ろしくて仕方がなかった。震える体を抱きしめるようにして、その場にへたりこむ。

「そう怯えることはない。歓迎しようご客人。――私の名は、」

 その時オペラを支配していたのは紛れもなく、神を冠する吸血鬼、否、吸血鬼の纏う絶対的な死の予兆だ。
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