アリスとサド その日は、いつもよりおかしな日だった。
「君もおかしいのさ。そうでなきゃ、こんなところにくるわけがない」
そう言って、どちらかと言えば帽子屋のような笑みを浮かべるダニエルさんは、俺に一輪の花を差し出した。薔薇。ベルベットのような花びらを持つ真紅の薔薇は、この薄暗い館では精彩に欠けた。黒ずんだ赤に、つい目が竦んだ。
そんな俺を見てダニエルさんはくつりと喉の奥で笑い、こちらに背を向けた。
黒の廊下に溶けていくような後ろ姿に、掛ける言葉は見つからなかった。
「――オペラさま」
次にテレンスくんが、控えめな手つき俺の肩に触れた。振り返ると薔薇のミニブーケを手にした彼が、一瞬視線を落として、目を見開いていた。
「それ……」
「いまダニエルさんに貰ったんだ。もしかして、君も?」
「今日は……何の日でしょう」
「何の日でしょう?」
薔薇の花束を受け取って、俺は笑った。ダニエルさんに貰った剥き出しの薔薇は綺麗に棘が取られていたが、この透明なセロファンに束ねられた薔薇は、その棘を隠すことなく光を反射しては己を主張していた。
「Be my Valentine,honey」
ひそめられた声と、いつもの配慮された手つきとは違う、乱暴な扱い。壁に強かに体を押し付けられ、高い鼻先が触れるほど顔を接近させられた。
ここの人たちは、俺に何を期待しているのだろう。
テレンスくんの濁った目に映る色も理解しない俺には、どんなことを望まれても困るだけだ。甘やかしたいと思うのは、いつもなのだけれど。
「――ああ、また作るの忘れた。ここにいると日にちの感覚を無くすね」
「あの御方は、文字通り時間を殺めますから」
拗ねたこどもの様な表情。そういう顔をされると、どうしても頭を撫でたくなった。
「だから、いつも夜なんだね」
でも、手は伸ばさない。
このジンベースのカクテルを姓に持つ兄弟は、正反対の方法で『ココ』に縫いとめようとしてくる。羽もないので、押しピンを指す場所をあぐねているんだろう。
「もう、行ってもいい?」
伺うように肩に手を置くと、テレンスくんはビクリと身を震わせた。本当に、おかしな話だ。
「オペラ、さま……私は……」
恭しく身を引いて、深く頭を垂れた彼をおいて、俺は読みかけの本を取りに部屋へ戻った。
そのまま、久しぶりに植物園へ出ようと思ったのだ。寒くなってきてあまり行くことがなくなったが、その日は妙に厭な予感がした。とっくに滅びたはずの本能が、警告を告げた。
「ごきげんうるわしゅう、ギャルソン」
重厚ながら使いやすい扉を開くと、その予感が現実に変わった。悪夢とまがうほどの紅い部屋。
足の踏み場も、なんなら息をするための酸素もないほど――空間を埋め尽くすレッドローズ。未だ固い蕾から、丁度咲き誇り匂い立つ満開の花――そして、開ききった大きなそれには、食べられてしまいそうだった。
「すっごい……匂い、だね」
呼吸の度に送り込まれる、ダマスク・クラシック、ティ、ミルラ、ダマスク・モダン。気を落ち着けるはずの花の香は、鎮静されるというより、粛清されている気分になった。
DIOの腕から逃れようと一歩踏み出せば、生々しくも儚い、花を踏みにじる感触が靴底から伝わった。鳥肌が立った。
「あーあ、本が埋まっちゃってるよ。どこにあると思う?」
不快感を誤魔化すように、DIOに話しかける。内容はなんでもよかった。ご丁寧にテーブルや椅子の上にも散らばっている薔薇の花に、俺はもう一度眉をひそめるほど、その時は余裕がなかったからだ。花を楽しむにも、余裕が必要だ。
「何を読んでいたのだ?」
薔薇の檻から本を奪い取って、ページをめくるDIO。パラパラと紙が舞う度に新たな波が部屋に起きた。それでも、もう気が触れてしまった鼻は、なんの匂いも関知しなかった。
「読めば分かるだろ?」
本があることがわかっているなら、こんなくだらないことをしなければいいのに。可愛いそうな、ジュリエット。
「――するとあなたは、人類を愛してはおられないな」
静かに読み上げる声は花びらを毟るような残酷さを湛え、抜粋した文章には悪意を感じた。
「公爵?などと宣うサン・フォン気取りはやめてくれ。俺は一刻だって、人類を傷つけてやろうという、下劣な意図をもったことはないよ――実際のはなし、人類ほど恐ろしい種族はない。……なんといいう低劣、なんたる卑しさ、」
そこまで言って、俺は口を閉じた。読みかけの本を演じてまで、この男との会話を続けたいだろうか。聞かれてしまえば、答えはNOだ。
「それが貴様の罪だ」
しかし、人外は人外らしい奇妙な笑みに、満たされる何かをこらえるかのように目を細めた。
俺はこいつのこの顔が、嫌いだ。閉じたはずの唇が、つい震えるほどに。
「俺がたとえ罪人だろうと、君に罰されるのはごめんだ。神がいるのなら聞き届けてくれ。与えよ、美徳の手中の死。俺の後見人には、独占者、男色家、淫売宿の主人――吸血鬼は、決してお選びにならないで下さい」
そして痙攣するように、俺の口角は上がった。
「――ああ、憎むべき堕落!人のわらうとき、いかに牝山羊に似たるか!」
DIOの嘲笑うように響く、叫び声。
その日は本当におかしな日だった。花の匂いに、酔ってでもいたんだろうか。
Happy Valentine!
「一目惚れ、というのはよく分からないが、更に私は彼のことを知らない。つまり、そういうことなのだろうね」「完璧で、完璧であるがゆえに完璧になりきれない。それさえも、私の心を捉えて離さない。本当に……酷い方だ――」
「どんな理由だろうと、私は――」
1本の薔薇の意味。10本の薔薇の意味。溺れるほどの薔薇の意味。