ある夢とある歌と

とある夢とある歌


 溺死体から、ずるりと吸血鬼の指が抜ける。支えをなくした青年の体は、あっけなく大理石の床に伏せた。広がるチェスナットブラウンの髪。
 『彼』はまだ来ない。

「もう壊してしまわれたのですか」

 執事の冷ややかな声が、怖気立つほどの静寂を破る。
 悲嘆も憐憫も悔恨も感じさせない響きに、今回の役はただの話し相手だったのかと、DIOは一人納得をした。一つ前の執事はこの瞬間、目を一杯に見開いて取り澄ました顔を歪めた。それから、呪詛のように「まだ――でしたのに」とだけ声を絞り出したのだった。

 変わるものだな。
 憐れむように、吸血鬼は口角を上げる。
 けれど、すぐに気付いてしまう。
 この身に堕ちて呼吸の必要性は失せたのに、吸血鬼は人間だった時分よりも生きることが辛く、惨めで、忘れることを乞うほどに飢えている。はやく、はやく――。

「『赤の王』よ」

 苦悶に歪みなにかに焦がれる、悩ましい声が吐き捨てられた。
 かの青年がいなければ、息をするのもままならないなんて。

「さぞや、滑稽だろうな」

 幾度でも繰り返されるありふれた悲喜劇。夜の帝王と呼ばれた男も、いまや演者の一人にすぎない。
 舞台は憎悪、思慕、友愛、不毛なやりとり――全ての大罪が閉じ込められたこの館。『赤の王の夢』、言うなればそれは世界の玩具箱。まるで、パンドラの匣のよう。
 そんな神秘も蓋を開けてしまえばただのスタンドだ。誰のものかも分からない、遺物と化した能力。もしかしたら、『館』自体がスタンドの本体なのかもしれない。
 なんにせよ、赤の王が望んだものは死せども消えども絶望に沈もうとも、王が飽きるまでキッチン・シンクを演じ続ける他ないのだ。

 闇の褥で吸血鬼は夢を見る。
 在りし日に交わした、誓いと呼ぶのも躊躇われるその場限りの口約束。

「まるで悪夢だ。来る日も来る日も死体が増えて消えて……俺もいつか、消えてしまえばいいのに」

 シーツはいつだってシミ一つなく白い。横たわる青年は、その上にミルクをこぼすように言葉を紡いだ。甘い声だ。

「では、これは誰の夢だ?」

 青年に覆いかぶさる吸血鬼は、その美しいかんばせに笑みを乗せた。頬にかかる金糸は太陽を糸にしたように眩しく、オペラは少しだけ目をすくめた。本当に、悪夢のように美しい。

「俺の夢だよ。だって――」

 ポットから直接ミルクを飲むように、音になる寸前の言葉を掬って舌で味わう。淫猥な水音と体。それと反比例して、青年の瞳はゆっくりと冷めていく。

「貴様は無意識的にこうされるのを望んでいるのか? 男に組み伏せられ、拒む唇を舌で割り開かれるのを、オペラ、きみは」

「誰の夢だろうな」

 ようやく開放されたかと思えば、とんだ濡れ衣だ。夢が実現されえぬ欲望を描いたものだなんて、オペラは信じてはいなかった。けれど知識としては脳の片隅にあった。ゆえに彼は、質問から間髪置かずに否定を示した。
 DIOが楽しそうに喉の奥を鳴らした。雄として最上位にいる彼は、笑み一つで誰をも跪かせることが出来るだろう。勿論例外はいる。 

「『赤の王』。わたしたちは、かの御手の上にいるだけ」

「わたしの涙は偽物なんかじゃないわ! ……なんてね。そう、赤の王、赤の王ね……それじゃあ君は名前を忘れたアリスかい?」

 赤い星とその仲間、

「残念なことに、ここでは捕食者と被捕食者は相容れないのだろう?」

 そしてこの青年は、死ぬまで膝を折ることはなかった。

「絶対にね。そうだ、相容れる森を見つけたら起こしてあげるから」

 それまで眠っていなよ。
 そんな、夢を見た。

 話を件のスタンドへと戻そう。攻撃力は一切ないその能力は、答えを求めるように同じ劇を繰り返し、そして試行錯誤が行われる。
 ある時は青年はそれまでの劇を全て覚えていた。ある時は、吸血鬼は己の名さえ思い出せなかった。またある時は、青年は吸血鬼を心から愛する狂人だった。青年は姿を変え、吸血鬼は記憶を変え、執事や神父の役も変わり続けた。
 館はなにを望むのか。
 否、これは、誰の夢なのか。

 青年は夢を見る。
 目を覚ましてしまえば、大方は忘却の彼方に消えてしまうそれ。記憶に残るのは、水の苦しさ。それと血生臭い口吻、「愛している」だなんて、安っぽい囁きだけ。
 青年は夢を見た。
 見慣れた自分の右手が、一握の砂を老婆から受け取る。いや、それは灰。王の、遺灰だ。

「ああ……やっと、やっと見つけた。きみは、ずっと俺だけを待っていてくれたんだね」

 『赤の王の夢』は夢の中での名前。

「DIO」

 正しくは――『ザ・ワールド・レクイエム』。安寧を求めた吸血鬼の最後の悪足掻き。

「遅くなったけど、起こしにきたよ」

 真昼でも日の差し込まない深い森で眠りについていた彼を抱き締めるのは、己の精神体。自らで自分を抱く姿は酷く哀れで滑稽だ。

「オペラ」

 世界に愛された赤い瞳が、青年の顔を映しこむ。その表情は心からの慈しみと、親愛が浮かべられていた。
 そして琥珀の目には、隠しきれない思慕の念が。
 吸血鬼の眠りは只十数年、しかしその間に吸血鬼と青年は幾千の逢瀬を重ね、幾万の憎悪で互いを傷つけ、幾許かの愛を語った。百遍殺され、千編の愛憎を贈り、ようやく、ここにたどり着く。

「もう一度だけ、愛してくれる?」

 DIOは言葉よりも早く、オペラの体をかき抱いた。
 パンドラの箱から溢れた絶望は世界を覆う。しかれど最後に残るのは『希望』。すがるには儚く小さな輝きだが、確かに、吸血鬼の腕の中にあった。

「やっと、本当の君に出会えた」

 けれどこれも、赤の王の夢の一つ。


愉英雨は降り続く


 『花』とはなにか、『雨』とはなにか。
 誰も彼も、自分が望むものが分からない。役割が分からない。
 だからこそ、雨の底でもがきあがく他ないのだ。
[ 7/37 ]
[*prev] [next#]
[ back to top ]
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -