青い夜と黒い海




 潮騒の音と白い月光が辺りを刺す。
 靴を脱ぎ捨てた青年は躊躇うことなく海水に身を沈めていき、その抵抗する水に喉を鳴らした。「ふ」、漏れた息と色素の薄い髪が夜が透けて、奇妙な色味が空に広がる。
 この日二人が海に濡れることになったのも、吸血鬼のいつものきまぐれだった。室内猫を散歩に連れ出すような、花を咲かせた植物に語りかけるような、そんな、きまぐれ。

 青年のよく知る真夏の夜は、まるで熱帯雨林の中に部屋が入り込んだのかと錯覚する――もちろん、本物の熱帯雨林に近づいたこともないのだけれど――ほど、水気をふくんだ茹だるような熱さだ。
 しかしDIOに連れ回されるそこは違う。空気は純粋なまでの熱、焦げ付くような熱気をはらみ、乾いた風が微かに海をすくう。するとそれは心地良い涼けさと、プランクトンの死臭を運んだ。月は作り物のように白い。その上、今にも世界を押し潰しにきそうなほど近かった。

「……願望が、そう見せるのかな」

 腰より上まで碧海に浸り、オペラは黒い水を両手ですくい上げた。火照った掌から熱を奪う小さな海。

「何か言ったか?」

 ざわめく水が二人を阻む。青年は曖昧に微笑んで、肺に酸素を蓄えた。

「オペラ」

 そして己の名が耳に届く前に、とぷりと海に沈む。
 素足の指に心地良い細やかな砂底を蹴って泳ぎ始めると、シャツと海水がまとわりつく。それさえも快然と受け止め、薄い瞼を持ち上げた。すると、暗い水にいきものが過ぎり、汐が目に染みた。
 オペラはところ得た魚のように、深みを目指して遊弋していく。白い爪先が水を切る度、色を失った唇が酸素を零す度、小魚の眼前には水泡が浮かんだ。

このまま――、溺れたしまいたいね

 瞳が、皮膚が、海色に染まればいいのに、と。
 どれぐらい潜っていたのだろうか。体力に自信のない彼の限界はとっくに過ぎていたが、それでも乾きが癒えない今、まだ水面に戻ろうとしなかった。あの吸血鬼も、飢えるときはこんな気分なのだろうか。青年は感傷的に鼻先で笑った。
 そして気付くのは、いつもは伸ばされるあの腕が無いこと。
 青年は勢い良く水の底から浮上して、波打ち際で悠然と腕を組む吸血鬼の目を見る。息苦しさはなかったはずなのに、体は酸素を求め、オペラの薄い肩は荒い息とともに上下する。

「……追って、こないの?」
「……追ってほしいのか」

 予想通りの返答だ。オペラとしても、吸血鬼のその問いかけの返答が欲しかった。分からないのだ。
 どうしたいんだろう、と唇を震わせ、渚に向かいもう一度足を動かす。数メートル泳げば、すぐに底に足が付く。海の深みは、いつも突然訪れるのだ。

「ねえ、君ってさ」

 それまで通りだと、容易に一歩踏み入ってしまえば――。
 波が止んだ。時が止まったような、静けさ。
 星も瞬かない。花は閉じた。月は落ちるのを放棄して、夜は、一刹那、朝を諦めた。

「もしかして泳げない?このままだと俺は、闇と海に紛れて逃げてしまうかもしれないよ」

 静寂を破るように誂えば、いつの間にか青年の額には、DIOの美しい顔が寄り添っていた。
 何が起こったのか分からないうちに腰に回された逞しい腕と、咽返るようなのに決して不快に感じないココナッツミルクに似た体臭、

「馬鹿な、ことを」

 そして甘やかな重低音は、海に浸りきっていた青年の五感を一気に覆す。
 主の気分に左右される穏やかな毎日、飼い慣らされた人間はふと目を細めた。





「このDIOが泳げないなどと。きみは神が溺れるのを見たことがあるのかい?」
「そっちに食い付くってことは、やっぱり泳げないんだね」
「自意識の過剰肥大もいい加減にするんだな」

 オペラは声を張り上げそうになるのを堪えながらくすくす窃笑し、恋人にするように吸血鬼の頬を撫でた。
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