帰国したばかりの僕の耳には、実に奇妙な単語が度々届いた。
くそったれの仗助のお陰で連載を一周空けてしまうという失態をしたが、描き溜めておいた為その程度ですんだ。この際だとばかりに飛んだイタリアは僕の知識欲をほどよく満たしてくれた。それに町並みが変わるとそれだけでアイディアがいくらでも湧いてきた。
さて、話を戻そう。
耳にする言葉というのは――、『王子』。この平成の世に王子と呼ばれるのはイギリスなんかにいる本物か、それでなければそれなりのルックスでそれなりの年齢でそれなりの実績を残したスポーツ選手かなにかだろう。
しかし噂に耳を立ててみれば、そういうものとはまた違うらしい。
「ねェねェ、見た? 聞いた? 聞いた?」
「見た〜〜〜ッ! 本当にキレイな顔ね! ぶどうが丘の子が羨ましくなっちゃうくらい!」
「聞いた〜〜ッ! 本当に綺麗な声ね!あれでボーカルじゃあないんでしょ、勿体無いわよね、伊達じゃあないわよねぇ!」
「聞いたわ聞いたわ、優しいんだってね! あのおっきくて真っ黒で切れ長な目をうるうるさせて、困ってると手を貸してくれるらしいわよ!」
「も〜〜〜〜ッ! ホントに『王子』!」
なんとも、珍妙とでもいうのだろうか。
しかも、この手の噂の出処。一つじゃあない。少し人の集まる場所に足を運べば、少なくとも二度三度は『王子』の話を聞くことが出来た。
そう寂れていないはずのベッドタウン、ここS市で、若い女性のだけとは言え一帯の話題を一人の人間がさらうというのは、漫画家として中々興味深い。
今のところ集まっている情報は、ぶどうがおか高校に通う『王子』は、鄙稀に見る白皙の美貌と例えることも出来ない程の美声を持ち、更には性格は多少臆病ながら困っている人には手を差し伸べずにはいられない優しささえも持つ。
かと言って柔和なだけでなく、元来の性格は人好きのする明るい性質で、友人とバンド活動をしているそうだ。こんな中途半端な時期に話題になるのも、その活動でアメリカに渡っていたからで、そのバンドが出るイベントのチケットは、インディーズながら発売日から飛ぶように売れ――。
「……あァ?」
ノートに一つ一つ上げてみると、いかにその人物がリアリティのない存在か分かる。
艷やかな漆黒の髪はまるで夜そのもののように清廉としていて、その長い髪を靡かせ長い手足を動かす姿はさながら中世の騎士――ちょっと待て、王子じゃあなかったのか王子じゃ。
瞳は烏羽玉、磨き上げた漆塗り、いやブラックダイヤモンドだってコト足りない。烟る睫毛に囲まれたそれを讃えるには、数え切れない修飾語と美辞麗句を重ねあわせてもまだ足りない。
「あり得ない、な」
そんな人間、この身に備わった不思議な能力よりも現実的でない。
僕はいつの間にか文字だらけになったスケッチブックを閉じて、冷めてしまったドゥ・マゴオリジナルブレンドの紅茶を飲んだ。いつ来ても混んでいるが、ここの紅茶やケーキは確かに美味い。ネタになりそうなものも拾えるし、末永く繁盛してもらいたいものだ。
さて、隣のテーブルを囲う女子学生達はもう別の話題に花を咲かせているし、きっと『王子』とやらも数多くある都市伝説と呼ばれる与太話の一つか、あるいは膨らみに膨らんで取り返しがつかなくなってしまった噂話だろう。
そう納得して帰り支度をしていると、
「ねェ、あれ」
「ねェ、そうよね」
「え? あれが?」
それは姿を現した。
ざわめきは一気に熱を増し、そしてしんと静まり返った。
白い肌の少年が黒い髪をたなびかせながら、逃げるようにこちらに走ってくる。まるで無声映画のようだ。噂の瞳には、今にも零れ落ちそうなほど涙が湛えられている。
それが横を通りすがる瞬間、僕は咄嗟に手を伸ばして、追いすがるように白い腕を掴んだ。
「ッ!」
それはこちらを振り返り悲鳴を飲んだかと思うと、すぐにその引きつった顔を前に向け再び走りはじめた。僕は引きずられるまま、それに付いて行く。
なんだ、これは。
なんなんだ。
「――なん、なんですか、あなた……ッ!」
足を止めたそれは身を翻し、ようやくその目に僕を映した。
なんなんですか、だと。なんなんですか。なんなんですか!?
「僕が聞きたい!」
『きみ』は、なんだ!
「え!? ええッ! な、なんか……ごめんなさい……!」
あれだけ、いやどれだけ走ったのかは記憶にないがこちらの息は既に上がりきっているのに、目の前の『王子』とやらの頬はいまだ白く、白く、ああ、もうなんだっていうんだ!
「い、いや……わ、私悪くないよね。え、えぇ〜?」
膝に手を吐いて何度も荒く呼吸を繰り返している間も、僕の右手はそれの腕を掴んで離さない。
ぶつぶつと呟く言葉は耳に意味をなして届かないが、その声の美しさだけは理解できた。なんだ。この生き物はなんだ。運動不足からだけじゃない心臓のうるささに目眩がする。
「……もしもーし」
体が高揚と畏怖に震え、歯の根が合わない。
「あの……お兄さぁん?」
瞳は魔に魅入られたように逸らせず、法悦の笑みが自然と唇に浮かぶ。
「……」
どうすればこれは描けるのか。どうすればこんなものが生まれるのか。どうやってこれは生きてきた。どうやって生きていくのか。何をなして何を望むのか。
「……助けて、仗助」
「何故泣くんだ!」
「泣きたくもなるよ! 会話しようよ頼むから!」
知りたいという欲を恋と呼ぶのなら、この感情は間違いなく――熱烈な恋慕だ!
(移動2013/8/24)