捕食者とマニキュア これは、後ろから抱きしめられた状態での読書にも慣れてきた頃――俺がまだ、彼に少しだけでも友情を感じていた頃の話だ。
始まりは赤いエナメル質。
「……ハゲてる」
欠けた痕は三日月。
それは自然体で完璧なDIOにしては、珍しい綻びだった。微かに擽られる父性、というより保護欲に、我ながら苦笑が漏れたものだ。
「ああ……どこかの水の華が暴れるものでな」
ひらりと青白い手を翻し、DIOは目を指先から俺に向けた。仮にもオトコである俺を表すのに、花を持ち出すのは些か不適切ではないだろうか。
オブラートを破ってしまえば、不快だった。
「どっかのライオンが涎まみれにしてくるからじゃあないかな」
鍛えられた胸に身を預け、「飼育員だってたまには躾くらいするさ」と笑ってやれば、実に余裕の表情で言葉を返された。
「このDIOが、誰に飼われているというのだ?貴様、などというつまらない事を言って私を落胆させるなよ?」
間近に寄る、天使をそのまま大人にしたようにも、男になったアフロディーテとでも言える、端正な顔。金の巻き毛と薔薇の様に赤い瞳は、同性から見ても、惚れ惚れするような美しさ。
「大きな檻だよね、影って」
だからといって、俺は彼に一切好意を持てなかった。
「あまり可愛げのないことばかり言っていると、その口を塞いでしまうぞ」
意味ありげな微笑。
人間は好きだ。
大体の人間は可愛いし面白い。なにより安全だ。そりゃあ殺人をするやつだって危ない人間だって大勢いる。でもそんなの大なり小なり、どんなものでも持っている可能性だ。
「ご冗談」
ペットボトルですら人が死ねる世。
「ああ、マニキュアくらいは塗り直してあげようか?」
でもこの男は違う。弱肉強食の世界を、コンクリートと電子機器で制圧した人間の、更に上を行く。
俺が鳥を食らうように、豚を殺すように、牛を屠るように、
「失敗でもしてみろ。今度こそ、水槽で飼ってやろう」
俺は被食者で、彼は捕食者だ。
「怖いな。君が言うと洒落にならない」
それは一生揺るがない真実で、まかり間違っても道は交差しないというのに――少しだけこの関係を楽しみ始めていたのはなぜだったのだろうか。今となってはその答えは闇の中なのだけれど。
俺はそう言って、読みかけていた本を閉じ、目の前の机の引き出しを開いた。金属の擦れる音。
「ボルドー?それとも普通に赤?」
振り返らず尋ねれば、男は躊躇いなくシャンパンゴールドの小瓶を指差した。
キャップを開くと、除光液のつんとした香り。
一本一本、丁寧にマニキュアを落としていく。指先まで完全だなんて、いっそもう冗談みたいだ。
「……栄養バランスとれてるね」
言ってから後悔した。
「ふん、人間というのはそれだけは役に立つな」
こいつの食べ物なんて一つしかない。思い出す赤い惨劇に、喉の奥が焼けるように熱くなった。
否でも意識しなければいけない、圧倒的な差。もうそれはいいとか悪いとかじゃない。歴然とした、種の違いだ。
言葉を返せないまま、俺はマニキュアの蓋を開けた。
紅雪ヘムロック
「中々手慣れたものだな」
腕の中の体温。鮮やかな手際で揺れる指先は、桜の花弁を浮かべたような爪。
「妹によく塗らせてもらってたからね。……元気かな」
穏やかな時間。これを安寧と呼ぶのなら、この人間は一体なんなのだろう。
微かに陰る横顔に、首を擡げる感情に名前は付くのだろうか。