夢と所有印 鬱蒼と生い茂る広葉樹は、闇夜をつんざく月光の冴えた光を受ける。
星さえ死んでしまったような静寂なる夜。『奇妙』な館のとある一室、開け放たれた黒檀の窓枠の内、青年の白い喉元に男の牙はその星々よりも更に静々と食い込んでいった。こぼれる、小さな喘ぎ。
青年の体液を嚥下するたびに、男の喉仏はたしかに上下する。ゆったりと続けられる食事は、どこか性行為に似ていた。それでいて神聖にさえ見えるその光景を――目撃してしまったのはもう一人の『吸血鬼』。
「オペラ……ッ!」
DIOは絞り出すように青年の名を呼ぶ。
男の腕の中で、徐々に冷たくなる青年。その白い首筋を伝う血液を、吸血鬼は名残惜しそうに、冷たい舌ですくい取った。
○
「これはこのDIOのものなのだぞッッ!!」
平常では考えられないほど盛大にダイニングの床を揺らし、館の主はなんの逡巡もなく青年に抱き付いた。寝起き故に、全裸。
椅子についているその青年は、逞しい腕に力一杯抱きしめられても悲鳴一つをあげず、なんてことのないように片方の眉を持ち上げただけだった。そうして再び、穏やかな湯気をたてる朝食を口にする。さくり。
「あ、このジャム美味しいね」
「お気に召しましたか。ブルーベリーを沢山いただいたので、作ってみたのですが」
「テレンスくんが?すごいな」
「そう難しいものじゃあな」「WRYYYYYYYYY!!」
会話を遮る奇声も、この館では通常運転のBGMだ。そして「このDIOを無視するとはいい度胸だなァオペラ〜〜ッ!」と青年の頬に擦りつく姿は、いささか『帝王』とは呼びがたいなにかがあった。
しかしそれさえ配下たちにとっては見慣れたもので、淡々と続く食事。
「いつか食べる時迄、大切に取っておいていたのだ!」
ぐりぐりと、今度は青年の肩に顔を埋める。尚も執拗にスキンシップをはかるDIOにオペラは溜息をついた。
「そんなに大事なら、名前でも書いておきなよ」
なんのことかもわからずにそう呟く。きっと彼は、プリンかケーキか、もしくは憐れな生贄のことだと思っているのだろう。
DIOはその言葉に、感銘を受けたかのように目を見開いた。そうして、大仰な足取りでいそいそと部屋に戻っていく。館の執事は、せめて下着くらいつけて欲しいものだと心から願った。
「……いつにもましてDIOがうざい。そう思わない?」
「……一応上司ですので」
しばらくすると、再び足音で談笑を遮って館の主が帰ってきた。そのまま吸血鬼は、無言でオペラの手を取る。
そのなめらかな手の甲に万年筆を走らせ、流暢な手つきで己の名を刻む。しかし満足そうに彼が微笑む暇もなく、青年は目も向けずそれを拭いとった。
「あーあ、インクついちゃった」
「そう可愛くない態度ばかりとっていると、こちらの優しさにも限度があるのだぞ……」
震える厚い肩、低い唸り声。
それを無視してオペラが黒く汚れた手をひらひらとさせていると、肉厚な舌で掌をべろりと舐められる。背筋に走る衝撃。
「き、きもちわるい……」
恐る恐る振り返れば、焼きゴテを握るDIO。オペラの柔和な顔は崩れていった。彼の口が嫌そうに歪むのに比例して、DIOは笑顔を取り戻していく。
刻印は当然、ディーアイオー。
「さあ、服を脱いで背を向けろ。それとも脱がせて欲しいか?私はどちらでも構わな」「君って時々始末したくなるくらい馬鹿だよね」
忘れたの?と喜悦の表情を浮かべるDIOの頬を、オペラは指先でつついた。
硬い頬肉の感触はお気に召さなかったのか直ぐ様手を離し、ついでとばかりに席から立ち上がる。それを何度も繰り返し読んだ本をめくるように手馴れた様子で、しっかりと抱きとめる帝王。ルーティンワーク。
「ふむ、熱も駄目だったな。ではこれでどうだ?」
なめし革の首輪。誇示するように揺らす度、金具に使われている上等な金が鈍く光った。
「ペットは返事しないし君の名前も呼ばないし珈琲も淹れないからね」
「犬も躾ければ返事はするし私の名も呼ぶ。コーヒーはこのDIOが淹れてやろう。遊び相手くらいにはなるだろう?」
カチャカチャと音を立て金具を外しながら、いそいそと青年の細い首に首輪を巻きつける。
オペラは目をすくめることなく、DIOを正面から見据えた。そこには平常の穏やかな光はなく、あるのは新雪のような冷ややかさだけ。
「DIO大嫌い」
声にならない帝王の引きつった悲鳴。
「嫌い、大嫌い、触らないで、近寄らないで、人間として最高に最底辺の臭いがする」
とどめに「DIO臭い」。
「う、り……ッ!」
「あとは――。って、DIO泣いてるの?」
「な、泣いてない」
明らかに声に滲むのは涙。
オペラは目に見えてうろたえた様子で、自分より一回り以上も大きい男の頭を撫でた。
「言い過ぎた。ごめんね、言うほど臭くないよ」
「WRYYYYYY!」
ついには声を上げて泣き出す帝王。……帝王?
肩に顔をうずめてうりうり泣き出した軟禁者に、オペラは出来るだけ優しく声をかける。
「どうしたのDIO。今日はいつにもまして情緒不安定だね」
「生理?」とふざけたように笑えば、「そんなものあったら貴様の子を当に孕んでいるわ」と返される。
冗談を言っているようには到底見えない真剣な声に、オペラの肝は一瞬にして芯から冷えた。
「誤解を招きそうな発言はやめてくれよ」
「貴様が……ッ、弱いからいけないのだ……ッ!」
嗚咽混じりの言葉、置いて行けぼりなのはテレンス。いちゃつくならヨソでやってくれ、というのが彼の本心。
「弱いから……他の『吸血鬼』なんぞに……食い殺されるのだ……」
「何の話?」
「そんな、夢を見た」
DIOは顔をあげ、オペラの頬に手を重ねた。赤い瞳はより一層赤を増し、目に痛いほどだ。
夢かと呆れていたオペラも、その目を見るとなぜか辛辣な言葉も喉を通らなかった。
「……君が殺せないのに、誰が俺を殺せるの?」
DIOの手に擦り寄るように顔を傾ける。
それにしても、人の脳味噌というのは実に良くできている。死んでしまうような莫大な記憶を忘れ、自分を守るためになら時には音も遮ってしまう。更には都合のいい様に世界さえねじ曲げてしまう。
これは、人間をやめた『吸血鬼』も例外ではない。
「それは、このDIO以外には喰われる気はないということだな」
むしろ長い間棺の中で眠っていた彼のほうが、優秀なのかもしれない。
「は?」
「フハハハハ!そうか、ふむ、なかなかうい事を言うじゃあないか」
今まで泣いていたのが嘘のように、DIOの表情は再び自信と傲慢さに輝く。
「ごめんちょっと意味がわからな」
「照れるな照れるな。フハハハWRYYYYYYY!」
高い天井に反響する高笑い。助けを求めようにも、友人の執事はいつの間にかもういない。
「……幸せそうでよかったよ」
諦めたように青年は弱々しく微笑んだ。
吸血鬼は吸血鬼の夢を見るか。
「吸血鬼ってどんなのだったの?」
「ジグザクしたヘアバンドを巻いていて、前髪がチョココロネのようだった」
「へー、可愛かった?」