青年アリスと泡沫の日々 口腔に、甘酸っぱく、瑞々しい味わいが広がる。
こんなにも毒々しいルビー色をしているくせに、口に含むとなんて儚い。曖昧で表現に困る味の、腹にたまるわけでもない果実。
俺は温室に生っていた柘榴を片手に、もう一方では本を開きながら、薄闇の廊下を進んでいた。前を見なくとも平気な程すっかり歩き慣れた館内は相変わらずの静寂で、紙を捲る音と、なめし革のような艶を持つ床を俺の靴が鳴らす乾いた音、それだけがやけに耳に届く。
いや、違う。
旋律が響き渡る。それは音というより振動で、鼓膜よりも瞳を先に震わせた。耳の聞こえない音楽家は、睫毛で音を感じるのだという。
音の元は、廊下の端に見える礼拝堂だろう。
トロイメライ。感傷に浸る暇さえ与えない、圧倒的な美しさを湛えたそれは、実際の距離よりもずっと遠くから聞こえるようで。けれどその力強い音は、背骨から指先まで痺れさせる――あの吸血鬼の声によく似ている。
俺はそう思う自分が酷く疎ましくて、もう一度柘榴に齧りついた。
「オペラ」
いつの間にか、俺は礼拝堂の前にいた。
この館はおかしい。時間が、空間が、人間が、全てが狂っている。
有無を言わせない柔らかな声で俺を呼ぶ件の吸血鬼は随分とご機嫌麗しいようで、いつになく歪んだ笑みを浮かべて人差し指を二度三度屈伸させた。
その間も片手はパイプオルガンの上。
多くの血を吸った指先が奏でる、敬虔で透徹とした素晴らしいメロディ。ああ、狂ってる!
「……ギャルソン、今宵は随分と気分が優れないようだな」
招かれるまま俺は、DIOの座る椅子の隣に腰を掛け、鍛え上げられた肩に頭を預ける。
くらくらするような甘い体臭。膝に開いた本の中身は頭に入らない。柘榴を一粒もいで口にしても、なにかで読んだように紅玉を舌の上で転がしているような感覚に陥った。
なんの味もしない。
あれは少年アリスの夢だった。ではこれは。誰の夢?
「俺は……起きてる?」
見上げる吸血鬼の金糸は、開け放たれたステンドグラスから差し込む月光にきら、きら、きら。神々しくて反吐が出る。音が止んだ。
「さあ、どうだろう」
嘲るような、慈しむような、やっぱり彼は神様なんだろうか。
頭を撫でられ、頬に手が添えられる。
柘榴色の瞳が、ゆっくりと近付いてきて――
「はい、あーん」
俺はもう一粒果実を指先につまみ、赤い唇に押し当てた。
吸血鬼は軽く目を竦めてから唇を開き、舌で柘榴を絡めとる。尖った犬歯が指に食い込む。人差し指が唾液まみれになるほど丹念に舐られた。吸血鬼の口の内は、想像よりもずっと暖かくて湿っていた。
濡れた指を口に含んでも、やはりなんの味もしない。DIOは俺の手からもう半分ほどしか残っていない柘榴を奪って、こちらに見せつけるようにそれに歯を立てた。
鍵盤に、開いた活字に、俺の頬に飛沫が飛んだ。
「甘いな」
吸血鬼の口角から、透明に赤い汁が伝う。
「そうか?」
俺はそれを舐めとるように顎に舌を這わせ、そのまま唇を重ねる。熱い。なにもかもが、焼けるように熱かった。
交差する唾液は無味無臭。あれおかしいな。そうだっただろうか。こいつとのキスはそんな、こんな、
「DIO……」
脳が焼け切れるような快感と、熱量を持っていただろうか。
もっと、血腥くて、もっと、甘い、
煮詰めた柘榴のようだった
吐息を漏らしながら体を離し、妖艶な視線。
「……アハハハハハハッ!! DIOすごい顔! アハハ、フ、ハハ、面白ーい!」
それも一瞬だ。
人形のようになんの感情も表に出さなかったオペラが、急に腹を抱えて笑い出す。重ねられた唇からは、甘ったるいだけのアルコールの匂いがした。
「オペラ……貴様、酔っているな」
こちらが唸ってみせると、まるで穢れ無き乙女のようにきょとんと目を丸くして――どうせまた忘れてしまうのなら、押し倒してやろうか。しかしそれも面白くない。行為よりも、それで崩れたこいつが楽しいのだから。
「……熱い。脱ぐ。ボタン開かない」
「無理に引っ張るな、馬鹿者」
まるで子供だ。酔っぱらいというのはどんな最愛の存在だろうとたちが悪い。
俺はやれやれと頭に手を添えてから、手元をまごつかせるオペラの両手を掴む。そうして瞳を覗きこんでやると、男はニンマリと笑みを浮かべた。
「DIO、DIO、俺はね、」
遊園地にはしゃぐような甘ったれた口ぶり。声に変化はないはずで、それでも話し方だけでこんなにも印象が変わるのか。鼓膜に絡みつく糖蜜の声。
耳を傾けてはいけないと、本能が騒いだ。未来の己からの警告のようにも思える。
けれど耳を塞ぐにも、
「嫌いになりきれない君が、憎くて仕方ないよ」
両手は。
「DIO。ハレルヤ弾いて、ハレルヤ」