ブラックアウト

 怖い。

「貴様が、ジョースターについたという小娘か?」

 いやだ怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。

「ふ」

 怖い。

「そう怯えることはない」

 父親が幼い子供に言い聞かせるときのような、穏やかで、それでいて有無を言わせない声が、鼓膜を柔らかく叩いた。
 縛り上げられた手首の痛みも忘れるような恐怖と、息をする暇さえ厭わしい程の絶望。瞳を覆う涙が、落ちる前に乾いていく。代わりとばかりに、床には胃液が滴った。

「ふむ。小娘の割には、なかなか綺麗な髪をしているじゃあないか」

 今にも崩れ落ちそうな私の態度を気にもかけず、『DIO』は赤い唇に微笑みをたたえたまま、ゆっくりとこちらに近づいてくる。一歩ずつ、ヤツが階段を降りるたび、心臓の鼓動は加速を増す。気持ちが悪い。もう吐くモノもない胃から、なにかがこみ上げては床に落ちた。
 頭が重くて、支えていることもできない。

「エリザ」

 背中を撫でる、暖かいてのひら。隣に立つおじさんが、心配そうな顔をしている――のだと思う。いまの私は、視線を上げることさえままならなかった。気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。もうここには居たくない。泣いて終わるのなら、乞いて許されるのなら、いますぐにでもその方法を教えて欲しい。
 そんな情けない考えで頭をいっぱいにしていると、 

「悪くない」

 いつの間にか目の前にいた『吸血鬼』の指が、髪に絡まった。

「――ッ!」

 その手を振り払うように顔を上げる。その時初めて、DIOの赤い赤い瞳と、目が合った。

「わたしは、君と友達になりたいだけなのだよ」

 とびっきり優しい声でそう囁く。それは血を固めたような赤い瞳と相まって、ひどく魅力的で、とても嘘臭く思えた。
 あたりは痛いほどの静寂で、横にいるはずのおじさんの呼吸音すら聞こえない。やたら仕立てのよい絨毯や、馬鹿みたいに高い天井が、すべてを吸い込んでしまっているのだろう。耳には、自分の荒い息づかいだけが届いた。世界に私一人だけみたいだ。
 それでも、もう泣くわけにはいかない。吐瀉物に塗れても、私は二度とこいつには屈さない。屈するわけにはいかない。
 一度は恐れてしまった自分に腹立ちながら、できるだけ深く息をつく。

「ふ」

 そして私は、男がさっきしたのと同じように鼻で笑って、

「くた、ばれ……ッ!」

 強張った顔の筋肉で無理やり、口角を上げてみせた。

「……ホルホース」
「はい」

 DIOの表情は変わらない。
 しばしらく席を外せ、と告げられたおじさんは、何かを言おうといくつかの言葉を吐くけれど、結局はDIOに一瞥され、渋々と扉の外に出ていった。

「さて、唯一の味方も、消えてしまったが」

 白くて冷たくて、まるで死人のような指が、私の顎をつかむ。「心細いか?」とにやつく男は、こんな時じゃなければ見惚れてしまいそうに美しい。 

「元から、おじさんに期待なんかしてない」
「随分だな。やつはそれなりに、貴様を守ろうとしていたぞ」
「へえ」

 ひざが笑う。飲み込まれそうな緋の目。
 出来るだけ気丈に振る舞うが、それでもバレているのだろう。慄える体が、疎ましくて仕方がない。
 顔が近づいてくる。
 拒否の言葉も出ない。
 まつげが、重なる。
 あと紙一重――、DIOが、喉の奥で笑う。

「キスでも、されると思ったか?」
「そんな、余裕ない」

 ……しまった。ちからいっぱい負けを宣言してしまった気がする。
 表情からそれが伝わったのか、DIOの表情がさらに愉快そうに歪んだ。腹立つ。

「そういう意味じゃ、」

 言い訳にもならない言い訳を続けようとすると、再び男の顔がぐっと近づいて、

「くだらない、女だな」

 次の瞬間、目の前が『黒』で塗りつぶされた。
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