花よりも人こそあだになりにけれ いづれを先に恋ひんとか見し
一、母九尾の妖狐の呪(まじな)い
一、赤目の鬼神の呪(のろ)い
一、千年生きた白蛇の障り
琥珀を瞳に持つ陰陽師に科せられた、愛と執着で綯われた綱。死ぬことも愛することも人として生きることも叶わず、瞼越しに見えるあやかしに怯えながら――それでも男は歩みをやめない。
平安の都を外れ、目的もなく旅を続ける。瞑目の陰陽師は野に咲く花の鮮色も空の青さと高さも知らず、ただ気配と魑魅魍魎が跋扈する視界。草熱れの青い匂いが鼻につく、真夏のある日のことだった。
「お前なんか、産まなければよかった!」
空を切る、女の嫋やかな手と甲高い声。
寂れた村のやせ細った子どもに、振り下ろされるまさにその瞬間。
「――うつくしい方」
その掌を、男は包み込むように制止する。滑らかな動き、そして浮かぶ笑みは艶然としたもので、まるで舞の一挙動のようだ。
「しかれどその顔は、見るに堪えない」
まことに醜悪と、閉じた瞳が歪められた。童子を庇うように立ちはだかった狩衣に、女は青白い頬をかっと赤くした。握られた手を腹立たしげに引いて、白面を睨みつける。
「気安く触らないでちょうだい! それにそいつがいる所為で、どれだけあたしが苦しんだと思うんだい。横から出てきて口を挟まないでおくれ!」
「剣呑剣呑。そう怒鳴らないでください。子どもが怯えています」
口元を檜扇で隠してはいるが、彼の表情は変わらず、能面に似た笑みが刻まれている。
気に障る男、どこの偉方か知らないが、なんて煩わしい。そんな言葉が浮かんでいるような女の表情。剣幕はどこかへ、しかし嫌悪は、先程より色濃く現れだした。
それさえどこ吹く風。男は童子の丸い頭にそっと手を重ね、労るように撫でる。
「きれいな色。金色(こんじき)、お日様の色、だね」
しかし童子も、このやりとりを受けて眉一つ動かさない。虚ろな緑の目。よく見れば童子というには育ち過ぎで――十を超えたばかりだろうか――ろくなものを食べていないのか、痩せに痩せた体が、彼を小さく見せていた。
「ああもう……ッ!さっさとどっかに行っておくれよ!なんなら、その神落としも連れていけばいいさ」
「神落とし」
この男が女を止めたのは、義憤に駆られたからではなかった。ただ、捨て置けなかった。男の考えはそれだけで、この場さえ終いに出来ればよかったのである。
けれど、¨神落とし¨なる言葉を聞いて、微かに表情が曇る。
「そう……君も、神隠しから帰って来た子なのだね」
神に迎えられたことは、鬼神信仰の強いこの地方では喜ばしいこととされていた。しかしそれが帰って来たとなると――。
「まったくいい迷惑よ! 髪も目も、そんなけったいな色になっちまってさぁ」
不浄なる子、神の落とし子として、軽蔑や侮蔑の対象になった。この貧しい親子が、この閉鎖的な村でどんな扱いにあったか。陰陽師には、それが嫌というほど分かった。
そして神隠しにあった人間は、この子供のように目や髪の色が変わったり、常人ならざる力を手にすることもあるという。
暫し陰陽師が目を伏せ何かを考えていると、女は長い髪を掻き毟り、降り乱し、ああ厭だ厭だとわめき散らしながら、彼と子供に背を向けた。
「はァん……」
陰陽師はその後ろ姿を見据え、仔細顔をした。そして檜扇を、ぱちりと畳む。目線を下げれば、金色の髪と鮮やかな緑の瞳。伺う様に、そんな華やかな子供の顔を覗き込んだ。屈めた際に、男の色素の薄い髪がさらさらと揺れる。
「君の名は?」
かくも花に似たる笑みがあろうか。童子は幼いながら、己の心臓がはじめて脈打つのを感じた。痛みや苦しみなど容易に凌駕する、圧倒的な力。
「僕の、名は……」
惨い惨いと蝉が鳴いた。人を己を不条理を、憐れむような悲鳴!
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