黒揚羽
蝶だ。
それはまごうことなき黒揚羽であった。
ちらちらと鱗粉を撒き散らし、それを日の光に煌めかせながら、ワルツを踊る様にゆらゆらと境内の空を揺れる。ーー私はこの神社と言う土地があまり得意ではなかったが、かといって約束の場所を違うほど、赤い鳥居を厭うていたわけではない。広い神社の中でも、この場所の大多数を閉めるのは、静寂である。
それを、紗幕がかった瞳で見つめる、一人の婦人。結い上げた色素の薄い髪。さぞや名のある家の令嬢なのだと思わせる仕立てのいい絹の服と、気品滲み出る立ち姿。
そして蝶は花に惹かれる様に、水を掬う形で広げられた令嬢の白い手にとまった。その令嬢の横顔は花よりも尚甘やかなのだから、それもしようのないことだったのだろう。然し乍ら、とまったと言う言葉は適切ではなかった。訂正するのならば、堕ちたと言う方が似つかわしく、それと言うのも、黒き羽根の蝶々はひどく衰弱していて、もうその花の蜜を口にするのが最後の晩餐であろうと容易に想像が出来たからだ。
するとどうだろう。令嬢は手中に収まった揚羽をみて、ピエタの聖母もかくやと、笑みを浮かべた。しかもその慈愛と慈しみに満ちた神々しいまでの微笑みのまま、くしゃりと、蝶を握りつぶすのだ。
あゝ、もの狂いか。
砂糖菓子に似た指の間から、はらはらと落ちる羽根は、夜のかけらにさえ劣れど、如何にも美しく、如何にも夢の中のようだった。彼女の目を奪う美しさは常人の麗しさではない、神懸かりの、狂人のそれであったのだ。
通りで、人待ちにベンチに座るこの私を、見ようともしない。
「随分と、残酷な真似をする」
足を組み直して声を掛けると、狂女は薄い肩を微か弾ませた。怯えるくらいならば、死なぞに歩み寄らなければよいものを。
「このてふは、苦しんでいたよ」
子供の言い訳は、たとえのようのない透き通った声に、それこそ子供のような言葉遣いを乗せて、私の鼓膜にそっと触れた。
この女の残酷さは、甚く滑稽だ。
「名は?」
口を曲げて問えば――琥珀色の瞳が、俺をとらえる。それはひどく理性的で、ひどく退屈をしていた。
「……嫌ですわ。黙って見ているなんて、お人の悪い」
一転、楚々とした貞淑なる婦人に変わった女は、微笑みを浮かべてから幾度か手をはたき、握内に残った蝶の残滓を払う。思えば、手袋もしていないではないか。
「急に手の上とまったものだから、驚愕(びっくり)してしまって。この方には、悪いことをしてしまいましたわ」
その剥き出しの指先で、
「ねえ、貴方。このことは、私と貴方の、秘め事と致しません?」
白粉を塗るように、私の頬を撫で上げた。
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